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第13話 臨時補佐の名札は、嬉しかった

名札は小さかった。


 王宮儀典局・保安部

 臨時補佐

 エレナ・グランベル


それだけの文字を、エレナは見つめていた。


保安部の長机から少し離れた、窓際に近い小机。濃い木目の天板は、手前の縁だけがほんの少し丸く削られている。机の左端には、黒い木の立て札が斜めに置かれていた。


金色の縁取りは、上等すぎず、粗すぎもしない。臨時、という字の横で小さな光を持っていた。


「気に入った、とは、まだ言わなくてよろしいですぞ」


芝居がかった調子で、セドリック・オルランが言った。手には、いつもの配置確認用の板を抱えている。朝の保安部では、長机の向こうで書記が紙をそろえ、入口近くでは伝令が二人、次の指示を待っていた。


「必要があれば、名札の位置も、机の向きも、お変えいたしますぞ」


セドリックは、おどけた調子を続ける。


「いえ、嬉しいです。このままでお願いいたします」


エレナは少し笑いながら答えた。



今朝、保安部へ入った時、エレナはいつものように部屋の端へ向かった。以前、王宮儀典局へ初めて通された日に資料を広げた、あの空席である。


会議用の仮の席。

書記や相談役が、必要な時にだけ座る席。

誰でも座れる代わりに、誰の名前も置かれていない席。


そこに紙を置こうとして止まった。


「お嬢様、新しいお席はこちらに。誰のお席か一目で分かるようにしてございます」


従僕を装った口調で、ベアトリス・ロウェルが大仰に示したのが、今、目の前にある窓際の小机だった。


小さな机と椅子。

その端の名札。


これが今日から、エレナの机だった。



ルシアン・ヴァルトは、長机の中央で配置図を確認していた。


彼は配置図を追いながらも、窓際の小机に立つエレナへ一度、視線を向けた。近衛の副官カイルへ短く指示を渡し、確認済みの図面を一枚、進行担当へ戻す。それから、窓際の小机へ体を向けた。


「グランベル嬢」


「はい」


「会場図を確認する者が、毎回、回廊で紙を広げていては、保安の反応が一拍遅れる。記録閲覧が扉越しでは、判断も遅れる」


彼は、真面目だった。


「だから、席を用意しました」


エレナは頭を下げた。


「……恐れ入ります」


「どうかしましたか?」


「……いいえ」


真面目だ。


けれど、声は静かで、やさしかった。


ルシアンは、机の上へ薄い書面を一枚置いた。


「臨時補佐の同席範囲も、王宮儀典局と近衛隊の共同判断として整理しました」


書面の左上には、共同確認欄がある。誰が読んでも、誰が責任を持つのか分かる形だった。


「あなたがここにいるのは、個人の情ではありません」


噂で人員配置は変えない。そう言われたわけではないのに、紙の重さが同じことを示している。


必要な措置。


エレナはもう一度、名札の文字を見た。指先はまだ天板の縁に触れたままで、立て札には触れていない。



イザーク・フェルモが、帳面を抱えて机の前に来た。


「記録閲覧の範囲を説明いたします」


イザークは帳面を開き、細い指で項目を追った。


「式典記録のうち、過去五年分の来賓名簿、席順、控室割り、退場導線、給仕配置、楽団配置。以上の閲覧を、本日より許可いたします」


「ありがとうございます」


「ただし、護衛配置図の詳細、使節団の機密動線、王族方の個人的なご予定は、近衛隊側の許可が別に要ります」


「承知しました」


イザークは帳面の次の頁を押さえた。そこには、まだ何も書き込まれていない細い欄があった。


「もう一つ」


「はい」


「記録は、嘘をつきません。ただし、書かれなかったことは、残りません」


エレナは、すぐには返事をしなかった。


誰も転ばなかった廊下。誰も怒らなかった控室。誰も詰まらないまま流れた退場順。


それらは、失敗ではないから記録に残らない。


「……はい」


「『起きなかったこと』を、どの形で残すか。私の方で、少しずつ考えております」


イザークの声は、いつもどおり起伏が少ない。ただ、「考えております」の一言だけ、帳面の空欄から半歩だけ前へ出た。


エレナは、深く礼をした。



ベアトリスが、湯気の立つ茶器を机の右端に置いた。


「本日は、濃いめのお茶を」


「ありがとうございます」


「机の向き、こちらでいいですか」


「はい」


「窓際にしたのは、日が入る時間を考えてです。午後でも紙の端が反りにくくなります」


エレナは天板に置いた手を少し動かした。たしかに、窓から入る光は紙の文字を読みやすい角度で落ちている。眩しすぎず、暗すぎない。


「細かなご配慮ですね」


「細かい、という表現は、この部屋では褒め言葉です」


ベアトリスは短く笑った。笑ってから、入口の左側にある自分の机へ視線を向ける。


「用事がある時は、私の机まで。近衛隊との連絡経路は、カイル様から改めて渡されます」


「はい」


「それから、王宮の廊下では、最初のうち呼ばれ方が落ち着きません。『グランベル嬢』の方もいれば、『補佐』の方もいます。どの呼び方にも、まずはお返事ください」


「承知しました」


エレナは、そこで少しだけ肩の力を抜いた。



ほどなく、カイルが薄い連絡札を一枚置いた。


札は指二本ほどの幅で、表に保安詰所の印が入っている。木片より軽く、紙よりは固い。


「これは、急ぎの用件を保安詰所へ届けるための連絡札です。近衛への確認を急ぐ時だけ使ってください。通常の確認は、ベアトリス殿を通してください」


「承知いたしました」


「護衛配置図の詳細は、隊長の許可がある時だけです」


「はい」


カイルはそれだけ告げると、長机の方へ戻った。連絡札は茶器の横に残った。


エレナは札の向きを整え、名札とは少し離して置いた。



長机の端で、マティアス・レーヴェルが書面を整えていた。


彼はエレナの方を見ないまま、短く言った。


「グランベル嬢」


「はい」


「臨時補佐は、あくまで臨時です」


「承知しております」


「儀典局の正式な判断は、正式職員が行います。前例を乱さぬよう、くれぐれも」


「はい」


そこでようやく、マティアスは書面から目を離した。視線はエレナではなく、机の左端に置かれた名札へ向かう。


「名札に、金の縁取りを入れたのは誰ですか」


長机の反対側から、ベアトリスが軽く答えた。


「私です」


「少々、目立ちます」


「これくらいで、ちょうどよろしいかと」


マティアスは短く息を吐いた。それから何も言わず、書面に戻った。


叱責はない。許可もない。ただ、金の縁取りはそのままになった。


エレナは黙って名札を見た。臨時、という字と、金の縁取りの小さな光が並んでいる。


その両方を見ていると、少し誇らしかった。


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