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第6話 雨の朝は、紙の外が見える

叙勲式の朝は、雨だった。


霧雨が王宮の屋根を湿らせ、馬車寄せの石畳を黒く濡らしている。エレナは庇の下で一度足を止め、そこから端まで歩いた。靴底が石畳の継ぎ目で滑りかけ、歩幅を狭めると、裾が雨を含んだ石に触れた。


雨の日、人は変わる。


普段ならまっすぐ歩く者が、裾を気にして半歩寄る。傘を差しかける従者の肘が近くなり、馬車から降りる高齢の来賓は、威厳を保とうとして余計に足元を見る。


湿った空気は音も吸う。晴れた日の会場なら奥まで届く弦の響きが、今日は途中で薄くなる。


前日まで紙の上で見ていた違和感が、雨の朝に、ようやく形を持ち始めていた。


保安部に戻ると、エレナは作業用の小机に席順表を広げた。濡れた手袋を外し、袖口が紙に触れないように押さえる。来賓席、叙勲者ご家族席、楽団配置。その三箇所に印をつけ、最後に退場順の欄の余白へ細い線を引いた。


来賓席の二列目では、モントローズ侯爵家とエルディン伯爵家が隣り合っている。


家格と儀礼上の並びに従えば、席次としては正しい。だが二家は昨冬、教会人事をめぐって衝突している。王宮の記録では和解済みとされているが、和解の書類に判が押されても、肩を並べて座る気まずさは消えない。


今回の叙勲式には、国王アルベール陛下とセレスティア姫殿下が臨席される。


式の中心は叙勲者。しかし、王族が臨席する以上、会場は王族が誰へ先に目を向けるかも見る。王族の視線を先に受ければ祝福に見えるが、来賓の視線が先に集まれば値踏みに見えかねない。


叙勲者ご家族席は、王族席と来賓席の中間にある。栄誉ある配置で、儀礼としては破綻がないが、席順表には、叙勲者の子息にあたる十六歳の令嬢の名もある。


正式な場に出始めたばかりの年頃。叙勲者の名が呼ばれる瞬間、来賓席側の目は、ご家族席へ流れる。祝福より先に値踏みの視線にさらされるには、まだ酷な年頃だった。


楽団の序奏も気にかかった。奥の控え席にいる司教猊下と随員へ、晴れた日より音が届きにくい。若い聖職者たちは、互いに耳打ちしやすい一団でもある。音が薄ければ、そのささやきが目につく。


退場欄の余白に引いた線は、馬車寄せのためだった。濡れた石畳でご高齢の来賓の歩幅が変われば、退場順は一拍ずれる。その一拍が傘の位置や後続の馬車と重なれば、ただの雨が、誰を待たせたかという面子の話になる。


エレナは紙を持って、長机へ向かった。


セドリックが席順表を覗き込み、眉を寄せる。


「当日の朝に、席と曲順に手を入れるおつもりですかな」


嫌味の響きはなかった。当日の朝に変更することへの、儀典官としての正しい抵抗だった。エレナは紙の端をそろえ、声を落とす。


「申し訳ございません。昨日までは確信が持てませんでした。今朝、馬車寄せを歩いて腹が決まりました」


「表向きは、問題のない配置です」


「はい。ですから、表向きには変えません」


エレナは三つの印を順に示した。


「変えるのは、椅子の位置を一つ。楽団の曲順を一曲。あとは声をかける順番と、視線の通り道です」


セドリックの指が、モントローズとエルディンの家名の間で止まった。


「ご両家の間に、ファルベルク子爵家のご令嬢を入れます。ご令嬢が雨で体調を崩されぬよう、風の通りにくい席へ移すという名目なら、席次の説明が立ちます。ファルベルク家は、両家ともに昔からのお付き合いがございます」


「名目は立ちますね」


「叙勲者ご家族席は、椅子一つ分だけ王族席寄りへ。姫殿下の視線が届く形を明確にします。若手の視線が集まる前に、王族から祝福を受ける方々として場に映ります」


セドリックが何か言いかけた時、扉が開いた。


ルシアンが入ってくる。雨に濡れた外套はすでに外されていたが、肩のあたりに外気の冷たさが残っているように見えた。


「報告を聞こう」


エレナは、モントローズとエルディンの間にファルベルク子爵家の令嬢を置くこと、叙勲者ご家族席を王族席寄りへ一歩寄せること、楽団の序奏を低音側に厚い曲へ替えることを述べた。


続けて、退場順の余白に引いた線を指す。


「雨のため、ご高齢の来賓を先に馬車寄せへお通しする名目が必要です。国王陛下の御配慮として案内できれば、順序を崩したようには見えません。傘は半拍早く寄せていただきます」


ルシアンは紙の上の印と、退場欄の細い線を目だけで追った。


「近衛を動かすより、椅子を一つ動かして火種を消す方がいい」


短く言ってから、セドリックを見る。


「その形で整える。儀典上の序列には触れない」


セドリックの肩の強張りが抜けた。動かすのは椅子であって、序列ではない。その線が示されたことで、儀典官として守るべきものは守れる。


「楽団の曲順は、私から楽団長へ直接お伝えします。音量を上げるのではなく、雨でも届きやすい低音を活かすだけです」


「頼む。馬車寄せはカイルへ回す」


ルシアンはエレナへ視線を戻した。


「現場で何かあれば、私か副官カイルへ。あなたの判断は、私が責任を取る」


「承知いたしました」


エレナは頭を下げた。自分の指先が、昨日より落ち着いていることに気づいた。




叙勲式は雨音の中で始まった。


式の間、エレナにできることは残っていない。だからこそ、紙の上で動かした一つひとつが、実際の人の間でどう働くかを見届ける。


モントローズとエルディンの間では、ファルベルク子爵家の令嬢が穏やかに言葉を渡していた。


「この雨では、庭の薔薇も少し重たげでしょうね」


なんでもない話。


けれど、なんでもない話を挟める空気の中では、若手の見栄は膨らみにくい。両家の年若い親族が互いを見る前に、ファルベルク嬢が自分の袖口の雨粒を笑い、両隣の夫人達がそれに応じる。両家の争いは、場に戻るきっかけを失った。


ファルベルク嬢自身は、果たした役割の大きさを、最後まで気づかないままだった。


叙勲者の名が呼ばれる直前、セレスティア姫がほんの一拍だけ視線を落とされた。袖口の飾り紐が、椅子の肘に触れたのだ。


その一拍に、来賓席の若手たちの目がご家族席へ流れかける。


エレナは息を止めた。


序奏が低く広がった。

しかし、半拍だけ遅い。


雨の湿気が弦に触ったのだ。

曲の入りが予定よりわずかに沈み、十六歳の令嬢の横顔へ、若手の視線が届きかけた。


椅子は一歩だけ、王族席寄りにある。


姫殿下が顔を上げられた。まなざしはそのまま叙勲者ご家族席へ届き、令嬢は小さく息をのんで頬を染めた。その赤みを見た若手たちは、ご家族席ではなく姫殿下の方へ視線を戻す。会場の空気は、値踏みの前で礼節へ戻った。


エレナは静かに息を吐いた。


低音の序奏は、奥の控え席にも届いていた。司教猊下は機嫌よく耳を傾け、若手聖職者たちは互いに顔を寄せる前に姿勢を正す。ささやきは、雨音と弦の下に沈んだ。


王族席で、国王アルベールは姿勢を崩さなかった。


叙勲者へ向ける拍手も、司教猊下へ向ける会釈も、前例の範囲を出ない。だが、姫殿下が一拍遅れて顔を上げた時、国王の視線はご家族席ではなく、会場の端へ一度だけ動いた。


ほんのわずか、目元が和らぐ。


視線の流れを見ている令嬢がいる。


国王は何も言わず、また正面へ視線を戻した。




式が終わる頃には、雨はさらに細かくなっていた。


退場の順は、ごく自然に始まった。国王陛下の御配慮という名目で、ご高齢の来賓が先に馬車寄せへ案内される。


濡れた石畳に杖先が置かれた。急がせれば危ない。待たせれば、後ろが詰まる。案内係は半拍早く傘を寄せ、近衛は馬車の横で一歩だけ角度を変えた。


来賓は足元を奪われず、威厳を損なわずに馬車へ乗り込む。その一台が乱れなかったことで、後続も乱れなかった。家々は順に雨をくぐり、誰かだけが濡れたわけではなく、誰かだけが待たされたわけでもない。


雨は、ただの雨で済んだ。


回廊の角では、護衛と給仕の歩が一拍ずれていた。ぶつからず、止まらず、それぞれの役目へ戻っていく。


ほとんどの者は、何が防がれたのかを知らない。


会場を出る者たちの口に残ったのは、「今日はとても良い式典だった」という、ごく平凡な感想だった。



王族席を離れる直前、国王アルベールは侍従長へ短く尋ねた。


「雨の退場順を整えたのは、誰の判断だ」


「近衛隊長ヴァルト卿にございます。発案は、儀典局・保安部の臨時補佐、エレナ・グランベル嬢と」


国王は、馬車寄せの方を見た。雨は細いまま降っている。最後の来賓の馬車が、音を立てずに石畳を離れていくところだった。


「そうか。雨まで見ていたか」


それだけ言って、国王は回廊の奥へ歩き出した。




式典後、エレナが保安部へ戻ると、机の上ではすでに片づけの紙が重ねられていた。ベアトリスがその脇に小さな茶器を置く。


「お疲れさま。司教猊下の随員まで気にする方は、これまでいませんでした」


「ささやきで叱責されるのは、たいてい若い随員たちですから」


エレナが答えると、ベアトリスは茶器の向きを少しだけ直した。湯気が、雨で冷えた指先に触れる。


長机の向こうで、イザークが帳面を閉じた。


「記録上は、何も起きていません」


「はい」


「私は、何も起きていない記録を大事にします」


それだけ言って、イザークは帳面の角をそろえた。記録官らしい肯定だった。何も起きなかったという記録を大事にしてくれるなら、それで十分だった。


セドリックが、次の式典資料の一枚を長机の端へ置いた。


「グランベル嬢なら、まずここを見ると思いました」


指していたのは、来賓家名一覧の序列下位に並ぶ一団。昨日までのセドリックなら、最初にそこへは印を入れなかっただろう。


「拝見いたします」


「その前に、お茶を。冷めますので」


セドリックは少しだけ視線をそらした。礼でも称賛でもない。ただ、次の紙を渡す手が、昨日より少しだけ迷っていなかった。


ルシアンは扉口に立っていた。カイルへ何かを伝え、こちらへ一度だけ頷く。大舞踏会の夜の視線が目撃だったとすれば、今日の視線は確認だった。


エレナは茶器を口元へ運んだ。


王宮では、何も起きなかった。


しかしその夜、王宮でのエレナの動きは、別の夜会で語られることになる。




同じ夜。


王都の北側にあるハルトレイ侯爵家の館では、内輪の夜会が開かれていた。招かれていたのは、ハルトレイ家に近い若手貴族たちと、その縁の令嬢たちで、広間ではなく奥のサロンが使われていた。


リリア・セレストは、ディオンの隣に座っている。


公に「ディオンの隣」に座る、初めての夜。席はディオンの計らいで上座寄りに配されていた。自分が選んだ相手を軽く扱うつもりはない、そう示したかったのだろう。


ただし上座寄りには、ハルトレイ家の年長の従姉と、侯爵令嬢クラリッサ・モントローズがいた。王宮にもハルトレイ家にも顔が利く家の令嬢である。


リリアは二人の間で可愛らしく微笑んだ。年長の従姉は表情では何も言わず、扇の角度だけを少し変える。クラリッサは紅茶のカップを傾けながら、リリアの家名と、子爵令嬢という立場を静かに見定めた。


会話は続いた。続いたが、空気の角が、わずかに尖った。


ディオンは、その尖りに気づかなかった。


食後、彼は隣の卓で年下の従弟たちと話し込んでいた。大舞踏会の夜のことを、誇り高い決断として語っている。従弟たちは笑った。笑いはしたが、少しだけ反応が遅れた。


そのうちの一人、オスカー・ベイルが言った。


「しかしディオン、君がエレナ嬢に婚約破棄を告げたあの夜、近衛隊長が彼女の名を控えたという話を耳にしたが」


紅茶のカップがいくつか、ほんのわずかに止まった。


ディオンは笑って手を振った。


「あれは、混乱の記録に控えただけのことさ」


「そうかね。王宮儀典局に彼女が出入りしているとも聞く。婚約破棄の翌日にだ」


オスカーの声は軽かった。軽いからこそ咎めにくい。


ディオンの口元から、笑いがわずかに薄れた。


「儀典局も、人手が足りないのだろう」


「なるほど。王宮は人手不足で、婚約破棄された令嬢を翌日に呼ぶのか」


ハルトレイ家の年長の従姉が、眉間をわずかに寄せた。クラリッサは紅茶を置き、リリアに微笑んだ。


「セレスト嬢は王宮の式典にはお詳しいの?」


「いえ、私はまだ……これから学びます」


「ええ。そうね。学ぶことは、たくさんございますもの」


棘はなかった。少なくとも表面上は。


リリアの隣で年長の従姉が、ほんの少しだけ扇を伏せた。ディオンは、その意味にも気づかなかった。


その夜の話題は、誰のものでもないところを静かに漂う。誰も、リリアの座りの悪さを自然な格好に変えなかった。誰も、クラリッサの目線を別の話題へ逃がさなかった。


ディオンは自室へ戻りながら、なぜか妙に引っかかる夜だったと思った。以前なら、空気が尖る前に、誰かが話題を変えていた気がする。


彼は、その誰かの名を思い出さなかった。


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