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第11話 ハルトレイ家の夜会は、なぜか少し乱れる

同じ夜、ハルトレイ家の夜会は、華やかに始まった。


花に不足はない。酒も足りている。ホールには白百合と淡い薔薇が高く生けられ、広間の燭台は銀の縁を曇らせない明るさで磨かれていた。


家格も、年齢も、同伴者の数も、紙の上では整っている。席の配置にも乱れはなかった。


ただ、招待客の一人が、席についたところで扇を止めた。


広間の東側、壁ぎわに近い卓。

銀箔で刻まれた名は、キャンダル伯爵夫人。


夫人は自分の席札を読み、隣席を確かめ、何も言わずに頷いた。


そこまでは問題ない。


視線が止まったのは、卓の上だった。細い脚の杯には、淡い果実酒が注がれている。冷たく、香りが軽く、若い客が最初の挨拶で受け取るにはちょうどよい酒だった。


茶器は、ない。


キャンダル伯爵夫人は酒精を受け付けない体質だった。香りだけなら笑顔でやり過ごせる。けれど一口でも喉を通れば、胸が悪くなり、視界が白くなる。


若い頃、祝杯を断り切れずに飲み、広間の中央で膝をついたことがあった。


倒れた椅子、床へ転がった杯。

誰かが「酔ったのか」と笑った声を、夫人は今も忘れていない。


以来、夜会の初めには必ず、薄い茶が置かれた。茶器があれば、杯を受け取る前に一拍を作れる。声を整え、喉を温め、祝杯までのあいだに自分の顔を作ることができる。


その事情はハルトレイ家にも伝わっていたが、酒精を受け付けない体質は、客名簿の本文には置き場所がない。


以前は、客名簿の余白に細い字で添えられていた。


 酒精不可。

 初手は薄茶。

 銀刺繍の扇が右端へ置かれたら、薄茶を。


今夜の給仕控えは、新しく清書されていた。グランベル嬢の筆跡が残る控えを使うのは体裁が悪いと考えたのだろう。


名前と席順は写された。杯の数も、給仕の順も写された。ただ、余白の一行が、私的な覚え書きとして落とされた。



夫人は一瞬、給仕を呼ぼうとした。


けれど、広間の中央では若い客たちが杯を受け取り始めている。今ここで「お茶を」と言えば、祝杯の前に主催側の手落ちを指摘することにもなる。


キャンダル伯爵夫人は唇を閉じた。扇を膝の上で閉じ、銀の刺繍を指で押さえた。


広間の端で控えていたハルトレイ家の家令は、その動きを見て、手にしていた給仕控えを見返した。


果実酒。冷たい前菜。若い客への挨拶。祝杯。


何も間違っていない。軽い果実酒の杯を回し、場を明るく始める。その段取り自体は華やかで、分かりやすかった。


家令の視線が、給仕控えの余白へ落ちる。そこにあるはずの細い文字を、一瞬、探した。


折り目のついた紙。

流れるような、ただし実用的な筆跡。


今夜は、ない。


探したあとで、家令は自分の指先が止まっていたことに気づいた。すぐに給仕控えを閉じ、表情を戻した。



広間の中央、上座寄りに、ディオン・ハルトレイとリリア・セレストが並んでいた。


今夜はディオンがリリアを公に伴って主催する夜会。招待客の顔ぶれは整っている。花も灯も、彼の背後でよく映えていた。


リリアは薄桃色のドレスで微笑んでいる。自分へ向いた視線に、彼女は丁寧に笑みを返す。若い男性たちが一人、また一人と近くへ寄った。


果実酒の盆が、その明るさへ先に吸い寄せられていく。若い客たちは杯を受け取り、笑い、ディオンとリリアへ祝意を向けた。


キャンダル伯爵夫人の視線が、その輪の上を静かに通る。その視線の硬さに、ディオンは気づかなかった。



「ディオン」


グラスを片手に、オスカー・ベイルが寄ってきた。襟元に、金の羽根をかたどった小さな飾り針が光っている。近ごろ若手の間で、金羽会と冗談めかして呼ばれている集まりの印だ。


「オスカー」


「今夜は夫人方より先に、若い連中の喉が潤うんだね」


「何の話だ」


「キャンダル夫人の前に、茶器がない」


ディオンは、意味が分からないという顔をした。


「茶器?」


「あの方は、果実酒では献杯を受けられない」


「そこまで気にすることか」


「夫人は気にされると思うよ」


オスカーの声は軽かった。軽すぎて、忠告には聞こえきらない。


彼はグラスを唇へ運び、一口飲むと横目で広間を見た。


「ところで、グランベル嬢は元気だそうだな」


ディオンの指が、グラスの脚を少しだけ握った。


「どこで聞いた」


「東方使節の晩餐会に出入りした従者から。儀典局の仕事で給仕表を見ていたそうだ。給仕長も動いたとか」


ディオンは答えなかった。


答えない沈黙を、オスカーは面白がるように眺めた。


「最近は夜会には顔を出さないのかな。以前は、こういう席で、誰の前に何を置くかまで見ていた気がする」


「便利だった、と言いたいのか」


「言い方が悪いな」


オスカーは悪びれずに肩をすくめた。


「入念だった、ということさ。冷たい方は役に立つ」


不遜な言葉尻が笑いに溶けた。だが近くの年長貴族が会話の途中で口を閉じる。


閉じた唇はすぐに別の話題を作ったが、その前に、ごく短い隙間があった。


楽団の弓が、一拍だけ強く弦をこすった。



リリアがディオンの袖へ、小さく指を添えた。


「ディオン様」


「どうした」


「皆さま、硬いお顔をなさっていませんか」


「社交の場だ。表情はいくらでも作れる」


「そういうものなのですね」


リリアは素直に頷いた。頷いたあとで、彼女は半歩だけ位置を変える。若い男性たちの輪へ、笑みを返しやすい場所だ。


果実酒の盆が、若い客の輪を抜けて東側の卓へ向かってきた。


キャンダル伯爵夫人は、膝の上で閉じていた扇を見下ろした。ここで声を出せば、先ほど飲み込んだ指摘を広間へ戻すことになる。


だから今度は、声ではなく合図にした。茶器があれば、果実酒の杯を受け取る前に一拍を置ける。若い主催者の祝杯を拒まず、自分の体も、場の体面も守れる。


夫人は卓の右端へ、銀刺繍の扇を置いた。


広間の端にいた若い女中が、その扇を見て、盆を持つ手を止めた。酒ではなく、茶を先に。夫人が声に出さずに求める時、その扇はいつも卓の右端へ置かれる。女中は家令の方を見た。


その瞬間、リリアが夫人の扇に気づいた。


「キャンダル様、その刺繍、とても綺麗ですわ」


夫人は一拍だけ、リリアを見た。


置いたままの扇を褒められて、見せずにいるのは無礼になる。夫人は礼儀正しく微笑み、扇を手に取った。


「ありがとう」


優しい声だった。優しい分だけ、女中は迷った。合図だったのか、偶然だったのか。家令はその間に、別の客へ呼ばれていた。


そこへ、果実酒の盆を持った給仕が卓へ着いた。


「祝杯を」


断るには、少し遅かった。


キャンダル伯爵夫人は扇を手にしたまま、杯を受け取った。杯の縁を唇へ触れさせる。一滴も含まない。けれど、杯を受けたという事実は、卓の上に残った。


女中は盆を下げ、二歩進み、また止まった。ようやく茶のポットが卓へ届いたころには、夫人の前には果実酒の杯が置かれていた。


茶器は、その横へ少し遅れて並んだ。



卓の中央では、ディオンが若い従弟たちと話していた。話題は、王宮大舞踏会の夜へ移っている。


「あの夜、会場は確かに騒がしかった。しかし、大きな混乱にはならなかった」


従弟の一人が、感心したように頷いた。


「ディオン、あれは君が落ち着いていたからだろう」


「誇張しないでくれ」


「いや、そう見えたよ」


ディオンはその言葉を否定しなかった。


「儀典局の古株もいた。彼らの手も大きかった」


「グランベル嬢は」


別の従弟が、無邪気に名を出した。卓の上で、ナイフが皿に触れる音が細く鳴る。


ディオンは笑顔を保ったまま、手を軽く振った。


「彼女の話は、今夜はよそう」


「ああ、失礼」


「終わった話で、雰囲気を重くしたくない」


ディオンは軽く言った。軽く言ったつもりだった。


従弟たちは笑顔を作った。ただ、笑顔の端がわずかに遅れる。


「今夜はリリアの夜だ。彼女ほど、こういう席を明るくできる人はいない」


リリアは少し離れた場所で、若い令嬢たちに囲まれて笑っていた。笑い声は明るい。鈴のように、遠くまでよく届く。


その明るさの向こうで、キャンダル伯爵夫人は礼儀正しく微笑んでいた。


果実酒の杯は減っていない。茶器は、夫人の前で湯気を立てている。


少し遅かった。それだけだった。


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