お嬢様は泥にまみれようとも
「きゃあっ……!?」
標高千五百メートル付近。尾根の難所『ヒルメシクイノタワ』を抜けた直後、木々が途切れて現れた高さ十メートルほどの急峻な露岩帯で、麗華の悲鳴が響いた。
前夜の夜露を含んだ赤土の粘土に足を取られ、麗華の高級トレッキングシューズがツルリと滑ったのだ。
とっさに目の前の冷たい岩角に両手でしがみついたものの、背中には十キロのザックがある。腕の力だけで体を支える不自然な体勢のまま、麗華はカエルのように岩肌に張り付いて動けなくなってしまった。
「れ、麗華ちゃん! 大丈夫!? 今すぐ下から支えるから……!」
「だ、だめですわ穂乃果さん! 下は泥の斜面ですもの、巻き込まれて一緒に滑り落ちてしまいますわ……っ!」
麗華の白い指先が、限界を迎えてプルプルと震えている。
本当なら、すぐ左横にある段差に右足を乗せれば抜け出せる。だが、その段差には黒く濁った泥水が溜まっており、そこに足を踏み込めば、特注のシルク混のタイツも、お気に入りのプリーツスカートも、泥まみれになってしまうのだ。
(わ、私は白鳥家の令嬢ですわよ……! こんな泥水の中に膝をつくなんて、絶対にあり得ませんわ……!)
無意識のプライドが足をすくませ、腕の筋肉が悲鳴を上げる。
その時、すでに岩場を軽々と登り切っていた一年生のアキラが、岩の上からひょいと顔を覗かせ、冷ややかな声で言った。
「――へぇ。白鳥財閥のお嬢様は、お金で世界中の最新ギアは買えても、自分の体を一メートル持ち上げる『足の重心移動』はお金じゃ買えないんだね」
「……なんですって?」
キッと見上げた麗華に、アキラは不敵な笑みを浮かべて言葉を継いだ。
「腕の力だけで岩にしがみついてたら、あと三十秒でパンプ(筋肉の限界)して落ちるよ。クライミングはね、腕で引くんじゃない、靴底のゴム(フリクション)を信じて足で立つスポーツなの。……ま、泥で服が汚れるのが怖いなら、上からロープでも垂らして引っ張り上げてあげようか?」
ピシリ、と麗華の脳内で何かが弾ける音がした。
屈辱で頬が熱くなると同時に、彼女の脳裏に、幼い頃から耳にタコができるほど叩き込まれた『白鳥家の家訓』が鮮烈にフラッシュバックする。
――『麗華、相場は地合いを読み、絶対に思い込みを捨てろ』
国内屈指の資産家である白鳥家だが、そのルーツは華族でも名門武家でもない。江戸時代、浅草・蔵前のちっぽけな『弱小札差(米仲買人)』から一代で成り上がった勝負師の家系だ。
だからこそ、白鳥家の教育は徹底した実力主義だった。
麗華が十歳の誕生日に両親から渡されたのは、お姫様のようなドレスではなく、百万円が入った一つの口座だけ。
『今後はすべて、この百万円を元手に自分で増やして必要なものを手に入れなさい。どんなに努力しても、良い地合いでなければ何も実らない。まずその場の風を読み、地合いを整えてから物事を進めなさい』
以来、麗華は世界中の株や為替、さらには地球規模の気圧配置や偏西風の蛇行データから穀物・エネルギー価格の変動を予測する『天候デリバティブ(気象先物取引)』の鉄火場に身を投じた。
そしてわずか数年で、百万円の種銭を数百億円へと化けさせ、ウォール街やロンドンのファンドマネージャーたちから『相場と風を読むことにかけては世界一』『初代札差の再来』と畏怖されるまでの怪物トレーダーへと成長していたのである。
部室の隅に置かれた厳冬期用のテントも、今日背負ってきた茶器も、親のスネをかじったものでは断じてない。すべて彼女が自らの頭脳で市場から狩り取った戦利品なのだ。
「……ふ、ふふっ。あたくしとしたことが、なんて愚かなトレードをしていましたの」
岩肌に張り付いたまま、麗華が突如としてくすくすと笑い出した。
下で見守っていた穂乃果と美咲が「えっ?」と目を丸くする。
「私の今日の目的は、五人で山頂に立ち、最高のお茶会を開くこと。それなのに『お嬢様らしく服を汚さずに登る』などというくだらない思い込み(サンクコスト)に縛られて、ロスカット(損切り)が遅れるなんて……初代のご先祖様に顔向けできませんわ!」
次の瞬間、麗華の瞳から迷いが消え、冷徹な勝負師の光が宿った。
麗華は片手を岩から離すと、なんと自分の高級スカートの裾で、靴底にこびりついていた滑る赤土をベチャッと大胆に拭い去ったのである。
「えっ、麗華ちゃん!? スカートが泥だらけに……!」
「ただの損切りですわ、美咲さん! それよりご覧なさい、この谷から吹き上げてくる『風』を!」
麗華は泥水を恐れず、左の段差へ深く右足を踏み込んだ。ドロリと泥が跳ねてタイツを汚すが、眉一つ動かさない。
彼女の視線は、下から吹き上げてくる冷たい谷風の通り道だけを正確に捉えていた。
「日陰のくぼみは濡れて滑りますけれど、南西から吹き上げる谷風が当たっているこの岩の稜線だけは、風で水分が飛ばされて完全に乾いていますわ! つまり、ここが一番フリクションの効く『買いの地合い』ですのよ!」
ドン、と乾いた石灰岩の突起に、泥を落とした靴底のつま先を乗せる。
アキラの言った通り、腕で体を引っ張り上げるのではなく、背中の十キロのザックの重心をスッと右足の真上へと移動させ、骨格と足の力だけで立ち上がった。
靴底のビブラムソールが、乾いた岩肌をガッチリと噛む。
そのまま麗華は、風が乾かした岩のラインだけをパズルのように正確に辿り、泥まみれのスカートを翻しながら、誰の手も借りずに十メートルの露岩帯を一気に登り切ってみせたのだ。
「……はぁ、はぁ……っ! ご覧あそばせ、アキラさん! 自分の体を持ち上げる重心移動、相場よりずっと簡単な値動きでしたわよ!」
岩の上で泥だらけの頬を張り、勝ち誇ったように微笑む麗華。
その姿に、アキラは目を丸くしたあと、吹き出すようにニッと笑った。
「あははっ! 最高じゃん、麗華先輩! お嬢様の皮を被った、とんでもないギャンブラーだったんだね!」
遅れて岩場を登ってきた穂乃果と美咲も、「すごいよ麗華ちゃん!」と駆け寄る。
だが、岩のてっぺんに立った麗華は、ふと谷の向こうから吹き上げてくる風に顔を向け、細い眉をピクリと動かした。
「……あら? マヤさん、今の風、少し変だと思いませんこと?」
「え……?」
隣に立ったマヤが、鼻をひくつかせて風を嗅ぐ。
それよりもコンマ数秒早く、麗華がスマホのオフライン気圧計アプリに目を落とし、鋭い声で言った。
「さっきまで乾燥していた南西の谷風に、急激に湿った空気と冷気が混じり始めましたわ。十ヘクトパスカル近い局地的な気圧の低下……。これ、相場の急落チャートと同じですわ! 予定より二時間早く、北西から寒冷前線のしっぽが奥多摩の稜線にぶつかりますわよ!」
「……っ、ほんとだ!」
マヤの青い瞳が、驚愕に見開かれた。
シェルパの血を引く自分が「匂い」で気づくのとほぼ同時に、このお嬢様は「風の温度変化と気圧の傾き」だけで、山の天候急変(地合いの崩れ)を正確に読み切ったのだ。
「山頂でのターンアラウンドタイムは午後零時半でしたわね。でも、零時を過ぎたら山頂はガス(濃霧)と強風に包まれますわ! あと二十分で山頂を踏みますわよ、皆さま!」
泥まみれの令嬢が放った号令に、四人が力強く頷いた。
こうして、五人全員がそれぞれの「牙」を目覚めさせた山岳部は、最後の急坂を一気に駆け上がっていく――。
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