春大会当日 前編
朝。
太陽が完全に昇り切る前に起きてしまった。
「……まだ早いな」
それでもじっとしていられなくて、俺はベッドから抜け出した。
ジャージに着替えて外に出る。
朝はまだ寒さが残る。
「ちょっとだけ、走るか」
一人でそう呟いて走り出した。
大会本番前にも練習があるから軽く流す程度でいい。
そう思っていたら、前方から同じようにジョギングしている人に遭遇した。
会釈しようとして、帽子を目深に被った人物に気付く。
「榊!?」
「おお!なんだ。誰かと思ったら飯田か」
「びっくりしたー!なんでこんなとこで走っているんだよ」
「そりゃお前、大会前に昂って走ってるに決まってんだろ」
榊はしれっと言い放った。
なんだよ、お前もかよ。
「なにをニヤけてんだよ」
「別に」
「まあいいや。いよいよ今日だな」
「ああ」
「負けないからな」
「俺だって」
そう言って笑い合うと、別れてまた走り出した。
俺と榊はライバルで友達。
勝っても負けてもそれは変わらない。
だからこんなに気安く出来るんだろう。
高揚した気分のまま近所を一周し、シャワーを浴びて朝飯を食べた。
「いよいよね、今度こそ優勝しなさいよ」
なんて母親に言われて叱咤激励を受けた。
両親は毎回大会に見にきてくれていて、二位という順位をずっと見せ続けて申し訳なく思っている。
榊がいなくなったら一位は俺になるだろう。
でも、その前に榊から一位を取らないと意味がない。
俺の跳び方を証明するために、跳びたい。
「今日は勝つよ」
「それ、前も聞いたわよ」
なんて軽口を叩き合えるのも親子だからだろう。
「本当に、今度こそ勝つ」
俺の静かな決意に両親も何か感じ取ったんだろう。
静かに頷いてくれた。
会場に着くと、空気が少し違っていた。
いつもと同じトラック、同じ砂場、同じバーのはずなのに、音が多い。
観客席から聞こえる笑い声、応援の掛け声、スパイクが地面を蹴る乾いた音。
それらが混ざり合って、ざわついた空気を作っている。
それでも、風の匂いだけは変わらなかった。
「……行けるな」
誰に言うでもなく、小さく呟く。
今日は考えなくていい日だ。
そう、何度も自分に言い聞かせる。
待機場所に荷物を置き、ジャージのまま軽く体をほぐす。
ストレッチはいつも通り。
肩、腰、太腿、足首。
どこも問題ない……はずだった。
なのに。
「……?」
以前怪我をした場所に、ほんのわずかな違和感が走った。
痛み、というほどじゃない。
張り、とも違う。
強いて言えば、意識がそこに引っかかる感じ。
一瞬、呼吸が浅くなる。
気のせいだ。
すぐにそう結論づける。
大会前にありがちなやつだ。
身体が勝手に緊張して、些細な感覚を拾ってしまうだけ。
そう思って、もう一度軽く屈伸する。
ジャンプ。
着地。
……問題ない。
俺の動きに不審を覚えたのだろう。
「大丈夫?」
声をかけてきたのは高塚だった。
手にはいつものクリップボード。
表情は落ち着いているけれど、目だけが少し鋭い。
「大丈夫だよ。いつものやつ」
「そっか」
それ以上は聞いてこない。
マネージャーとして、余計なことは言わない。
でも、ちゃんと見ている。
そういう距離感が、今はありがたかった。
ウォームアップエリアに移動する。
他校の選手たちが、それぞれのやり方で身体を作っている。
派手に声を出すやつもいれば、無言で淡々と動くやつもいる。
その中に榊がいた。
一瞬で分かった。
遠目なのに、妙に目を引く。
「……あれ?」
思わず足を止める。
榊の動きが、どこか違った。
踏み切りの助走。
リズム。
腕の振り。
全部、知っているはずなのに。
知っている榊じゃない。
あいつ……変えたのか。
今までの榊は、教科書みたいな綺麗な跳躍だった。
無駄がなくて、完成されていて、誰が見ても正しい、まさしくお手本のようなフォームだった。
でも今、目の前にいる榊は。
どこか、削ぎ落とされている。
助走の歩幅が、わずかに広い。
腕の振りが、以前より大きい。
踏み切りの瞬間、視線がバーではなく、空を見ている。
「……他人みたいだな」
そう思った瞬間、自分でも驚いた。
今まで何度も一緒に跳んできたのに、
初めて「他校の選手」として見ている。
それが、少しだけ怖かった。
あいつも、覚悟決めてきたってことか。
医者になる未来。
競技を終える未来。
その全部を背負って、ここに立っている。
榊は、もう迷っていない。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
……負けられねえな。
負けたくない、じゃない。
負けられない。
俺は俺の跳び方を証明しに来た。
榊の完成度に、追いつくためじゃない。
超えるために。
「慎太郎くん、次アップ入るよ」
里子の声で、我に返る。
タオルを受け取り、軽く頷く。
「ありがとう」
ウォームアップ用の助走を始める。
一歩目。
二歩目。
……静かだ。
音はたくさんあるはずなのに、
頭の中は、不思議なくらい静かだった。
考えるな。
そう思う前に、身体が動く。
踏み切り。
跳躍。
砂の感触。
空気を切る音。
バーはない。
マットに落ちるだけ。
……悪くない。
さっき感じた違和感は、もうない。
いや、正確には……気にしていない。
「いいね」
高塚の声が聞こえた気がしたけど、振り返らなかった。
今は、自分の中だけで完結させたい。
ふと、隣のレーンで榊が跳んだ。
視界の端で見るだけなのに、分かる。
高い。
そして、迷いがない。
くそ。
思わず笑いそうになる。
本当に、いいライバルだ。
ウォームアップが進むにつれて、
会場のざわめきが、徐々に遠のいていく。
観客の声も、他校の選手の気配も、全部、背景になる。
残るのは、助走路と、砂場と、空。
「……これでいい」
心臓の音が、一定のリズムを刻んでいる。
昂っているのに、落ち着いている。
不思議な感覚だった。
榊を見る。
榊も、こちらを見ていた。
一瞬、視線が合う。
言葉はない。
でも、分かる。
――同じ場所に立っている。
競技者として。
覚悟を決めた人間として。
「次、試技入ります!」
アナウンスが響く。
俺はスパイクを履き替え、
深呼吸を一つ。
考えるな。
今日跳ぶのは、頭じゃない。
身体だ。
静けさの中で、
俺はスタートラインに立った。




