最終話
夏の大会が近付くにつれて、里子と顔を合わせる機会も自然と増えていった。
まあ、付き合っているんだからほぼ毎日顔を見合わせているんだけれど。
それでも、それとこれとは別で、俺に後輩が出来たように、里子や高塚にもマネージャーの後輩が出来て指導に熱が入っていた。
マネージャーとしてグラウンドを歩き回る彼女は相変わらず忙しそうで、以前のように軽口を叩く暇もない。
高塚も忙しそうだ。
……高塚とは、妙な距離感も生まれず、普段通りの接し方で会っている。
それが彼女なりの矜持なんだろう。
けれど、必要なことはきちんと話すし、冗談も言う。
その距離感が、少しだけ大人になった証みたいで、俺は勝手に安堵していた。
「慎太郎くん、最近また空ばっかり見てない?」
里子にドリンクを渡されながらそう言われて、図星で思わず笑ってしまう。
「見てるな。癖みたいなもんだ」
「ふぅん。落ちないように気を付けてよ」
軽い口調だったけれど、その一言に、春大会の校舎裏を思い出して胸がきゅっとした。
あの時、里子は俺に翼を向けて飛べと言ったわけじゃない。
ただ、自分の気持ちを伝えて、そして仲を深めた。それだけだ。
でも、その潔さが俺の背中を地面に引き戻してくれた気がしている。
「俺さ、昔はイカロスみたいだったと思うんだ」
不意にそんなことを口にすると、里子は意外そうに目を瞬かせた。
「太陽に近付きたいだけ近付いて、溶けるまで飛ぶやつでしょ」
「そう。高く跳べば跳ぶほど、何かを失ってもいいって思ってた。でも今は違う」
空を見上げる。
相変わらず太陽は眩しくて、手を伸ばせば届きそうで、でも絶対に届かない。
「俺は落ちない高さで飛びたい。溶けない翼で、何度でも跳びたい」
「人間らしいイカロスだね」
くすっと笑われて、肩の力が抜けた。
「それでいいんだよ。慎太郎くんは。地面に帰ってくる場所があるんだから」
その言葉に、里子の顔が浮かんで、同時に榊の笑顔も浮かぶ。高塚の顔も。
俺は一人で飛んでいるわけじゃない。
見上げる空は同じでも、帰る場所があるから、また跳べる。
「ねえ、慎太郎くん」
「ん?」
「慎太郎くんの跳び方、見てると安心するよ。不思議だけど」
それは多分、翼を誇示しないからだ。
太陽に挑まないからだ。
里子はそう続けなかったけれど、俺には分かった気がした。
「ありがとう」
それだけ言うと、里子は少し照れたように顔を背けた。
「ほら、感謝してる暇があったら練習しようよ。次の大会も、ちゃんと地上に帰ってきてよ」
「もちろん」
そう答えて、スタートラインに向かう。
走って、踏み切って、跳ぶ。
その一瞬、翼なんてなくても、人は空に近付ける。
太陽は今日も変わらず輝いているけれど、俺はもう溶けない。
人間のまま、地に足をつけて、それでも何度だって空を見る。
イカロスの翼はもういらない。
俺には、跳び続ける理由と、帰る場所があるのだから。
なんとなく、風の匂いが変わった気がした。
空を見上げると、太陽が輝いていて、応援してくれているような気持ちになれた。
「跳ぶか」
誰に聞かせるでもなく一人呟く。
スタートラインに立ち、踏み切った瞬間、身体が一瞬だけ宙に浮く感覚があって、その刹那に胸の奥が静かに熱くなる。
結果がどうであれ、この跳躍が俺の選択だと思えた。
着地の衝撃と同時に聞こえた後輩の声援や、遠くで鳴る里子の拍手が、確かに俺を地上へ迎えてくれる。
記録よりも先に、帰る場所があることを知った今、跳ぶことは怖くない。
空は憧れのままでいい。
俺は今日も地面から跳び、そしてまた、ここへ戻ってくる。




