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第7話 控室は、扉の数だけ火種を持つ

控室の扉は、多いほど危うい。


叙勲式の翌朝、エレナは親書奉呈式に使われる東回廊に立っていた。右手に一つ、左手に一つ。少し先の角にも扉がある。東方使節の先触れは、そこから姿を見せる。


開く順番を間違えれば、それだけで礼を欠いたように見える。礼を欠いたように見えれば従者の足が止まり、足が止まれば回廊が詰まる。そこへ使節団の護衛が差しかかれば、式典の空気は始まる前から張り詰める。


式典は、会場に入る前から始まっている。


エレナは王宮儀典局・保安部の臨時補佐として、控室割りの最終確認に同席していた。資料の表紙には、東方使節・親書奉呈式と記されている。規模は大きくないが、王宮の奥まで使う外交式典だった。


親書は王の御手に直接届けられる。東方使節はこの回廊を抜け、謁見の間へ向かう。その途中に、貴族用の控室が二つ、向かい合って置かれていた。


保安部に届いた控室割り表は、紙の上では破綻がない。部屋の格も、控える家の格も、前例に沿っている。


問題は、席よりも扉にあった。


北の控室、ブランツ侯爵家。

南の控室、ヴェルシェール伯爵家。


両家は昨秋、北街道の通行税をめぐって議論した。王宮の記録上、その件は収まっている。けれど扉は、人を正面から出会わせる。


戸口で人と鉢合わせると、たいていの人間は一瞬だけ困る。「どうぞ」が重なって動けなくなることもあれば、同じ側へ避けて、また向き合うこともある。普通なら苦笑いで済むその間合いも、王宮では家名と面子を載せてしまう。


会議室では畳まれた不満も、狭い回廊では、どちらが先に道を譲るかという形を取る。取っ手にかけた手、案内係の声、相手より半歩遅れた足取り。そんな小さなものが、怒りの置き場になりかねない。


「グランベル嬢」


セドリックが紙の束を抱えて現れた。


「最終の控室割りです。格としては、前例どおりですが……」


語尾が半分、疑問に傾いていた。前日の叙勲式で、エレナの読みは当たった。それでも、完全に信じるにはまだ早い。念のため見せておく。その慎重さが残っていた。


エレナは紙を受け取り、部屋名と家名を指でなぞった。


「控室そのものは、正しい配置だと存じます」


「そうですよね」


セドリックの声に、少しだけ安堵が混じった。エレナはその安堵を壊さないように、言葉を選ぶ。


「問題は、扉が開く瞬間です」


「扉、ですか」


「ブランツ家とヴェルシェール家の扉が向かい合っています。案内係が同時に『ご案内いたします』とお声をかけますと、両家のご当主は同時に扉を開けられます」


エレナは回廊へ視線を戻した。白い壁、磨かれた床、雨上がりの光を含んだ上げ下げ窓。その間に、向かい合う二枚の扉がある。


「その瞬間、お二方の視線は正面から出会います。片方が譲れば、譲った側には、面子を損なわれたという記憶が残ります」


「両方とも譲らなければ」


「廊下が詰まります」


セドリックは手元の紙を二度、見直した。


「二家の退出のすぐ後に、東方使節の謁見順序が組まれている……」


「ここで詰まれば、東方使節の護衛が足を止めます。近衛兵は通路を空けにかかり、両家の従者も前に出ます。数歩の間に、両家の礼服と、東方使節の装束と、近衛の剣鞘が重なります」


エレナの声は責めていなかった。紙の上の線を、そのまま回廊へ置くように話していた。


「親書奉呈式の回廊で、人が詰まるだけなら、まだ直せます。けれど、誰かが道を譲ったように見えれば、譲った側の家が軽んじられた、と受け取る方が出ます。使節団の前で譲れば、それはその場の親切ではなく、序列のように見えてしまいます」


セドリックの喉が小さく動いた。


「その場限りでは済まない、ということですな」


「はい」


エレナは控室割り表の端を押さえた。


「この控室割りは、前例どおりに正しいのです。前例と違うのは、両家の議論が昨秋だったこと。それから、東方使節の列が同じ回廊を、同じ時間帯に通ること。その二つです」



保安部に戻ると、長机の端で、マティアスが書面を整える手を止めた。


「グランベル嬢。控室の格は、家格に応じて定められたものです。臨時補佐の印象だけで動かしてよいものではありません」


「承知しております」


「扉の開く順まで儀典局が気にしていては、前例が崩れます」


「お言葉、拝聴いたしました」


エレナは頭を下げた。下げたまま、紙の端に指を置く。


「ですので、控室を動かさないご提案です」


マティアスの視線が、紙の端で止まる。


「部屋札、家格、配置、いずれも動かしません。変えさせていただくのは、案内係の声かけ順と、扉の開く間合いのみでございます」


「……間合いだけ」


「北の控室には、『書記係より一点ご確認がございます』という名目で、ひと呼吸だけお待ちいただきます。南の控室には、『近衛より廊下の確認がございます』という名目で、先に扉を開けていただきます」


エレナは回廊図の角を指した。


「廊下の角には花台を一つ置かせていただき、視線が正面からぶつからぬよう、高さと角度を整えます。近衛は、花台の先に一名だけ配置いたします」


マティアスはしばらく黙り、前例のどこを守り、どこまでなら崩さずに済むかを測っていた。


「控室札は、動かさぬと」


「動かしません」


「家格の記録も」


「そのままでございます」


「案内係の声かけは」


「儀典局の案内手順の範囲内です」


「近衛の配置は」


「保安上の配置です。儀典上の序列には触れません」


マティアスは、そこで初めてエレナではなく、長机の上の変更票を見た。


「では、変更票が必要です」


セドリックの手が、紙の束の上で止まる。


「控室札を動かさず、家格の記録にも触れない。そこまではよい。しかし、案内係の声かけ順を変え、近衛を追加し、花台を置くなら、これは臨時の現場調整です。誰が判断し、誰が承認し、誰が責任を持つのかを残さねばなりません」


エレナは、胸の奥が冷えるのを感じた。


正しい指摘だった。昨日までは、火種を見つけ、消すことだけで精一杯だった。だが王宮の仕事は、火種を消して終わりではない。消した手が、誰の手だったのかを、あとで問われる。


「私の提案として、残していただいて構いません」


言った直後に、軽さに気づいた。


マティアスの眉が、ほんのわずかに動く。


「臨時補佐の提案では足りません」


その声には、責めないための慎重さがあった。


「臨時補佐の名で残せば、儀典局は『一時的な判断』として扱われます。前例になりません。前例でないものを現場判断で運用すれば、事故につながります」


エレナは黙った。


「残すなら、儀典局と保安部の判断として残すべきです」


その言葉は、エレナの肩に置かれかけた責任を、王宮の書式の中へ戻していた。


長机の脇で帳面を開いていたイザークが、静かに顔を上げた。


「花台を置かれるのですね」


「はい」


「記録では、使節団の通る回廊には、花を置かぬ年もあります。香りが強すぎるとご迷惑になるため、と」


「ありがとうございます」


エレナは、もう一度、紙に目を落とした。


「白百合は控えます。花台には、薄い緑の葉物を挿した小さな水差しを置いていただきます。視線の高さを整えるためのものです」


イザークは帳面に何かを書き留めた。


「それなら、記録にも残せます」


マティアスが短く言った。


「飾りとしてではなく、東方使節への配慮として」


「はい」


イザークは、細い文字で変更票の下欄に書き加えた。


「香りを抑えた葉物の水差しを設置。目的、東方使節団への配慮および通路視線の緩和」


エレナは、その一文を見た。自分の考えが王宮の言葉に変わっていく。書かれたものは、守りにもなり、責める根拠にもなる。心強さより先に、ペン先の細さが目に残った。


イザークはペン先を上げないまま、静かに言った。


「起きなかったことは、記録に残りません」


エレナは黙って聞いた。


「ですが、起こさないために何を置いたかは、記録に残せます。ただし、残し方を誤れば、記録は盾ではなく刃になります」


「刃」


「誰か一人の名だけを立てる記録は、その人一人を責める記録にもなります」


イザークは顔を上げなかった。


「今回のような調整は、承認者の名を並べて残すべきです」


セドリックは、変更票の署名欄を見た。


 発案。

 儀典確認。

 保安承認。


三つの空白は、紙の上ではただの白い欄だった。けれど、そこに名が入るかどうかで、同じ行為の重さは変わる。


扉が静かに開いた。


ルシアン・ヴァルトが入ってくる。


「報告を」


余計な前置きはなかった。


エレナは三点を述べた。北の控室をひと呼吸遅らせること。南の控室を先に出すこと。廊下の角への花台設置と、近衛一名の配置。


それから、変更票の空白を見た。


「発案者欄には、私の名を」


言い終える前に、マティアスが口を開いた。


「発案は、臨時補佐エレナ・グランベル。儀典確認は、私が署名します」


セドリックが、わずかに顔を上げた。マティアスは表情を変えなかった。


「儀典局の手順の範囲内であると確認した以上、私の名を避ける理由はありません」


ルシアンは変更票を受け取り、目だけで追った。


「保安承認は、私が持つ」


短い言葉だった。それだけで、空白の重さが変わった。


エレナは頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼には及びません」


マティアスが言った。


「これは、手続きです」


言い方は冷たくなかった。


ルシアンは、回廊の図を指した。


「使節団の先触れが早まった場合は」


エレナは一瞬、言葉を止めた。それから、回廊の図へ指を戻す。


「花台の手前で、南側の案内係が一歩下がります。視線が正面へ戻らないよう、近衛の立ち位置を半歩だけ内へ。北の書記係には、確認の文言を二つ持たせてください。一つ目で足りなければ、二つ目でひと呼吸を足します」


セドリックが小さく息を吸った。

そこまで考えていながら、エレナは問われるまで先回りして言わなかったのだ。


ルシアンは頷いた。


「この形で進める。控室そのものは動かさない。扉の順と案内係の位置だけを変える。保安判断として、廊下の角の先に近衛一名を配す。花台には香りを立てぬ葉物を置くこと」


最後の一点は、エレナではなく、イザークの帳面へ向けた確認だった。


イザークは頷いた。


ルシアンは変更票の署名欄に、自分の名を書いた。マティアスも続けて署名する。最後に、エレナは発案者欄へ名を書いた。ペン先が紙を離れた時、指先にわずかに力が残っていた。


臨時補佐は提案できる。けれど、提案が紙に乗った瞬間から、それはもうひとりの機転ではなくなる。


王宮の仕事になっていた。


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