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第8話 雨上がりの回廊は、乱れなかった

親書奉呈式の時刻が近づく頃、雨は上がっていた。


湿り気を残した風が、回廊の石をゆっくり乾かしている。北の控室の前では、ブランツ侯爵家の当主が、若い書記係と短い会話をしていた。


「失礼いたします。署名控えの確認をお願いいたします」


「ああ、構わない」


署名控えの確認という名目に内容はない。ただの書式確認。それだけで、扉が開かれる時刻は後ろにずれる。


同じ回廊の南側では、ヴェルシェール伯爵家の当主が先に扉を開けていた。


「近衛より、廊下の確認が済んだとのことです。こちらからお進みください」


「承知した」


当主は側仕えを連れて、廊下へ先に出た。廊下の角の花台には、葉物を挿した小さな水差しが一つだけ置かれている。視線を真正面から外す、ちょうどよい高さだった。


その時、少し先の扉が開いた。


赤と金の袖が、回廊の奥に見える。東方使節団の先触れだった。


予定より早い。


エレナは息を詰めた。


北の控室の書記係が、緊張で次の文言を飲み込みかけている。ブランツ侯爵の手は、扉の取っ手へ伸びていた。


セドリックがエレナを見た。エレナは、小さく花台の手前にいる南側の案内係へ視線を送った。


セドリックは南側の案内係へ半歩だけ寄り、声を低く落とす。


「足元にお気をつけください。雨上がりでございます」


その言葉につられて、ヴェルシェール伯爵が一度、足元を見る。歩みは止まらない。けれど、歩幅だけが小さくなる。


同時に、北の書記係が息を取り戻した。


「失礼いたします。お印の位置も、あわせて確認を」


「細かいな」


ブランツ侯爵はそう言ったが、不快そうではない。書類へ視線を落とす。


もう一呼吸。


南側の一行が、廊下の角を曲がった。少し遅れて、北の控室の扉が開く。


ブランツ侯爵家が廊下に出た時、ヴェルシェール家はすでに回廊の先の角を曲がっていた。葉物の緑と、二つの短い間。それだけが、二人の当主の視線を正面から外している。


廊下は詰まらなかった。


ブランツ家の従者は足を止めなかった。ヴェルシェール家の側仕えも振り返らなかった。近衛兵は、誰一人、持ち場を動かなかった。


後ろから来た東方使節団は、赤と金の装束を翻しながら、静かに通路を進んだ。護衛の列が、儀典局の従者と接触することは一度もなかった。


誰も道を譲らなかった。

誰も道を奪わなかった。


親書は、王の御手に滞りなく届けられた。



ただ、残ったものもあった。


式典後、回廊の隅で、ブランツ侯爵家の年配の従者がセドリックに声をかけた。


「本日は、書記係殿の確認がずいぶん念入りでしたな」


穏やかな声だった。だが、その穏やかさは、事情を察している合図だった。


セドリックの背が、ほんのわずかに伸びた。


「親書奉呈式につき、照合を通常より慎重に行いました」


「なるほど。使節の御前ですからな」


従者はそれだけ言って、軽く頭を下げた。責めてはいない。だが、気づいていないわけでもない。


エレナは、離れた場所でその短いやり取りを聞いていた。扉は乱れなかった。けれど、開く時刻をずらしたことに、気づく者は気づいていた。



保安部に戻ると、ベアトリスが茶器を二つ、長机の端に置いていた。


「お疲れさま」


彼女は短く言った。


「廊下の角に、花ではなく葉を選ぶ方を、私は久しぶりに見ました」


「出過ぎた判断でなければよかったですが」


「必要な配慮でした。むしろ、東方使節の従者が軽く頭を下げていました。香りの強い花は、長旅の後にはこたえますから」


エレナは、ベアトリスの言葉を少しの間、噛みしめた。


花ではなく、葉。

派手な称賛ではなく、通りすがりの会釈。


それが今日の成果の形だった。だが今日は、それだけでは終わらなかった。


長机の上には、変更票が置かれていた。


 発案者欄には、エレナの名。

 儀典確認欄には、マティアスの名。

 保安承認欄には、ルシアンの名。


イザークは、その三つの名の下に、時刻を細く書き込んだ。


「ブランツ家従者より、控え照合に関する確認あり。儀典局案内手順内の対応として説明済み」


セドリックが、わずかに息を吐いた。


「記録に残すのですか」


「残します」


イザークは答えた。


「問い合わせがあったことを残さなければ、次に同じ問い合わせが来た時、誰かが最初から説明し直すことになります」


マティアスは、しばらくその一行を見ていた。


「よろしい」


短い言葉だった。それから、エレナの方を見ずに続ける。


「グランベル嬢」


「はい」


「今日の判断は結果を見れば正しい。ですが正しい判断ほど、形式から外すと危うい」


エレナは頭を下げた。


「承知いたしました」


「あなたが見たものを、誰がどう扱うのか。今後は、そこまで含めて考えてください」


厳しい言葉だったが、拒絶の響きはない。王宮の中でエレナの見るものが、個人の勘ではなく、検討すべき意見として置かれ始めていた。


セドリックが紙を一枚、エレナの机の端に置いた。


「次の確認資料です」


彼は少しだけ視線をそらした。その紙の端には、小さな印がついている。


 控室。

 扉。

 案内係。

 変更票。


最後の一つは、今日まではなかった印だった。エレナが最初に見るだろう場所に、彼は先に印をつけていた。


「助かります」


エレナは短く答えた。


セドリックは、もう何も言わなかった。ただ、机に置いた紙の端を、もう一度、指で揃え直した。完全な信頼には届かない。それでも、エレナの見る場所を、彼も考え始めている目だった。


回廊の反対側で、ルシアンが近衛兵に何かを指示していた。雨上がりの光が、濃紺の制服の肩線と銀の飾緒を細く拾っている。声はここまでは届かない。けれど、短く頷いた近衛兵の背筋が伸びるのは見えた。話し終えた直後、彼の視線は一度だけこちらへ向いた。


今日、回廊が乱れなかったことの確認。

そして、乱れなかった理由を紙に残したことの確認だった。


エレナは紙の束を胸に寄せて、頭を下げた。頭を上げた時、すでに彼の視線は次の廊下に移っていた。雨上がりの石畳の匂いが、回廊の端に残っている気がした。


エレナは紙を机に戻し、次の資料を開いた。


次は、同じ東方使節を迎える晩餐会の給仕表だった。


 酒の順。

 料理の温度。

 席と席の距離。


表紙の端に、細い赤い線がすでに数本、引かれていた。文字はない。けれど、余白を汚さず、必要な箇所だけを細く囲う引き方には、見覚えがある。


イザークが先に目を通したのだ。


エレナは、給仕表の一行目に指を置いた。


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