第9話 給仕は、怒りの温度を運ぶ
給仕準備室でエレナが目にしたのは、白布を畳む若い給仕の指先だった。
リゼットという名の少女。細い手首をまっすぐに伸ばし、布の端をきちんとそろえている。手つきは丁寧。ただ、折り目を押さえる指に、少し力が入りすぎている。
その奥の棚には、強い酒の瓶が並んでいた。
早い。エレナは思った。
まだ温かい料理が卓へ届く前に、あの酒が杯に注がれる。空いた腹に落ちた酒は、喉を熱くし、声を大きくし、笑いを少し荒くする。
前日の親書奉呈式に続き、今日は東方使節を迎える外交晩餐会が開かれる。準備室には湯気の立つ鍋、銀の大皿、磨かれた酒杯、畳まれた白布が整然と並び、盆の縁がランプの光を短く返していた。どれも美しく、正しく、決められた順番で整えられている。
順番は正しい。
ただ、人の腹具合、喉の渇き、隣席から漏れる笑い声は、同じ速さでは進まない。
エレナは給仕表の端に指を置いた。表紙の隅には、保安部でイザークが引いた細い赤線が残っている。控室の扉を動かさないために、親書奉呈式では扉の開く時刻をずらした。その変更は記録され、儀典局と保安部の署名に支えられた。
何かを動かすなら、紙に記録する。
しかし、今日守りたいものは、紙には書きにくい。
リゼットの手が、震えずに済むこと。
その一行は、王宮の正式記録に書くことはできなかった。
強い酒は、第一の給仕と第二の給仕の間に出る。温かい料理は、第二の給仕から始まる。第一の給仕の間は、軽い果実酒と冷たい前菜のみ。
悪い順番ではなかった。
ただ、給仕の動線を実際の卓へ重ねると、一つだけ間が空く。
北方派のハウゼン伯爵家。
南方派のオルコット子爵家。
両家は領地境をめぐって長く揉め、昨冬、王宮の裁定を経て和解していた。少なくとも、王宮の紙にはそう残っている。
だから席次も給仕順も、両家を特別に扱ってはいけない。だが、裁定に従ったことと、腹の底の怒りが消えたことは別だ。
両家の卓へ温かい料理が届くのは、他の卓よりわずかに遅れる。
厨房から遠いからではない。給仕表の順路では、両家の卓より先に、金羽会と呼ばれる若手の集まりに近い貴族たちの卓へ給仕が回ることになっていた。
そこを飛ばせば、両家を特別扱いすることになる。だから給仕たちは、決められた順に卓を回るしかない。
問題は、その卓で足止めされそうなことだった。
その一団は、ディオン・ハルトレイの周囲でも見かける若手たち。悪意はない。ただ、よく笑う。目立つのは無邪気な軽さだった。給仕を呼び止め、酒を求め、冗談を投げる。そのたびに、盆の上の料理は少しずつ冷めていく。
一方で、強い酒だけが先に回る。
空いた腹に酒が入り、料理は届かない。待たされている両家の若い者たちは、隣の卓から響く笑い声に過敏になる。笑われたわけではなくても、顔が上がる。酒杯を持つ手が止まる。卓の空気が、少しずつ硬くなる。
その苛立ちが言葉になるころ、ようやく給仕が盆を持って卓の前に立つ。
遅れの原因は給仕ではない。
笑ったのも給仕ではない。
それでも、最初にその苛立ちを受けるのは、目の前に立つ給仕だろう。
「グランベル嬢」
準備室の奥から、男の声が届いた。
王宮給仕長のトマだ。あの大舞踏会の夜、エレナが楽団に「次の曲を」と告げた時、会場の給仕を取りまとめていた男である。白い給仕服の袖を、彼は今夜も手首のあたりで丁寧に折っていた。
「給仕表を、お確かめいただいてよろしいですか」
「はい。もう一度、拝見します」
トマは、エレナが指を置いているあたりを見た。
「そこですか」
「はい」
「強い酒の盆は、リゼットが担当します」
白布を畳んでいたリゼットの肩が少しだけ動いた。トマはそれに気づいても、口を挟まず、静かに見守った。
「手順どおりなら、あの卓の前で一度、足を止めます」
「あまり止めたくありませんね」
エレナは答えた。
「強い酒の時刻を遅らせるのではなく、その前に、温かい茶を一周足していただくことはできますか」
「茶、ですか」
「はい。体調への配慮、ということで。長旅の使節の方々もいらっしゃいますので」
トマは給仕表に視線を落とした。それから、準備室の奥へ目を走らせる。茶器の数。湯の量。盆を置く台。厨房から会場へ出る扉の幅。
彼が見ているのは、紙ではない。実際に人が通る場所だった。
エレナは給仕表の、酒ではなく茶の欄を指した。
「先に茶を一周させましょう。それだけなら、強い酒を出す時刻も、担当も変えずに済みます」
「酒の時刻は遅らせない、ということですね」
「はい。強い酒の盆を持った給仕を、荒れそうな卓の近くで待たせたくありません」
「立ち止まる時間を増やさない」
「はい。その形でお願いできますか」
トマはすぐには返事をしなかった。湯気の向こうで、年長の給仕が茶器を数えている。別の給仕は、皿を重ねる手を止めずに、こちらの声だけを聞いていた。
「二列に分けます」
トマは言った。
「リゼットは金羽会寄りの卓を通る。強い酒ではなく、温かい茶を持たせる。もう一列は年長の給仕に任せます」
「よろしいのですか」
「担当を外せば、リゼットは自分が役に立てないと自信を無くします」
トマの声は淡々としていた。
「持たせる盆を変えるだけなら、担当から外れません」
エレナはリゼットを見た。リゼットは白布を握ったまま、顔を上げている。
「リゼット」
「は、はい」
「あなたの担当を減らすのではありません」
エレナは静かに言った。
「荒れそうな卓へ、強いお酒を運ばせたくないのです」
リゼットは、まばたきを一つした。
「温かい茶を先に一度足せば、給仕の流れは崩れません」
エレナは、リゼットの握っている白布に視線を落とした。布の端には、指の跡がかすかについている。
「あなたは、決められた順に運んでください。こちらで、その順が途切れないようにします」
リゼットの指が、白布から少しだけ離れた。
「承知いたしました」
長机の端で、セドリックが書面を慎重にめくっていた。その隣では、イザークが帳面を開いている。
「グランベル嬢」
セドリックの声には、前日の控室の件の続きがまだ残っていた。疑っているというより、すぐには頷けない慎重さが残っている声だった。
「給仕順を、儀典上の手順と照合してもよろしいですかな」
「もちろんです」
「酒の順は先例どおりですな。温かい料理の開始時刻も先例どおり。変えるのは、茶の一周分……」
彼はそこで一度、変更票の空欄を見た。
「変更票が、必要ですな」
昨日までなら、エレナが先に言ったかもしれない。今日は、セドリックの方が先に紙を引き寄せた。
「はい」
「書面上の扱いは」
「『本夜は使節のご長旅にご配慮申し上げ、温かい茶を一度、各卓にお出しする』と、卓上の次第書の一行に書き加えていただくだけで足ります」
セドリックは、しばらく紙を見ていた。
「本当の理由は、そこではありませんな」
「はい」
エレナは答えた。
「ですが、リゼットの名を変更票に残したくありません」
イザークが、ペン先を整えた。帳面の余白に、細い文字が一行ずつ置かれていく。
「使節長旅への配慮として温茶一巡。給仕動線上、強酒提供前に各卓の滞留を避けるため」
彼は書き終えると、短く頷いた。
「これなら、記録上も名目が立ちます。個人名は不要です」
「ありがとうございます」
「記録は、何もかも書けばよいわけではありません」
イザークはペン先を布で拭った。
「誰を守るために書かないかも、考える必要があります」
エレナは変更票の一行へ視線を戻す。そこにリゼットの名はない。茶の理由がある。
それで足りる。
エレナは小さく頷いた。
ベアトリスが、準備室の入口に立っていた。エレナがリゼットに話す声を、最後まで聞いていたようだった。
「グランベル嬢」
「はい」
「あなた、手順だけでなく、現場の人も見ているのね」
エレナは少しだけ考えた。手元の紙の端を、指でそろえる。
「現場、というより」
そこで一度、準備室の奥を見た。
皿を運ぶ給仕、白布を抱え直すリゼット。
「会場で一番早く怒りに触れるのは、給仕の方ですから」
ベアトリスは目を細めた。笑みにはならず、目元の皺だけが少し柔らかくなる。
「怒りに触れる、ね」
「声が荒くなっている席に強いお酒を出すと、叱られるのは、たいてい給仕です。飲んだ方ではありません」
「……ええ」
「怒られるのは、立場の弱い方々です」
ベアトリスは茶器を並べ直すリゼットに一度だけ目を向けた。それからエレナへ戻す。
「晩餐会のあと保安部にいらして。お茶を用意しておきますから」
その言い方には甘さがなかった。だからエレナは、そのまま受け取ることができた。
「ありがとうございます」
ベアトリスは短く頷き、準備室の中へ戻っていった。




