一センチ
あと一センチ。
この一センチが超えられない。
俺と榊の差。
きっと榊は春の最後の大会でこれ以上の成績を出すだろう。
だから俺はこれ以上の成績を確実に出さなきゃいけない。
息を吸って吐く。
落ち着け。
バーを見据えて助走をつける。ギリギリで跳んで踵にバーが当たる感触がした。
頼む、落ちないでくれ。
そんな願いも虚しく、バーはカランと音を立てて落ちた。
「まだダメか」
どうしても抜けない。勝てない。
この一センチがどうしても超えられない。
もう一度。
スタートラインに立って、走って、跳ぶ。
それだけなのに上手くいかない。
またカランと落ちるバーの音を聞いて、マットレスに体を沈めた。
「あーあ」
この一センチの差は、俺の心だろう。
俺は、里子を選んだ。
そのはずなのに、高塚からのチョコを期待してしまう。
三年間待ち望んだチョコ。
これを断るには俺の思いが深すぎた。
けれど。
「切り替えろ、俺」
俺が今、好きなのは里子だ。
高塚からのチョコは受け取らない。
榊を応援したい。
高塚のチョコを断る勇気を持て。
思考がぐちゃぐちゃと回る。
この一センチの悩みがそのまま跳び方に影響しているんだろう。
「ちくしょう」
高塚への想いは中学時代で終わらせたはずなのに。
なんで今更なんだ。
気付かなかったってなんだよ。
気付いていてくれよ。
けど、高塚が振り続けてくれなきゃ里子に会えなかった。
なんて皮肉。
「もう一度跳ぶか」
スタートラインへ戻る途中、里子が寄ってきた。
「慎太郎くん、大丈夫?」
「……ああ」
「……そっか」
里子は何も言わない。
言ってもいい立場なのに、肝心な時は引く少女だった。
「里子のチョコがあればきっと跳べると思うんだけどな」
だから俺はこの子の不安を取り除くことしか出来ない。
俺が不安にさせているのに、俺しか里子の不安を取り除くことは出来ない。
途端に里子が笑顔になった。
「うん、任せて!最高に美味しいチョコを贈るから!」
そう言うと、またマネージャー業務に戻って行った。
俺は、俺が守りたいものを守ればいい。
跳ぶことも、恋も。
息を吸って、吐く。
スタートラインに立ってバーを見据える。
俺はこれを超える。
そう、改めて心を決めて走り出す。
背面をバーにして見る空はどこまでも澄んでいて青かった。
キラキラ輝く太陽は、全てを見守っているように思えた。
今度は音がしなかった。
恐る恐るマットレスから体を起こしてバーを見ると、そこには揺れもせずにバーが存在していた。
「よし!」
榊の記録に追い付いた!
もう一度跳んでもバーは落ちることがなかった。
もう少しバーを上げてみる。
「榊くんの記録、追い付いたんだ」
振り返ると高塚がいた。
「ああ。大事なことに気付けたからな」
「大事なこと?」
「……ごめん、高塚。俺、お前からのチョコは受け取れない」
高塚は変わらない声で言った。
「うん。分かった」
「いいのか?」
「断っておいてなんで聞くのよ。飯田くんなら、そう言うと思っていた」
「そっか」
しばらく沈黙が落ちる。
「それでも、榊くんの記録に追い付けたのはおめでとう。あとは追い抜くだけだね」
「ああ。それが難しいんだけどなぁ」
「出来るよ、飯田くんなら。私は信じている」
「それ、里子にも言われた」
高塚が、小さく笑った。
「私も新井さんも、飯田くんを信じているってこと。それじゃあ、頑張って」
そう言い残して、高塚は去って行った。
「……よし!」
宣言出来たことで、余計に決心が固まった。
今度も跳べる気がする。
そう思ってスタートラインへ立って、走り出す。
相変わらず空は高くて青くて、ぽつりと輝く太陽は少し寂しそうだった。




