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1000回振られても君が好き  作者: 千子


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春大会当日 中編

試技は淡々と進んでいった。

アナウンスの声は機械的で、感情の入り込む余地はない。

最初の高さ。

難なく越えられるラインだ。

一人、また一人と選手が跳んでいく。

失敗する者もいれば、ぎりぎりでバーを揺らす者もいる。

砂が舞い、マットが軋み、スパイクの音が乾いて響く。

俺は順番を待ちながら、深呼吸を繰り返していた。

心臓の音は一定で、呼吸も乱れていない。

静かだ。

不思議なくらい、内側が静かだった。

「次、飯田慎太郎」

呼ばれて、スタートラインに立つ。

助走路を見つめる。

遠くに見慣れたマットレス。

その向こうに、空。

太陽は今日も輝いていた。

考えない。

身体に任せる。

走る。

踏み切る。

跳ぶ。

マットに背中が沈む。

バーは、揺れない。

「……よし」

声に出すつもりはなかったが、自然と漏れた。

悪くない。

感触は、昨日と同じだ。

続いて、榊が跳んだ。

助走のリズムが、俺とは違う。

速すぎず、遅すぎず。

淡々としているのに、迷いがない。

踏み切り。

身体が、空に吸い上げられるような視覚だった。

高い。

俺の視線が、自然とバーを追う。

……揺れない。

ざわ、と会場が一瞬だけ波立つ。

でもすぐに静まる。

まだ序盤だ。

誰も騒がない。

次の高さで一段、上がる。

ここからだ。

何人かが失敗し、脱落していく。

残る人数は、目に見えて減ってきた。

俺も跳ぶ。

成功。

榊も跳ぶ。

成功。

同じ高さ。

同じ結果。

記録が、並んだ。

「……」

ざわり、と心の中で何かが動いた気がした。

焦りではない。

高揚でもない。

ただ、事実として並んだ。

それだけだ。

それなのに、心がざわつく。

次の高さ。

会場の空気が、少しだけ張り詰める。

ここを越えられるかどうかで、順位が動く。

俺の番が来る。

助走。

一歩目。

二歩目。

そして踏み切り。

身体が浮く。

視界の端で、バーが近づく。

……当たるな。

そんな願いすら浮かばない。

ただ、跳んでいる。

マットに落ちる。

一瞬、音が遅れて聞こえた。

……揺れた。

バーが、わずかに揺れて――止まった。

息を吐く。

なんとか成功。

ギリギリ過ぎてため息しか出ない。

次は、榊だ。

榊は一度、深く息を吸った。

その仕草が、やけに印象に残った。

走る。

踏み切る。

……空が、遠い。

今までより、明らかに高い。

フォームが、完全に違う。

助走の速度。

踏み切りの角度。

身体の伸び。

その瞬間、はっきり分かった。

……これか。

あいつが隠していたもの。

記録を隠していた理由。

フォームを変えた理由。

全部、この跳躍のためだ。

バーを越える。

余裕を持って。

ざわめきが、今度は抑えきれずに広がった。

記録が更新される。

俺の上に、榊の名前が表示された。

抜かれた。

「……」

でも、今度は不思議と胸はざわつかなかった。

悔しい、とは思う。

でも、それ以上に、納得してしまった。

あいつは、ここまでやってきた。

俺は、どうだ。

「次、飯田慎太郎」

呼ばれて、スタートラインに立つ。

一段、さらに上。

ここを越えられなければ、終わりだ。

足元を見る。

スパイク。

踏み切り板。

……考えるな。

昨日の夜、思ったことを思い出す。

今日跳ぶのは、身体だ。

里子と高塚の声が、頭をよぎりそうになって――やめた。

思い出さない。

今は、いらない。

走る。

一歩、一歩、地面を確かめる。

助走のリズムは、崩れていない。

踏み切り。

身体が限界まで伸びる。

空が、近い。

バーに、触れた。

……落ちるか。

一瞬、時間が伸びる。

……落ちない。

バーは、残った。

「……っ」

声にならない息が漏れる。

マットに沈みながら、青空を見た。

まだ、終わらない。

榊が、こちらを見ていた。

表情は、変わらない。

でも、目だけが、ほんの少しだけ細くなっていた。

それから何度か試技をして、次の高さ。

ここだ。

俺も、榊も、残っていて他はもういない。

二人だけ。

「……決着、つけるか」

誰に向けた言葉でもない。

ただ、そう思った。

俺が跳ぶ。

助走。

踏み切り。

身体が、さっきより重い。

疲労が、確実に溜まっている。

それでも跳ぶ。

バーに触れる。

……落ちた。

音が、はっきり聞こえた。

失敗。

一回目。

マットから起き上がり、砂を払う。

呼吸が、少し乱れている。

一回失敗したからって落ち込むなよ、俺。

二度目がある。

二回目。

今度は、余計な力が入った。

助走のリズムが、わずかに狂う。

踏み切り。

……また、当たる。

落ちた。

二回目も失敗した。

もう、失敗出来ない。

あと一回。

ここで越えなければ、終わりだ。

深呼吸をする。

深く吸って吐いた息は、俺の心を落ち着かせた。

胸の奥が、じんわりと熱い。

でも、それだけだ。

悲鳴も、叫びもない。

……俺は、俺の跳び方で来た。

それで、いい。

走って、踏み切って、跳ぶ。

今度は、うまくいった。

バーに当たらなかった。

思わず小さくガッツポーズをした。

三回目。

「……成功」

アナウンスの声が、静かに響く。

俺の競技はまだ続く。

立ち上がって、マットレスから離れる。

不思議と、足取りは軽かった。

榊の番。

榊は、俺を一度だけ見た。

それから、何も言わずに助走路へ向かう。

走る。

踏み切る。

……越えた。

余裕ではない。

でも、確実に。

バーは、揺れなかった。

2回目もバーに触れることなく跳び切った。

拍手が起こる。

歓声もある。

でも、それらは全部遠い。

俺は、ただ榊を見ていた。

榊はマットから起き上がり、空を見上げていた。

その顔は、穏やかだった。

近づいてきた榊が、言う。

「……いい跳びだった」

「ああ」

それだけ。

握手をする。

強くも、弱くもない。

「フォーム変えたんだな。めちゃくちゃ綺麗だった。今までも綺麗だったんだけど、なんていうか、凄かった」

「まあな。それよりお前、語彙力死んでんじゃんか。俺の跳び方、そんなによかったか?」

「ああ!」

笑い合うでもなく、肩を叩くでもなく。

ただ、それで終わりだった。

試合は次に持ち越された。

でも、失敗している俺に比べて榊は有利だ。

榊は有利なのに誇示しない。

まだ、戦える。

それが嬉しくもあり、終わらないでくれと願ってしまう。

空を見上げる。

太陽は、変わらずそこにある。

イカロスに憧れた時期もあった。

蝋の翼はもうない。

誰も堕ちない。

ただの人間が、人間のまま跳んだ。

それだけだ。


次が最後の試技になる。

なんとなくそんな予感がしながら榊と視線を合わせる。

榊は太陽のような笑みで笑って拳を突き出した。

俺もお返しと言わんばかりに突き出した。

届かない距離。

それが俺と榊の距離だろう。

次で最後。

俺は、俺の跳び方で優勝を狙う。

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