これから
春大会が終わってから、時間の流れ方が少しだけ変わった気がしていた。
負けることも、勝つことも、あんなに必死で追いかけていたのに、いざ一位になってしまうと世界は何も変わらず続いていく。
部活は今日もあって、スタートラインはそこにあって、バーの高さは容赦なく目の前に立ちはだかる。
けれど、周囲の視線だけがほんの少し変わった。
「全国一位」「春大会優勝者」そんな言葉が俺の背中に貼り付いて、勝手に期待されて、勝手に安心されている気がした。
正直に言えば、重たくないわけじゃない。
それでも、跳ぶのをやめたいと思ったことは一度もなかった。
むしろ、余計に空を見上げる時間が増えた気がする。
榊がいなくなった大会は、最初は拍子抜けするほど静かだった。
軽口を叩く相手も、記録を競う相手もいない。
けれど榊は勉強の合間を見つけては小さな大会から練習試合まで、俺が高跳びで参加してもしなくても応援に来てくれる。
いや、あれは俺をダシにして高塚へのアプローチが多いけれど。
でも、競う相手が一人減ったことで静かなものになった。
その静けさの中で聞こえてくるのは、自分の呼吸と、踏み切る足音と、風の音だった。
ああ、これでいいんだと思った。
誰かに勝つためじゃなく、記録のためでもなく、俺はこの一瞬を見るために跳んでいる。
そう思えるようになったのは、きっと春大会のおかげだ。
後輩が入ってきて、先輩と呼ばれる立場になって、初めて自分が通ってきた道を振り返るようになった。
怖かったことも、不安だったことも、全部なかったことみたいに忘れていたけれど、実際はちゃんと覚えている。
跳べなかった日も、バーの前で足が止まった日も、太陽が眩しすぎて目を逸らした日も。
だからこそ、今日も空を見上げる。
夏が近い。
夏が近いということは夏の大会も近いということ。
プレッシャーもあるけれど、楽しみもある。
今年もどんな選手がいるか、わくわくする。
ふと、高跳びのスタートラインを見ると、来る人来る人みんなに順番を譲ってなかなか飛ばない奴がいることに気付いた。
「おい、なんで跳ばないんだ?」
疑問をそのままぶつける。
「い、飯田先輩!あの、その、これは……」
言い淀む後輩に、辛抱強く待つ。
覚悟を決めた彼は打ち明けてくれた。
「実は、誘われて陸上部に入ったんですけど、高跳びが怖いんです」
「高跳びが怖い?」
「はい……。飯田先輩程の選手からしたらそんなことはないんでしょうけど、僕はあのバーを飛び越えられそうにもないんです。絶対足を引っ掛けて、いや、その前に跳べるかも不安で……!」
そう言われて昔を思い出す。
「そうだなぁ。そう言う不安は俺にもあったな」
「本当ですか!?飯田先輩程の方でも!?」
「そんなに褒められるような選手じゃないよ。そうだな……バーを意識せずに、空を見るつもりで跳んでみろ」
「空、ですか?」
後輩が空を見るので俺も空を再び見る。
「ああ。跳んで見る空はまた違った景色を見せてくれる。俺はそれが楽しいんだ」
空には今日も太陽が輝いている。
「ただし、イカロスにはなるなよ。これは俺の教訓だ」
「イカロス、ですか……?」
「ああ。見ててやるから、一度跳んでみろ」
「は、はい!」
そう言うと、彼は列に並び時折不安そうにこちらを見ながら視線を彷徨わせる。
後輩が走ると、やはりバーの手前で固まって跳べなかった。
「飯田先輩!やっぱり跳べません!」
「もう一回だ」
「……はい」
その次もやっぱり跳べなかった。
他の部員は、全国一位になった俺に指導されておきながら跳べもしない後輩に苛立っているようだった。
「先輩、もう無理です!」
三度目にして挫折した。
「そんなことはないさ」
「せめて、バーの高さを低くしてください!」
「いや、この高さで跳んでみるべきだ」
「なんでですか!跳べないって言っているのに、なんでバーも下げてくれないんですか!?飯田先輩は指導するつもりがあるんですか!?」
とうとうキレた後輩に詰められる。
「今日はバーを超える練習じゃない。それに、そんなものはいつのまにか体が覚えて勝手に跳んでいる」
そして、もう一度空を見た。
「バーの手前まで行ってからでいい。空を見て来い」
そう言って四度目の挑戦に送り出した。
後輩は最初から跳ぶ気もなく、馬の直前まで走ると止まって空を見上げた。
「飯田先輩。空は空です」
「そうだな。空は空だな」
後輩はむくれた。
「指導する気あるんですか?」
「あるから空を見せているんだ」
後輩はさっぱりわからないって顔をしていた。
「今にわかるさ」
そう言うと、頭を撫でた。
きっとこの子にも、空の輝きの素晴らしさが分かる日が来ますように。
そう思って。
「さて、俺も跳ぶか」
列に並んでスタートラインで深呼吸する。
このドキドキは、多分一生ある。
走って跳んで空を見る。
この一連の作業が見せる景色だけで、跳んでよかったって思う。
今日の空は、太陽がいつもより輝いていた。
俺がぼんやりと空を見ていたからか、後輩がまた列に並んだ。
スタートラインに立つと、緊張のせいかジャージに何度も手のひらを擦り付けて手汗を撫で付けていた。
「バーを見るなよ。空を見ろ」
俺のそんな言葉に小さく頷いて、走り始めた。
今度こそ、彼は跳べた。
バーは落ちて失敗したけれど、マットレスから空を見上げている。
しばらくして、降りてくると真っ直ぐ俺の元へ来た。
「なんかこう、太陽がキラキラしていました!」
「ふふっ、だろ?」
なぜか俺が得意気になり答える。
そうだよ、空はすごいんだ。
そんな空を見せてくれる高跳びもすごい。
「跳べてよかったな」
「はい!」
肌がチリチリと熱くなる感じ。
夏が近付いていた。
「夏の大会かぁ」
今年は榊がいない。それでも強敵はたくさんいる。
今年の新入生で、中学時代に三年間無敗記録を持っている奴もいるらしい。
「勝てるか、じゃない。俺は俺の跳び方をするんだ」
そう心に決めてみた空は、どこまでも青くて、俺の心に応えてくれる気がした。
太陽は相変わらず煌めいて、イカロスを地面に落とすだろうけれど、生憎と俺は人間だ。
地に足をつけて、今日も跳んでいる。




