第4話 王宮からの指名依頼
翌朝の屋敷は、いつもより静かだった。
夜のあいだに、王宮から戻った従者の口から、昨夜の出来事の端が屋敷へ届いていた。
氷のようだった、と言った者がいたらしい。近衛隊長が、なぜか彼女の名を控えたらしい。どれも、噂と呼べるほど整ってはいない。
それでも、朝の支度をする使用人たちの声には、もうその断片が混じっていた。
ノーラは、わざわざエレナへ告げはしなかった。廊下の向こうで低く交わされる声を聞くたび、扉の閉め方を少しだけ丁寧にしたが、厳しく止めることもしなかった。
止めても声は消せない。ノーラは、そう判断したのだろう。
エレナ自身は廊下の声よりも、家と王宮に迷惑をかけたことの方が気になっていた。
朝食の卓では、父が無言で紅茶を啜っていた。
ハルトレイ家への抗議文の草案は、夜のうちにエレナが整え、父の机に置かれていた。父はそれを読み、半時ほど黙った後、署名した。
署名の最後の一画で、父の指には力が入った。
「エレナ」
父は娘を見た。
「家のことまで、お前に書かせるべきではなかった。本来なら、私が引き受けるべきことだ」
「お父様の方が、ずっと文面が重くなります」
エレナは淡々と言う。母はカップを持つ手を止めたが、父は遮らなかった。
「重い文面は、向こうに揚げ足を取られます。今は軽い言葉で、必要なことだけを通した方がよろしいかと」
父は何かを言いかけて止めた。それから、ため息に似た息を一つだけ吐いた。
「お前は昔からそうだった」
「そう、とは」
「誰かが転ぶ前に、杖を渡す子だった」
エレナはすぐには答えなかった。
誉められたのか、叱られたのか、分からなかった。どちらにも聞こえることが、少しだけ苦しかった。
正午前、玄関に使者が立った。
王宮儀典局・保安部よりの使者でございます、と取次の家令が告げる。昨夜届いた一報の通りだった。
父も母も、応接の間にいた。マリアンヌは扉の脇に立っている。誰もが、まだ少し緊張した顔をしていた。
使者が運んできたのは、二通の書状。
一通は、王宮儀典局からの正式な書面。
もう一通は、王宮儀典局・保安部責任者、ルシアン・ヴァルトの私名で添えられた、短い覚書。
エレナは、最初に正式な書面を開いた。封蝋の下にある文面は、慰めの言葉から始まってはいなかった。
王宮儀典局・保安部は、グランベル伯爵令嬢エレナ嬢に対し、近日中に予定されている小規模叙勲式の準備および当日運営につき、臨時の保安補佐を依頼する。
そう記されていた。
次に明記されていたのは、依頼理由ではなく、権限の範囲だった。
命令権は王宮儀典局および近衛隊に属すること。エレナは、来賓導線、給仕、楽団、控室、退場順に関する確認と助言を行うこと。当日の指示は、必ず儀典局職員または近衛隊を通して発されること。
父の眉が、わずかに動いた。
王宮が伯爵令嬢を便利に使うための、曖昧な呼び出しではない。少なくとも文面の上では、責任の所在を王宮側に置いた依頼。
理由として並べられていたのは、王宮大舞踏会における判断だった。
給仕長への適切な連絡。楽団演奏を中断させなかった判断。ご婦人方および高齢の招待客の安全な退避誘導。ハルトレイ侯爵家の動線変更による混乱拡大の回避。そして、近衛隊の介入を要しない収束への寄与。
母が、そこまで読んだところで、わずかに身を乗り出した。
さらに、近日の叙勲式について短い補足があった。列席者には高齢の功労者が多く、北方の二家が同席する。レイゼル国の書記官も見学の名目で参列する予定であり、儀典上は小規模でも、導線と席次の誤りが目立ちやすい。
近衛隊は武力による制止を担う。
儀典局は礼法と進行を担う。
だが、その二つの間で、剣を抜く前に緊張を逃がす者が足りない。
文面は乾いていた。乾いた文面の中に、昨夜エレナが変えた流れが、手順として置かれている。
エレナは紙の縁を指で押さえた。
あの場で必要だったから、ただ行ったこと。その気づかれなくてもよいと思っていたことが、文字になっている。
母が、書状を覗き込んだ。
「エレナ。これは……」
「依頼です」
エレナは、自分の声が少し平坦に響くのを聞いた。
「お慰めの文ではございません」
父が声を低くした。
「婚約破棄の翌日に、王宮に出ろということか」
その言い方は鋭かった。だが、怒りはエレナへ向いてはいない。
「お前は、ハルトレイの侯爵家から、公衆の面前で切り捨てられたばかりだ。社交界の噂はまだ熱い。今、王宮に出れば、また見世物になる」
その通り。エレナにも分かっている。
「私も、そう思います」
エレナは書状を膝の上に置いた。
「断る理由はあると思います。家のことを思えば、断る方が理屈が通っています。お父様にも、お母様にも、ご迷惑がかかりかねません」
「では」
「ですが」
エレナは、もう一通の覚書へ手を伸ばす。
ルシアンの私名の覚書は、正式書面より薄い紙に、三行だけ記されていた。
必要だから、お願いしています。
昨夜、剣を抜く前に場の緊張を逃がしたのは、貴方です。
命令権と責任は保安部が負います。貴方には、その一手前を見ていただきたい。
エレナは二度読んだ。二度目は文字の間隔まで読んだ。
そこには、昨夜の婚約破棄を慰める言葉はなかった。氷の令嬢という噂を打ち消す言葉もなかった。ただ、必要だからと書かれていた。
マリアンヌが扉の脇で、わずかに首を傾げた。
「お姉様。なんと書かれているのですか」
「……仕事の話です」
エレナは覚書を母に渡した。母が読み、それから父へ手渡した。
父は覚書を読み終えると、しばらく黙った。
「この近衛隊長は」
父は、ようやく言った。
「お前を駒に使うつもりではないようだな」
「はい」
「同情で呼んでいるわけでも、なさそうだ」
「同情で呼ぶ文面では、ございません」
父は目を閉じた。眉間には、いつもより深い皺が寄っている。父としては止めたい。家長としては止めきれない。その二つが、同じ顔の中で押し合っているように見えた。
「お前が決めなさい」
父は言った。
「私は行かせたくない。だが、家長としては、断ることが我が家のためになるとも思えない。決めるのは、お前だ。私たちは、どちらに決めても受ける」
エレナは両親の顔を順に見た。それから扉の脇のマリアンヌを見た。
マリアンヌは、口元を引き結んだ顔で、ただ姉を見ている。
エレナは自分の手の上に置いた書状へ視線を戻した。
噂そのものを恐れているのとは違う。
婚約破棄の直後に王宮へ出れば、噂は強まるだろう。グランベル家にも迷惑がかかるかもしれない。ハルトレイ家との間にも、新しい火種が生まれかねない。
しかし何より、自分が本当に役に立てるのか、確信が持てなかった。
あの夜に動けたのは、たまたまかもしれない。自分の判断が次も正しいとは限らない。王宮の保安は、自分のような令嬢が軽々しく引き受けてよい仕事ではない。
ただ、一行だけ。頭から離れなかった。
貴方には、その一手前を見ていただきたい。
剣が抜かれずに済んだことには、確かに意味がある。意味があるなら、断ってよい理由は、自分にはない気がした。
「お父様。お母様」
エレナは目を上げた。声は、いつもの声だった。
「お受けします」
母が息を呑んだ。
父は目を閉じたまま、ゆっくりと頷いた。
「私で足りるのであれば、務めます」
エレナは、もう一度、書状の文面に視線を落とした。そこには、彼女を哀れむための言葉はない。
代わりに、保安補佐、と書かれていた。
使者は、エレナの返答を確認すると、初登庁の時刻と、王宮儀典局・保安部の場所を丁寧に告げた。
覚書の裏には、当面関わるであろう担当者の名が小さく記されていた。
儀典局上級儀典官、マティアス・レーヴェル。
進行担当、セドリック・オルラン。
控室担当、ベアトリス・ロウェル。
記録官、イザーク・フェルモ。
名前を覚えるのは、明日でいい。けれど、役割だけ今のうちに頭へ置いた。
使者を送り出した後、応接の間には沈黙が残った。
最初に動いたのはマリアンヌだった。
「お姉様」
妹はエレナのそばに来ると、姉の袖をほんの少しだけ握った。
「無理は、しないでくださいね」
「ええ」
「お姉様の大丈夫は、信用していないんですから」
「分かっています」
「分かっている方は、昨日の夜、あんな顔で草案を書きません」
エレナは、少しだけ目を伏せた。
マリアンヌの言葉は正しい。正しい言葉は、慰めよりも逃げ場がない。
「では、無理をしているときは、あなたが気づいてください」
「それは、もう気づいています」
マリアンヌは即答した。
母が初めて小さく笑った。父も、表情は厳しいまま、目元の力を緩めた。
エレナは妹の手の上に自分の手を重ねた。
その手の温度は、昨夜よりも戻っている気がした。
その夜、エレナは寝室の机の上に新しい紙を一束置いた。
表題を書く前に、少しだけ手が止まった。
捨てられた令嬢。
情のない令嬢。
冷たい氷令嬢。
外では、いくつもの名が勝手につけられている。けれど、王宮から届いた書状には、そのどれも書かれていなかった。
エレナは、ペンを取った。
王宮儀典局・保安部、保安補佐。
そう表題を書いた。
その下に、一行ずつ、項目を並べ始めた。
叙勲式。
来賓導線。
退場順。
馬車寄せ。
楽団。
給仕。
高齢者席。
近衛隊との連携。
捨てられた令嬢としてではなく、王宮式典の保安補佐として。
エレナは、もう一度、あの王宮へ向かうことになった。
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明日から7:10と19:40に投稿します。




