第12話 余白は白いままだった
夜会の中盤、キャンダル伯爵夫人が扇を畳み、立ち上がった。
ハルトレイ家の年長の従姉が、それを見てすぐに席を立った。歩み寄る速度は急ぎすぎず、遅すぎない。
「キャンダル様、もうお帰りでいらっしゃいますか」
「体調が、少し」
夫人は穏やかに微笑んだ。
「今夜は楽しく過ごさせていただきました。お若い方々の祝杯を、私の茶でお待たせしてもいけませんもの」
優しい言葉だった。優しい言葉だけに、誰も引き止められなかった。
夫人は立ち上がる時、卓の上を一度だけ見た。
果実酒の杯は少しも減っていない。茶器はまだ温かい。順番が逆だった。
夫人は扇を手に取った。銀の刺繍がランプに短く光る。
夫人の視線は、広間の中央に立つリリアへ流れた。言葉は一つも置かれなかった。リリアはその視線に気づくと、少し首をかしげ、可愛らしく会釈する。
夫人も会釈を返す。
それで終わった。
夫人が退席したあと、広間の空気は一段、薄く張った。
若い貴族たちは、グラスを持ち直した。話題は一度、中立な天気と馬車道のぬかるみへ戻る。楽団は予定どおりに曲を続けている。音は途切れていない。
それなのに、会話の継ぎ目が少し目立った。
夫人の前に置かれていた茶器は、下げられる時にもまだ温かかった。女中は盆を抱え、少しも減っていない果実酒の杯を倒さないように一歩遠回りする。
退出口の近くでも、小さな詰まりが起きた。
夫人を送るために動いた年長の従者と、次の卓へ料理を運ぶ若い給仕が、狭い廊下で向かい合う。ぶつかりはしなかった。声も上がらなかった。
ただ、若い給仕は盆を傾けまいとして壁際で止まり、年長の従者は夫人の進路を空けたまま相手の出方を待った。どちらも礼を欠かないために動けず、狭い廊下に行き先のない間ができた。
流れが止まった。
その後、夫人の従者が半歩引き、若い給仕を先に通した。退席する夫人の列が、給仕の盆を待つ形になった。その光景が、その場にいた者の記憶に残った。
果実酒の盆を先に通すために、キャンダル伯爵夫人が待たされた。
先ほど夫人の卓で起きたことが、形を変えてもう一度、目の前に置かれたようだった。
翌日には、それぞれの屋敷で短い会話になる。
「ハルトレイ家では、キャンダル夫人の前に、果実酒が置かれました」
「あの銀扇の方に?」
「ええ。扇を置かれたのに、どなたかが刺繍を褒めたとか」
そういった類いの会話。けれど数日もあれば、言葉はいくつもの客間で、同じ印象をまとって広がっていく。
夜会の終盤になって、ディオンはようやく、空気が硬いことに気づいた。
彼はまず、使用人の段取りを思った。次に、招待客の機嫌を思った。リリアがまだ社交界に受け入れられきっていないせいだとも思った。最後に、婚約破棄の余韻が残っているせいだと思った。
そう思ったところで、視線が卓の上の給仕控えへ落ちた。夜会前に置いたままの控えだった。果実酒、前菜、祝杯、茶。すべて正しく書かれている。
端には広い余白があった。
以前なら、そこに細い文字が並んでいた。
この夫人には、酒精は不可。
銀刺繍の扇が右端へ置かれたら、薄茶を。
若い客の祝杯より、年長客の一拍を先に整えること。
ディオンは、その文字をいつも煩わしいと思っていた。一つ一つ、説明されなくても分かっている、と。
今、紙の端は白い。白いだけなのに、妙に目についた。
「少し、段取りが悪かったな」
ディオンは、誰でもない方向へそう言った。
客たちは礼儀正しく、それぞれの馬車へ乗り込んでいる。玄関ホールでは、リリアが残った若い令嬢たちに囲まれて、楽しそうに笑っていた。その笑い声だけは、今夜の中で変わらなかった。
ディオンはしばらく、その方向を見た。それから、もう一度、給仕控えへ視線を戻す。
余白は白いままだった。
若い従弟の一人が、ぽつりと言った。
「以前は、もう少し全体が軽く流れた気がする」
悪気のない一言ほど、まっすぐ残ることがある。
ディオンは答えなかった。答える言葉が見つからなかった。
使用人通路の奥で、ハルトレイ家の執事長が家令に短く指示をしていた。
「明朝、キャンダル様のお宅へ、お加減伺いをお持ちするように」
「詫び状ではなく、ですね」
「詫びと見えぬ詫びだ」
「承知しました」
「次回から、年長の夫人方には果実酒より先に茶を置く」
「はい」
「銀刺繍の扇は、右端へ置かれた時点で茶の合図として扱う。手に取られたあとでも、給仕は止めない」
「承知しました」
執事長は給仕控えの端を指で押さえた。
「……できれば客名簿と給仕順は、以前のように朝のうちに一度、全体を見ていただきたい」
家令が顔を上げた。
「以前のように……」
執事長は一拍、視線を落とした。
「いや」
彼は給仕控えを閉じた。
「気にしないでくれ」
「はい」
誰に見ていただくのか。
その名は、どちらも口にしなかった。口にしなくても、この屋敷に勤める者なら分かっていた。
そのあと、ディオンはリリアを送るため、馬車に乗った。
王都の夜の光が、窓の外を流れていく。遠くの屋敷から、楽団の音が聞こえた気がした。
温かい茶が一拍を作る。音が途切れなければ、沈黙が場を固める前に、次の曲が視線をほどいてくれる。そういうことを気にしていた誰かの顔を、ディオンは思い出しかけた。
思い出しかけて、窓の外へ目を向けた。
隣のリリアは、ディオンの肩に軽く体を預けていた。
「ディオン様、今夜も楽しゅうございました」
「そうだな」
ディオンは答えた。声は、思ったより遠かった。
リリアは気づかず、明日のドレスの色を楽しそうに話し始めた。
窓の外では、まだ楽団の音が続いている。
だが、その音が埋めていた空白には、ディオンはまだ気づかなかった。




