第10話 茶は、まだ熱かった
晩餐会は、予定どおり始まった。
軽い果実酒。冷たい前菜。控えめな挨拶。給仕たちの足は、床に音を立てすぎない速さで進み、卓の間をほどけるように抜けていく。
第一の給仕の中ほどで、リゼットが温かい茶を卓に運んだ。
「本夜は、使節の方々のご長旅にご配慮申し上げ、温かい茶を一度、お出しいたします」
卓上の次第書には、同じ一行が添えられていた。使節の一団のうち、最年長の随員がわずかに目元を緩め、茶器を受け取る。オルコット子爵家の当主は、その茶をゆっくりと一口飲んだ。
向かいの席では、金羽会寄りの若手貴族たちが相変わらず笑っている。笑い声は大きい。悪意というより、遠慮のなさが先に立つ声だった。
「今夜は、酒が上品に歩いてくるな」
誰かが軽く言う。
笑いが起きる。
リゼットの足が、ほんの一瞬だけ止まりかけた。だが、彼女の盆に載っているのは強い酒ではない。
温かい茶だった。
「お熱うございます」
リゼットは、教えられたとおりに声を置いた。その声は少しだけ細かったが、途切れなかった。
若手の一人が、酒杯を探すように盆を見た。
「茶か」
「ご長旅の使節の方々へのご配慮でございます」
リゼットは、そう答えた。
名目は、彼女の支えになった。使節への配慮を、笑い飛ばすことはできない。若手はそれ以上、何も言えなかった。
リゼットは息を整え、次の卓へ進む。
オルコット家の若い方の指が、もう一度、茶器へ伸びる。向かい側の笑い声に、顔を上げることはなかった。茶器を口元へ運んでいる間、人は言葉を返せない。
飲み下すまでの数拍のあいだに、第二の給仕が始まり、温かい料理が運ばれる。ほどなく、ハウゼン伯爵家の席にも、湯気の立つ小皿が届いた。
誰も、強い酒の前に一拍置かれたことを気にしなかった。元のままなら、強い酒が早すぎたことも知らない。
第二の給仕が回り終える頃、リゼットはもう一度、同じ卓の前を通った。
今度の盆には、強い酒が載っている。
だが、卓にはすでに温かい料理があり、茶器の湯気も薄く残っている。笑い声はある。それでも、酒杯を受け取る手は先ほどより急いてはいない。
酒杯を置き、軽く頭を下げ、次へ進む。怒声は上がらない。
リゼットの足取りは、最後まで軽やかだった。
晩餐会が終わった後、ベアトリスは茶器を二つ用意していた。
「濃いお茶にしました。今夜のお仕事のあとなら、ちょうどよろしいと思いますわ」
「ありがとうございます」
「リゼットが、あとで茶器を下げに来ます」
エレナは一度、ベアトリスを見た。
「リゼットが、ですか」
「あの子、自分から言ったのです。グランベル様の茶器は自分が下げたい、と」
エレナは茶器を両手で包んだ。熱は、指の内側へゆっくり戻ってくる。晩餐会の間、自分の手が冷えていたことに、その時になって気づいた。
そのとき、ルシアンが保安部の扉口に立った。
エレナは手にしていた茶器を見下ろした。
「今夜は、何も起きませんでした」
「酒の時刻を動かしたのか」
「時刻を動かしますと、角が立ちます」
エレナは小さく首を振った。
「茶を足しただけです」
ルシアンは、机の上の給仕表を指で軽く押さえた。
「足しただけ、か」
「はい。ただ、私だけの判断ではありません」
ルシアンの視線が、わずかに動いた。
「給仕を二列に分けたのはトマです。リゼットの担当を外さず、盆だけを変えました。記録の文言はイザーク様が整えてくださいました。個人名を残さない方がよいと」
ルシアンは黙って聞いた。
「ベアトリス様も、現場側の視線で見てくださいました」
「では、近衛側の控えにも、その形で残す」
ルシアンは短く言った。
「給仕動線、酒の時刻、茶を挟んだ理由。個人名は不要。次の晩餐会でも、確認項目に入れたい」
「儀典局の正式記録に入れてしまいますと、マティアス様が難色を示されるかもしれません」
「今回限りの名目で、近衛側の控えに残す。儀典局の前例簿には触れない」
エレナは頭を下げた。
儀典局の正式記録として残せば、次から手順を変えにくくなる。けれど、近衛側の控えに残せば、同じ危険を見落とさずに済む。
ルシアンは給仕表から手を離した。
「グランベル嬢」
「はい」
「今日の判断は、声が荒くなる前に場の熱を下げた」
褒め言葉ではなく確認だった。エレナはもう一度、頭を下げた。
「それから、グランベル嬢」
「はい」
「何も起きなかった時でも、見ていた者の手は冷える」
エレナは、机に置いた茶器のそばで、自分の指を見た。その冷えまで、報告に含めた覚えはなかった。
ルシアンは、給仕表の端に寄っていた茶器を、ほんの少しだけエレナの方へ戻した。
「飲んでから戻れ」
命令の形。けれど声は冷たくなかった。
ルシアンが出ていくと、扉が静かに閉まった。
残った沈黙は、先ほどまでの報告より少しだけ長かった。
長机の端で、ベアトリスが自分の茶器を置いた。
「グランベル嬢」
「今日の茶は、いい一拍になったわ」
保安部の扉口に、リゼットが盆を持って姿を見せた。まだ茶器を下げるには早いと気づいたのだろう。彼女は少しだけ頬を赤らめ、盆を胸元に寄せて頭を下げた。
盆を支える手元は、昼に見た時よりしっかりしていた。
エレナは軽く頷き返した。
今夜、一人の給仕が、荒れそうな卓で立ち止まらずに済んだ。茶を挟んだ理由は、控えに残る。リゼットの名前は残らない。
すべてが、あるべき形に収まった。
エレナはベアトリスの淹れた茶を、ようやく一口、口元へ運んだ。
茶は、まだ熱かった。




