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第3話 家に帰っても、泣けなかった

馬車の窓の外に、王宮の灯りが流れている。


正面玄関を出るとき、エレナは扉番に短く礼を言った。回廊の端に立っていた近衛兵が、かすかに頭を下げる。会場で剣を抜かずに済んだことを知っている者の、声にならない挨拶だった。


エレナは会釈を返す形だけを整えて、馬車寄せへ向かった。


グランベル家の馭者は、いつもより少しだけ早く扉を開けた。父も母も、従者たちも、誰も声を大きくしない。その静けさに助けられながら、エレナは裾を持ち上げた。


そのとき、馬車寄せの先で、別の家の侍女たちが小声で話しているのが聞こえた。


「涙ひとつ、こぼされなかったんですって」


「冷たいお方。氷令嬢ですわ」


声はエレナに向けたものではない。けれど、夜気は小声をよく通す。


エレナは聞こえなかった顔のまま、馬車に乗った。



馬車の中は暗かった。


母は座席の隅に身を預け、目を閉じていた。父は向かい側に座り、組んだ手の指を何度も組み直している。何かを言えば、そのまま怒りが外へこぼれてしまうと分かっているような手つきだった。


エレナは、膝の上に重ねた自分の手を見ていた。手袋は、まだ外していない。外したら、指先がどれほど冷えているかを、自分が知ってしまう。


馬車が王宮の敷地を離れ、車輪の音が石畳から屋敷町の道へ移るころ、エレナの頭の中では、明日の順番が並び始めていた。


 王宮への謝意。

 ハルトレイ家への正式な確認。

 婚約破棄に伴う書面の整理。

 社交界への説明文案。

 母を見る医師の手配。

 父がハルトレイ家へ怒鳴り込まないようにする方法。


考えることは、すぐに紙の上へ移せるほど整っている。その中に、自分の感情を置く余白だけがなかった。


幼いころから、エレナは家の夜会の前後に、席次表の余白や馬車寄せの順を見て育った。


誰が疲れやすいか、誰と誰を近づけない方がよいか、父が笑って済ませた言葉のうち、どれが翌朝の詫び状になるか。


それらを先に拾っておけば、グランベル家の夜は大きく荒れずに閉じられた。


だから今夜も感情よりも先に、段取りが立った。



屋敷の玄関を入った瞬間、マリアンヌが駆け寄ってきた。


「お姉様」


妹はエレナの腕に手を回しかけて、寸前で止めた。姉の顔を見て、抱きつくには少し遠い場所に踏みとどまる。


「お母様の方を、お願い。お父様も少し落ち着いていただいて」


エレナは、妹の頬に軽く触れた。薄い手袋越しでも分かるほど、指先は冷えている。マリアンヌの目が、わずかに見開かれた。


「私、寝室で書類を見ます。今夜のうちに整えておきたいことがあるから」


「お姉様」


「あとで、ね」


マリアンヌは何かを言いかけて、口を閉じた。


母の顔色が悪いこと。父が怒りを押し殺したまま黙っていること。姉が帰宅してすぐ、書類を見ると言ったこと。


夜会で何が起きたのかを全部知らなくても、その三つだけで十分だった。


エレナは、妹の目を見ないまま階段の方へ歩いた。



寝室の前で、ノーラが待っていた。


エレナ付きの侍女は、夜会用のドレスを脱がせる準備を整えていた。ただし、いつものように黙って部屋へ通すのではなく、扉の前で一度だけ主人を呼び止めた。


「お嬢様。お顔を、お見せいただきとう存じます」


エレナは立ち止まった。


ノーラは、そこで頭を下げなかった。長く仕える者の目で、エレナの顔を静かに見ている。


「会場でのお顔と、お部屋でなさるお顔は、同じでなくてよろしゅうございます」


エレナはノーラの顔を見られなかった。代わりに、自分の手袋を外す動作に集中する。手袋は、思ったよりもするりと抜けた。


指先は、やはり冷えていた。


「先にお茶を。いつもより濃く」


エレナは言った。


「あと、書斎から薄い罫線の紙を一束、持ってきてください」


ノーラの動きが一瞬だけ止まった。


「お嬢様」


「お願い、ノーラ」


ノーラは何かを呑み込んだ顔で頷いた。黙って下がる足音が、今夜は少しだけ重かった。



寝室の机に、紙が積まれた。


ドレスを部屋着に替えるあいだ、エレナは鏡を見なかった。髪飾りだけがまだ光を残し、部屋の灯りを小さく返している。


机の前に座ると、エレナは羽根ペンを取り、最初の紙に表題の行を書いた。


ハルトレイ家関係事務。


その下へ、必要な項目を置いていく。


 婚約破棄通告に対する正式照会。

 婚約期間中の贈答品の取り扱い。

 両家共通の知人への挨拶状の文案。

 社交界に対する公式な説明と時期。


二枚目を引き寄せ、王宮儀典局、と書く。


 本日の混乱についての謝意。

 給仕長トマ様への礼。

 楽団長オルガ様への礼。

 扉番の老使用人への謝礼。

 レイゼル国の使節団へ、場を騒がせたことへの詫び。


紙の上には、夜の出来事が順番を持って並んでいく。


三枚目を引き寄せたところで、エレナは手を止めた。


ハルトレイ家からの婚約破棄が正式手続きに移る場合、グランベル家側で必要となる書類はいくつかある。父は、その手の事務を嫌っていた。父にやらせれば、必ず感情が混じる。混じれば、相手側に揚げ足を取られる。


エレナが下書きまで作っておけば、父は署名だけで済む。


そう考えながらペン先を紙に下ろした。


インクの一滴が、白い紙の上で小さく丸くなった。



そこへ、扉が叩かれた。


「お姉様」


マリアンヌだった。


返事を待たずに扉が開く。妹は紅茶のポットを自分で持っていた。後ろに立つノーラが、少し戸惑った顔をしている。


マリアンヌはノーラに目で礼を言うと、カップを机に置き、茶を注いだ。湯気が紙の端を薄く曇らせる。


「お姉様」


妹は机の上の紙を見た。


「これは、なんですか」


「明日からの段取りです」


エレナは答えた。


「お父様に整えていただく前に、要点をまとめておこうと思って」


マリアンヌはしばらく黙った。それから、エレナの手から、そっとペンを取った。


「お姉様。もう会場ではありません」


妹の声は、いつもより低かった。


「何があったのか、全部は知りません。でも、お姉様が帰ってすぐ書類を書かなければならないような夜では、なかったはずです」


エレナはペンを取り戻そうとした。マリアンヌの手は、細い指でペンを握ったまま動かなかった。


「泣いても、誰も困りません」


「マリアンヌ、私は大丈夫よ」


「お姉様の大丈夫は、あまり信用していません」


妹は、はっきりと言った。


「人前のお姉様なら信じます。お屋敷の中では、信じません」


エレナは何かを言いかけた。喉の奥で言葉が引っかかる。涙よりも、飲み込むには大きすぎるものがそこにあった。


マリアンヌはペンを机の上に戻した。


「私は、お姉様が冷たいなんて、一度も思ったことがありません」


エレナは目を閉じた。深く息を吸う。吸い終わるまでに、思ったより長くかかった。


「……ありがとう、マリアンヌ」


声は、いつもの声だった。


マリアンヌは、それを少しだけ寂しそうな顔で受け取った。



マリアンヌが下がった後、ノーラがそっと部屋に戻ってきた。


ノーラはエレナの背中に近づくと、髪飾りへ手を伸ばした。


「お嬢様。少し、髪飾りを直しましょう。こちらを向かなくて結構です」


エレナは何も言わなかった。


ノーラの指は慣れた動きで髪飾りを外し、結い上げた髪を解いていく。外された飾りが布の上に並ぶたび、かすかな金属音がした。


エレナは、鏡の中の自分を見た。


鏡の中の令嬢は、いつもの通り整って見えた。頬に涙の跡はなく、口元も乱れていない。王宮を出たときと、ほとんど変わらない顔だった。


「泣く前のお支度はできますが」


ノーラは最後の髪飾りを布の上に置きながら言った。


「泣いた後のお支度もできます」


エレナは、ようやく唇を少しだけ動かした。


「……今夜は結構です。明日から忙しくなるから」


ノーラは何も言わなかった。


ただ、扉の脇に新しいハンカチを一枚、目に入る場所へ置いてから静かに下がった。



夜が更けた。


エレナは机に向かい続けた。父の机へ回す草案を一枚、別に重ね、ノーラに託す。王宮へ送る礼状の宛先を確認する。社交界への説明文は、言葉を重くしすぎないように余白を広めに取った。


紙が整っていくほど、頭の中は静かになった。


その静けさに、体だけがついてこなかった。肩の奥は冷えたままで、指はペンの軸を持ち替えるたびに少し遅れた。


廊下の先で軽い物音がした。玄関口で、父の使いの者が何かを受け取った気配がある。


しばらくしてノーラが戻ってきた。手には封筒が一通あった。


「お嬢様。王宮儀典局・保安部より、お届け物にございます。明朝、改めて使者を立てる旨の、ご一報とのことです」


エレナの手が、わずかに止まった。


正式な使者は明朝。けれど、その前触れが今夜のうちに届いた。


急ぎなら、使者を今すぐ立てるはず。軽い用件なら、明朝まで待てばよい。


そのどちらでもない。


封筒には、王宮儀典局・保安部の名が、確かに記されている。


エレナは封筒を机の隅に置いた。王宮保安部からの書状は、本来、当主の前で受けるものだ。まして、明朝には正式な使者がくるという。今夜、自分ひとりで封を切ってよい用件ではない。


封筒の角は視界の端に残った。


エレナは、もう一度、机に向き直った。書きかけの紙の上に目を落とす。白紙に涙は落ちなかった。


そのかわり、明日からの段取りの続きを、端から順に書き出した。


ペンを動かしながら、ふと思った。


泣けないことが、こんなにも疲れることだと、今夜、初めて知った。


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