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1000回振られても君が好き  作者: 千子


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榊視点

踏み切り板の感触が、いつもと違った。

ほんの数センチ、足の置きどころを変えただけだ。それだけで、身体の流れが変わる。

助走のリズムが、少しだけ遅れる。空に浮かぶ時間も、わずかに伸びる。

悪くない。

榊は砂場に残った足跡を一瞥して、何も言わずにマットから離れた。

ここ数日、彼は跳び方を変えていた。

フォームを変えるのは、怖い。

長く積み重ねてきた感覚を、自分で壊す行為だからだ。


だが、変えなければならないと思った。


理由は単純だった。

このままでは、勝てない。


誰に、とは考えない。

飯田の名前を出してしまった瞬間に、感情が混じるのが分かっていたから。

跳躍は、感情でやるものじゃない。

積み重ねと、判断と、覚悟だ。

放課後、部室に戻ると、ノートを開いた。

記録用紙ではない。個人的につけている、練習記録だ。

今日の最長跳躍。

大会基準を超えている。

だが、その数値を公式の記録表には書かなかった。

監督にも、部員にも、誰にも言わない。

隠している、という意識はなかった。

ただ、今はまだ、見せる時じゃないと思った。


勝つなら、本番でいい。


それだけだった。


部室を出て帰宅途中、道の向こうに高塚が立っていた。

本を胸に抱え、こちらを見るでもなく、どこかをぼんやりと眺めている。

榊は足を止めた。

逃げる理由はない。

近づくと、高塚が気配に気づいて顔を上げた。

「練習、終わった?」

「ああ」

短い会話。

それ以上の言葉は、自然には続かない。

続けたいけど、続けられない。

二人きりだと何を言っていいか分からない。

高塚は一瞬迷うように視線を伏せ、それから言った。

「……大会、楽しみね」

「そうか?」

てっきり、あの約束をやめにしにきたかと思っていたから拍子が抜けた。

「ええ。みんな、必死だから」

榊は肯定も否定もせず、街並みに視線を向けた。

道の向こう、夕暮れの空が低く広がっている。

「ねえ、榊くん」

呼ばれて、振り返る。

「もし、勝ったら」

高塚の言葉が、ほんの少しだけ揺れた。

「もし勝ったら、何か変わると思う?」

榊は、すぐに答えなかった。

考えたからではない。

すでに答えが決まっていたから、言葉にする必要があるかを量っていただけだ。

「変わらない」

きっと、俺は君を好きで、君はあいつを好きなんだろう。

静かな声だった。

「勝っても、負けても」

高塚が目を見開く。

「……付き合う、とか」

言いかけた言葉を、彼女は自分で止めた。

榊は、それを最後まで聞かなかったことにした。

「そういう話は、しない」

きっぱりと告げる。

「俺は、勝つために跳ぶ。それだけだ」

「私のことは?」

問いは、責める調子ではなかった。

確認に近い。

「高塚さんの気持ちは、高塚さんのものだ」

榊はそう言ってから、一拍置いた。

「俺は、それを理由に跳ばない」

高塚はしばらく黙っていた。

それから、小さく笑った。

「……そういうところ、嫌いじゃないわ」

「慰めはいらないよ」

「知ってる」

本を抱え直し、彼女は一歩引いた。

「ありがとう。はっきり言ってくれて」

その声には、もう迷いがなかった。

きっと、彼女は報われなくても飯田を思い続けるんだろう。

高塚が去ったあと、通学路に残された静けさの中で、榊は息を吐いた。

胸が痛むわけでも、後悔が湧くわけでもない。

ただ、ひとつ線を引いた感覚があった。

それでいい。

大会が近づくほど、周囲はざわつく。

だが、榊の内側は、不思議なほど静かだった。


フォームを変えた。

記録を隠した。

余計な期待を断った。

やるべきことは、すべてやった。

あとは、跳ぶだけだ。

翌日の部活の練習時間。

スタートラインに立ち、助走を始める。

一歩、一歩、地面を確かめる。


空を見上げない。

誰の顔も思い浮かべない。

踏み切り。

身体が宙に放り出される。

これでいい。

誰かに向けた跳躍じゃない。

言葉にしなかった感情を、全部ここに置いてきた。

マットレスに体が沈む。

記録は、まだ分からない。

だが榊は、振り返らなかった。

結果を見る前に、次の一歩を考えていた。


覚悟は、もう揺れない。

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