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第5話 儀典局の席は、思ったより硬い

王宮儀典局・保安部は、大舞踏会場からほど近い一角にあった。


回廊をひと曲がりしただけで、シャンデリアの光は背後へ薄れる。壁には絵画ではなく、図面と告示が並んでいた。


来賓家名の一覧、控室割り当て、馬車寄せの順序、使用人通路の配置、楽団の控え位置、護衛配置の概略図。


エレナはその前を通りながら、自然と呼吸が戻っていくのを感じた。


誰が何色のドレスを着ているかより、誰がどの通路を通るかが問題になる場所。


大舞踏会場には、視線と噂と音楽があった。ここには、扉の位置と退場順と、人々が歩く床の動線がある。華やかさから遠い分だけ、エレナの足は迷わず進んだ。



保安部の扉の前で、若い儀典官が頭を下げた。


「お待ちしておりました。セドリック・オルランと申します、グランベル嬢」


礼は正しかった。ただし、顔を上げた時の目には、まだはっきりと保留が残っている。婚約破棄から日も置かずに王宮へ呼ばれた伯爵令嬢を、客として扱うのか、職員として扱うのか、彼自身も決めかねているのだろう。


「皆が中でお待ちです」


「ありがとうございます」


エレナは頭を下げた。扉が開く音は、思っていたより重かった。


部屋の中央には、長机が一つ置かれていた。


近日中に予定されている叙勲式の席順表、来賓名簿、控室割り、護衛配置図が、机上で向きをそろえている。紙は美しく整えられているが、その端を押さえる手つきは、それぞれ少しずつ違っていた。


長机の奥では、初老の儀典官が書面の角をそろえている。

覚書にあった名は、マティアス・レーヴェル。

儀典局上級儀典官。紙をまっすぐに整える指先から、前例と手続きに慣れた人だと思われた。


その隣で、無口そうな男が帳面の日付欄へ細い字を書き入れている。

記録官のイザーク・フェルモだろう。

彼はエレナへ一度だけ視線を上げ、すぐにペン先を帳面へ戻した。


長机の脇には、黒いドレスの女性が立っている。胸元に儀典局の徽章。

ベアトリス・ロウェル。

控室担当として記されていた名前だ。彼女は席順表だけでなく、セドリックの手元や、エレナが扇を握る指も見ているようだった。


ルシアン・ヴァルトは、長机の手前に立っている。

黒に近い濃紺の制服に銀の飾緒。昨夜の広間よりも、この紙の匂いのする部屋の方が、近衛隊長という肩書きに似合って見えた。


彼はエレナを見ても表情を変えなかった。代わりに、机上の席順表を指先で軽く押さえる。彼女を客ではなく補佐として扱う仕草だった。


「お越しいただき、感謝する」


ルシアンは言った。


「グランベル嬢を、本日より臨時保安補佐とする。皆、よろしく頼む」


最初に口を開いたのはマティアスだった。


「ヴァルト卿」


声は抑制されている。だが、整いすぎている分だけ、部屋の温度が一段下がった。


「念のため伺います。補佐の任命は、本来、儀典局内の手続きを経るものと記憶しております。婚約破棄されたばかりの令嬢を、お家の事情を整理する間も置かずに迎える理由を、明確にしていただきたい」


エレナは、手袋の指先にわずかに力を入れる。


予想していた。むしろ、この問いが出ないまま始まる方が不自然。マティアスの視線は鋭かったが、好奇や嘲りはない。手続きの穴を、手続きとして確かめている目だった。


ルシアンは表情を変えず、マティアスを見返した。


「臨時補佐の依頼は、すでに儀典局名で発出済みです。内規上の任命記録は明日付けで通します」


「手続きの話だけではありません」


「そうですね」


ルシアンは淡々と続ける。


「採用理由を申し上げます。先夜の大舞踏会において、グランベル嬢の判断は、近衛隊の判断を一手早くした。剣を抜く前に場の緊張を逃がせる者は、王宮にはおりません。叙勲式は王族のご臨席を伴う式典です。私は保安責任者として、この起用を必要だと判断しました」


「噂を呼びます」


マティアスが言った。


「彼女がここに座ることで、ハルトレイ家からの抗議が儀典局に及ぶ可能性も否定できません」


「抗議は、私が受けます」


ルシアンの声は、はっきりしていた。


「グランベル嬢の任務は保安補佐です。社交界の評価担当ではありません」


紙の端を押さえていたセドリックの指が止まる。イザークは帳面に何かを書き留め、ベアトリスは席順表から一瞬だけエレナへ視線を移す。


エレナは、一歩だけ前へ出た。


「マティアス殿」


マティアスの視線がエレナへ向いた。


「ご懸念は、もっともです。私がここにいることで、儀典局の皆様に余計な説明を強いることになるかもしれません」


自分で言って、胸の奥が少しだけ冷えた。けれど、ここは避けて通れない。


「ただ、私は慰めを受けに参ったのではありません。必要がないと判断されましたら、外していただいて構いません。まずは補佐として拝見し、必要なことを申し上げます」


マティアスは答えなかった。沈黙のあいだに彼の指が書面から離れる。否定せず、吟味していた。


ルシアンが机上の紙へ視線を戻す。


「では、仕事の話に移る」


その一言で、部屋の空気はようやく書類の方へ戻った。


「グランベル嬢」


「はい」


「あなたは、席順、控室、退場順、楽団との連携、給仕動線、護衛位置を確認する。危険を予見した場合は、私、またはマティアス殿へ申し入れる。最終判断は、私か儀典局が行う」


「承知いたしました」


「あなたは、見えた危険を挙げる。それでいい」


明確な線引だった。エレナは儀典局を動かしに来たのではない。見えた危険を、見ないままにしないために来たのだ。


セドリックが紙束を差し出す。


「叙勲式の席順表です。ご確認ください」


「拝見いたします」


エレナは紙を受け取った。


受け取った瞬間から、目線は自然に動き始める。

王族席、叙勲者の席、来賓席。家ごとの並び。退場順。給仕通路。護衛配置の点。控室割り当て。


いくつか、気になる箇所があった。

ただ、そのいくつかを今この場で口にしてよいのか、判断がつかない。


臨時補佐。

正式職員ではない。


初日に前例を否定する形で発言を始めれば、マティアスは硬化するだろう。セドリックも、秩序を守る方に回るかもしれない。


エレナはペン先を動かしかけて、止めた。


「何か、お気づきですか」


声をかけたのはベアトリス。彼女は長机に手をつき、エレナの方へ少しだけ身を乗り出した。


「小さなことほど、先に伺った方が助かります。儀典局では、後で出てくる方が、たいてい面倒なものですから」


口調は柔らかい。ただし目の奥は、しっかりとエレナを見据えていた。


エレナは扇を閉じた。


「では、一点だけ確認させていただいてもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


ベアトリスが促す。


エレナは席順表ではなく、退場順の欄に視線を落とした。



「当日は、雨の可能性がございますか」



セドリックが意外そうな顔をした。


「天候ですか」


「はい。馬車寄せの石畳が濡れますと、ご高齢の来賓の歩幅が変わります」


エレナは、退場欄に指先を置いた。王族席から馬車寄せへ向かう線と、給仕の片づけが通る線が、紙の上では細く離れている。


「歩幅が変わると、退場順が一拍ずれます。その一拍が、護衛と給仕の動線に重なる可能性があります」


マティアスの眉が、わずかに動く。


「確かに。ですが、予測にすぎませんな」


「はい。ですから、今ここで席次を動かすべきだとは申し上げません。動線の引き直しも、まだ申し上げません」


エレナはそこで一度、言葉を切った。否定ではなく、余白を出す。相手の仕事を壊さず、現場の逃げ道を作る。


「ただ、退場順の名目だけ、一拍分ずらして組み直していただけませんでしょうか。紙の上の順を変えるだけで、当日、現場で調整が利きやすくなります」


部屋の空気が少しだけ変わった。


エレナは席次を否定しない。前例も否定しない。ただ、紙の外にある雨の影響を見ようとした。


セドリックが退場順の欄を覗き込む。


「名目上の順を、ですか」


「はい。実際の席は変えません。ですが、退場時に先に声をかける相手を一組入れ替えるだけで、馬車寄せの詰まりを避けられるかもしれません」


「なるほど」


セドリックは呟いた。その声には、先ほどよりも、わずかに仕事の色が戻っていた。


ルシアンはそこで判断を下した。


「その線で進める。退場順の名目は組み直せ。席次と動線はそのままでよい。あわせて、明朝、馬車寄せと回廊の角の現場確認を許可する」


マティアスは、すぐには答えなかった。視線は退場欄に落ちたまま、紙の上にない雨を測っているようだった。


「……名目上の組み直しまでです。今回に限り」


「承知いたしました」


エレナは深く頭を下げた。


それで十分だった。席次そのものも、動線も書き換えていない。ただ、紙の上の名前の順を、一拍だけ整えた。


そしてここでは、気づいてしまったことを、飲み込まなくてもいいのだと分かった。




会議が終わった後、ベアトリスがエレナを部屋の隅へ案内した。


「あなたの席です」


そこには、小さな机が一つ置かれていた。


長机からは少し離れている。扉に近く、窓から遠い。客席ではなく中心でもない。けれど、部屋の出入りと書類の流れを見渡すには、悪くない場所だった。


椅子は座面が硬かった。背もたれの角度も上品ではあったが、長く座るには向かない。


「華やかではありませんけれど」


ベアトリスは片眉を少し上げた。


「ここでは、何を見て、何を見落とさなかったかが問われます。あなたには向いているかもしれません」


エレナは椅子に手を触れた。木の硬さが、冷えていた指先にそのまま返ってくる。


「ありがとうございます」


「礼を言うには、少し早いわ。ここは、座っているだけで腰が痛くなりますもの」


「でしたら、立って確認する理由が増えますね」


ベアトリスは一拍置いてから、笑った。


「なるほど。そういう方でしたか」


エレナは椅子に腰を下ろした。


思ったより硬かった。けれど、不思議と嫌ではなかった。柔らかい慰めの椅子でも、誰かに気遣われるための椅子でもない。ここでは、何を見たか、何を見落とさなかったかが問われる。


エレナは机の上に席順表を置いた。その横に、退場順の控えと、馬車寄せの図面を並べる。紙の端はまだ白く、雨の跡も、誰かの靴跡もない。


まだ何も起きていない。だからこそ、今のうちに見なければならない。


与えられた席は思ったより硬い。


けれど、エレナはその硬さに、少しだけ息をつけた。


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