標高ゼロメートルのベースキャンプ
完全に趣味のエア山登りを短編で書いたのですが、やっぱり連載してガッツリ書きたいと思いました。よろしくお願いします。
シングルバーナーの青い炎が、チリチリと心地よい音を立ててケトルの底を炙っている。
ここは私立・桜ヶ丘女学院の旧校舎三階、山岳部部室。
壁には年代物のピッケルや色褪せた二万五千分の一の地形図が飾られているが、中央の長机の上を占領しているのは、銀座の高級パティスリーの限定マカロンと、甘い香りを漂わせるウェッジウッドのティーカップだった。
「……うん、やっぱり山で飲む紅茶は最高だねぇ」
年季の入ったバーナーの五徳の上からケトルを下ろし、穂乃果がふにゃりと頬を緩める。
その向かいで、幼馴染の美咲がスマホの画面から目を離さずに冷ややかなツッコミを入れた。
「穂乃果、ここ標高ゼロメートルの部室だけどね。しかも、お湯を沸かしてるのはエベレスト遠征用のチタンケトルなのに、飲むのはお嬢様仕様のティーカップっていうこの空間のバグ、そろそろ直さない?」
山岳部部長の穂乃果は、両親ともにヒマラヤの未踏峰に挑み続ける世界的なアルピニストだ。部室にある傷だらけのチタンマグや、使い込まれたシングルバーナーもすべて実家の余り物である。
幼い頃から親の背中を必死に追いかけるスパルタ山行に引きずり回された彼女は、高校に入ると同時にプツリと糸が切れた。「自分のペースで歩けない山なんて、もうこりごり。山は中腹の茶屋で団子を食べて帰るもの!」という独自のゆるい哲学を打ち立て、この日当たりのいい旧校舎の部室を『自分たちのペースでくつろげる聖域』にしていたのだ。
「まあまあ、美咲さん。道具は一流、中身は優雅。これぞ私たち桜ヶ丘山岳部のスタイルですわ」
おっとりとした微笑みを浮かべるのは、国内屈指の財閥・白鳥グループの令嬢である麗華だ。
彼女が部室に持参する「行動食」はいつも一粒千円越えの高級ショコラで、部室の隅には彼女がポケットマネー(という名のスポンサー費)で購入した、プロ仕様の厳冬期用・超軽量テントが、鮮やかな黄色の収納袋に入ったまま未開封で鎮座している。
「ちなみに今週末の『高尾山・秋のスイーツ縦走計画』ですけれど、下山後の疲労回復のために、麓の三つ星イタリアンを貸し切りにしておきましたわ。もちろん、山頂まではリフトとケーブルカーをフル活用いたしますわよ」
「さすが麗華ちゃん! 完璧なルートファインディングだね!」
「それルートファインディングじゃなくて、ただの観光ガイドだからね?」
三人の活動といえば、放課後にバーナーでお湯を沸かしてお茶を飲み、月に一度、文明の利器を駆使して近隣の低山を散歩することだけ。
誰にも邪魔されず、重い荷物に喘ぐこともない、ぬるま湯のような平和な楽園。
――だが、その楽園に突如として落石警報が鳴り響いた。
カツ、カツ、カツ……。
木造の古い階段を上がってくる、規則正しく、一切の無駄がない硬い足音。
「……っ、この足音のリズム。生徒会書記の氷室さんだ!」
穂乃果の表情が、コンマ一秒で「お茶会モード」から「遭難対策モード」へと切り替わった。
旧校舎での無許可の火気使用は、見つかれば即刻廃部案件である。
「美咲、収納! 麗華ちゃん、カモフラージュと香りの上書き! 私は気流を作る!」
「「了解!」」
普段のゆるさが嘘のような、驚異的な連携だった。
穂乃果が素早くバーナーのコックをひねって消火すると同時に、窓の下半分を五センチ開け、反対側の廊下上の欄間を細く開けた。温度差を利用した『チムニー効果(煙突効果)』で、室内の暖まった空気と微かなガス臭を一瞬で窓の外へと吸い出していく。親から叩き込まれた山岳気象の知識の、恐るべき無駄遣いだった。
同時に、美咲が革手袋を使って熱々のバーナーごと金属製のバケツを逆さまに被せ、麗華がその上にレースのテーブルクロスを優雅に広げて、ティーポットに通常の倍のアールグレイの茶葉と熱湯を注ぎ込んだ。
直後、ガラッ! と引き戸が開き、銀縁眼鏡を光らせた生徒会書記・氷室が冷徹な視線とともに足を踏み入れた。
「失礼します、山岳部。……? なんだか今、少し焦げたような、ガスのような匂いはしませんでしたか?」
氷室が鋭く鼻をひくつかせる。だが、室内の空気はすでに穂乃果の換気ルートによって入れ替わり、代わりに麗華が淹れたベルガモットの芳醇な香りが部屋中を満たしていた。
「あら、氷室さん。気のせいですわ! それより、この最高級アールグレイの香りをお嗅ぎになって? よろしければ一服いかがかしら」
「……結構です。給湯室の電気ケトルを使ったのなら問題ありませんが」
氷室はテーブルクロスの不自然な膨らみに一瞬だけ懐疑的な目を向けたものの、証拠がないと判断するやいなや、手元のバインダーから一枚の冷酷な通達書を突きつけた。
「本題に入ります。山岳部、現在の部員は二年生のあなたたち三名のみですね。先日の生徒会総会での規約改定により、来月末までに部員が『五名』に満たない部は、すべて『同好会』へ格下げ、および部室の即時明け渡しとなります」
「「「えええええっ!?」」」
三人の悲鳴が旧校舎の天井を揺らした。
「ま、待ってよ氷室さん! 同好会になったら、この部室は……!?」
「当然、没収です。ここは来期から、実績のあるディベート部の資料室になる予定ですので」
氷室は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、逃げ道を塞ぐように冷たく言葉を継いだ。
「言っておきますが、他の生徒から名前だけ借りる『幽霊部員』は一切認めません。部の存続条件として、来月から『毎月一度、部員五名全員が山頂標識とともに写った活動報告写真』の提出を義務付けます。画像のEXIFデータとGPS位置情報も生徒会で厳密に監査しますので、合成写真や麓での捏造は即座にバレると思ってください。……それでは、来月末を楽しみにしています」
ピシャリ、と引き戸が閉まり、規則正しい足音が遠ざかっていく。
残された部室には、紅茶の湯気だけがむなしく立ち上っていた。
「やだやだやだ! ここの日当たり、放課後の昼寝に最高なのに! 絶対渡したくない!」
美咲が長机に突っ伏してジタバタと足をばたつかせる。
穂乃果にとっても、ここは親のプレッシャーから逃れて初めて手に入れた、自分たちのペースで息ができる大切な場所だった。
「……仕方ありませんわね。生徒会を買収……いえ、学園に新しい温水プール付き体育館を寄付すれば、規約ごと揉み消していただけるかしら?」
「だめだよ麗華ちゃん、氷室さんにそんなこと言ったら余計に目を付けられるよ!」
穂乃果は立ち上がり、ぐっと拳を握りしめた。
「こうなったら、あと二人! 来月末までに、私たちと一緒に月イチのお散歩登山に行ってくれる新入部員をスカウトするしかない!」
こうして、ぬるま湯に浸かりきっていた三人の、決死の部室防衛戦が始まった。
……だが、この時の彼女たちはまだ知る由もなかった。このスカウトが、自分たちを「底知れぬ山の魔物」の懐へ、そして世界最高峰の絶壁へと引きずり込むトリガーになろうとは。
***
それから三週間後。
期限まで残り一週間となった十月下旬の放課後、三人は旧校舎の裏庭で完全に途方に暮れていた。
「……全滅、だね」
美咲が余った大量の勧誘ビラを抱えてため息をつく。
もともと箱入り娘が多い桜ヶ丘女学院において、「山岳部」という泥臭い響きは圧倒的に不人気だった。『月イチで高尾山にケーブルカーで登り、高級スイーツを食べるだけの簡単な部活です!』と宣伝しても、「なんだか裏がありそう」「日焼けしそう」と敬遠され、誰一人として部室のドアを叩く者はいなかったのだ。
「あと一週間で二人なんて、もう奇跡でも起きない限り……」
穂乃果が肩を落とし、旧校舎の壁際をトボトボと歩いていた、その時だった。
パラパラッ……と、頭上から乾いた赤土の破片が落ちてきて、穂乃果の鼻先をかすめた。
「え……? 雨?」
「いいえ、穂乃果さん。上ですわ……!」
麗華が息を呑み、日傘を傾けて頭上を指さした。
つられて見上げた穂乃果と美咲の目が、驚愕に見開かれる。
築八十年を数える旧校舎の北壁。目地のモルタルが風化してわずかに削れた、垂直のイギリス積みレンガ壁――その地上五メートル近い二階の高さに、一人の小柄な少女が張り付いていたのだ。
ロープ(命綱)はない。安全マットもない。
少女はローファーを脱ぎ捨てた裸足のつま先と、白く細い指先だけを、深さ数ミリしかないレンガのわずかな凹凸に引っ掛け、まるで重力という概念が存在しないかのようにスルスルと壁を登っていたのである。
「ちょ、ちょっと!! 危ないよ、落ちる!!」
穂乃果が反射的に駆け寄り、両手を広げて叫んだ。
すると、頭上の少女はピタリと動きを止め、うるさそうにチッと舌打ちをした。
次の瞬間、少女は飛び降りるのではなく、わずかな窓枠の突起と古い雨樋に手足をリズミカルに置き換え、まるで垂直の壁を歩く蜘蛛のように、わずか二秒で音もなく地面へとクライムダウン(下降)してみせたのだ。
「……なんだ、いいホールド(手がかり)を見つけたと思ったのに。ここも立ち入り禁止?」
制服のスカートに付いたレンガの粉をパンパンと払いながら、少女が不満げに唇を尖らせる。
小柄だが、ブレザーの上からでもわかるほど引き締まった背筋。そして何より、穂乃果をギョッとさせたのは、少女の指先だった。第一関節の皮が分厚くタコになり、白い炭酸マグネシウムの粉がうっすらと残っている。
(この子……ただの木登りじゃない。本物のクライマーだ!)
彼女の名は、一年生の橘アキラ。
のちに判明することだが、彼女はスポーツクライミングのユース世界大会を圧倒的なスコアで制し、次期オリンピックの金メダル最有力候補に名を連ねる天才少女だった。ただ、あまりにストイックで既存の枠に収まらない性格ゆえに、所属していた外部ジムのコーチと方針の違いで喧嘩別れし、鬱憤晴らしに校内の壁を勝手に登っていたらしい。
穂乃果と美咲が呆気にとられる横で、麗華の瞳がキラリと光った。
「あなた、素晴らしい指の保持力と体幹ですわね! まだ部活には入っていらっしゃらないのかしら?」
「部活? 入ってないけど。学校の運動部なんて、どこもぬるくて退屈だし」
「まあ、奇遇ですわね! でしたら、私たちの『山岳部』に入りませんこと? あなたが望むなら、世界中の最新クライミングギアをなんでも揃えて差し上げますわよ!」
麗華がここぞとばかりに財閥のカードを切る。
だが、アキラは高級ギアという言葉にはピクリとも反応せず、ただ「山岳部」という単語にだけ、獲物を探す猛禽類のように鋭い視線を向けた。
「ギアはどうでもいいけど……山岳部? ねえ、そこに入れば、プラスチックの人工壁じゃなくて、外の自然な岩を好きなだけ触れるの?」
「え? あ、うん! 山には岩、いっぱいあるよ! 高尾山の舗装路の脇とかにも……!」
穂乃果がしどろもどろになりながら頷くと、アキラはニヤリと獰猛に口角を上げた。
「ふぅん……なら、入ってやってもいいよ。私、橘アキラ。よろしくね、部長さん」
「や、やったー! これで四人目だよ、美咲、麗華ちゃん!」
無邪気に手を取り合って喜ぶ穂乃果たち。
だが、彼女たちは気づいていなかった。アキラが思い描いている「外の岩」と、自分たちがいつも歩いている「ケーブルカーと茶屋の山」との間に、標高差数千メートルにも及ぶ絶望的な認識のズレがあることに。
そして翌日、最後の五人目となる少女との出会いが、ゆるふわ山岳部の運命を決定的に狂わせることになる。
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