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第2話 泣くなら、硝子を片づけてから

会場は閉じきってはいない。


ディオンの声は止んだ。リリアは彼の袖を握ったまま、自分が次に何をすべきか分からない顔をしている。


壇上の二人を、誰もが見ているわけではなくなった。多くの視線は、西の扉へ向かう婦人方と、酒杯を下げて回る給仕たちへと移っている。


エレナは、そう判断した。


壇上に視線が集まりすぎれば、また音が止まる。音が止まれば、誰かが何かを言わなければならなくなる。誰かが返事を求められる沈黙ほど、危ういものはない。


割れたグラスの上に布をかけた若い給仕が、こちらを見る。リゼットという名の新しく入った給仕だ。


エレナは軽く頷いた。布ごと回収してよい、という合図だった。


「リゼット」


エレナの声は柔らかい。


「布の四隅を内側へ。重ねて持ち上げてください。素手では扱わないで」


リゼットは少し青い顔のまま、言われた通りに動いた。布の重みで、破片同士が触れ合う乾いた音が小さく鳴る。それだけ。誰の足裏も、誰の指も、切らずに済んだ。


エレナは視線を移す。


楽団席の方では、オルガが既に次の曲の拍を整えている。会場の婦人方は、西の扉から庭園テラスへ流れ出している。冷えた夜気が室内の熱を少し連れ出していた。


トマは、湯気の立つ茶のポットを、ハルトレイ家の縁者たちの卓へ自然に運んでいる。酒杯を下げ、茶器を置く。その動きは、まるで最初から予定されていた給仕の順番のようだった。


「西側を使う。ご婦人方と高齢の方を、先に」


ルシアン・ヴァルトの声。


「庭園側のテラスは近衛を二名。馬車寄せまでの回廊にも一名配置する。ハルトレイ家の方々は、東側のサロンへ別の導線でご案内せよ。給仕長、茶の補給を頼む」


その声は、エレナが数息前に作った流れを、王宮近衛隊の正式な指示として置き換える声だった。


エレナの「依頼」が、ルシアンの「命令」に組み替えられた瞬間、近衛兵たちの背筋が伸びた。彼らは令嬢の機転に従ったのではなく、近衛隊長の指示に従う形になる。それで面子は守られた。


エレナの扇を持つ手から、少し強張りがなくなる。


ルシアンの声が、彼女の依頼を王宮での指示に置き換えてくれる。今のエレナに必要なのは、その声だった。



「お父様」


エレナは、母の体を支えている父の方へ歩み寄る。


「お母様を馬車寄せの控えの間へ。まだ会場の話は続きます。お母様には、人の少ないところでお休みいただきたく存じます」


父の唇は、まだ少し震えている。怒りが抜けきっていない顔。エレナは父の目を真っ直ぐには見ない。代わりに母の頬の血色をもう一度確認した。


「お父様が運んでくださる方が、お母様も安心なさいます」


父は何かを言いかけて止めた。それから、母の体を抱え直した。父の手の関節は白くなっている。それでも、その手は妻の体を抱えていた。


「エレナ」


母が薄く目を開ける。


「あなた、自分は……」


「私は大丈夫です」


エレナは母の額に短く触れた。


「あとで、ご一緒します」


母は何か言いたげに口を開いた。しかし、父の腕が母の体を抱え上げ、父は娘の方をもう一度だけ振り向く。何か言いたげな表情だった。


エレナは、ほんのわずかに首を横に振った。


今は、と目で言う。


父は、それを受け取って、母と共に会場の奥へ消えた。



壇上では、ディオンが、まだ立っていた。


「待ってくれ」


ディオンの声が一段、低くなる。


「私は君と話をしているんだ、エレナ。逃げるのか」


エレナは振り返った。


「ハルトレイ卿」


相変わらず声は震えていない。


「王宮の場を私事でこれ以上乱すわけにはまいりません」


「私事だと」


ディオンの声に怒りが混じる。


「真実の愛だと言っている。それのどこが」


「真実の愛のお話を、レイゼルのご使節と王族の御前で、伺うべきとは存じませんでした」


エレナは頭を一度だけ下げた。


「正式なお話は、後日、家同士で承ります」


リリアがディオンの袖をもう一度引いた。彼女の頬の赤みは、もう先ほどとは違う赤みになっていた。会場のあちこちから注がれている視線の質が変わっていることに、彼女はようやく気づき始めた。


可憐な恋人として見られているのではない。

王宮の場を乱した一人として見られている。


「ディオン様」


リリアの声は小さかった。


「あの、私……外の風を……」


ディオンはリリアを見て、それから会場の流れを見た。婦人方は西へ、若い貴族は東へ、給仕は奥へと動いている。誰もディオンの言葉の続きを待ってはいない。彼の演説は、すでに会場のどこにも居場所を持っていなかった。


「……エレナ」


もう一度、ディオンが名前を呼ぶ。


「君は本当に、何も思わないのか。今、私が君に告げたことに対して」


エレナは答えない。


代わりに、扇を、もう一度開く。風で彼女の頬の熱が、わずかに冷えた。


「ハルトレイ卿。お話は、後日」


彼女はもう壇上を見なかった。



ルシアンが近くに立っていた。


彼はディオンへ視線を向けた。睨むわけではないが、王宮で許される言葉と許されない言葉の境目を、相手に思い出させる険しい目だった。


ディオンは一瞬、口を閉じる。


「カイル」


ルシアンが近衛を呼んだ。


「東側サロンへ。ハルトレイ侯爵家の方々を、儀典官立ち会いのもとでお通ししろ。グランベル伯爵家とは導線を分ける」


「了解」


カイルと呼ばれた近衛兵が、メモを取りながら走り出す。


エレナは扇を閉じた。閉じきるまでに、いつもより一拍長くかかった。


ディオンの声が頭の隅に残っている。


「君はいつも冷静だった。だが、その冷たさに、私は一度も愛を感じなかった」


冷たい、という言葉が、なぜか今、後を引いた。


会場の他の音は、もう正しく耳に入ってこない。楽団の曲は続いている。けれど、同じ旋律だけが何度も耳の奥で繰り返されている気がした。



「グランベル伯爵令嬢、エレナ様ですね」


ルシアンが確認するように言った。


エレナは、すぐには返事ができなかった。


「……はい」


ようやく、声は少しだけ揺れる。


ルシアンは、その揺れを聞き逃さない。けれど慰めの言葉は口にしなかった。


「あなたの判断で、流血が避けられました」


エレナはルシアンを見た。


「近衛が剣を抜く前に、あなたが場の緊張を逃がした」


ありがとうございます、と言うのも違う気がした。褒められた、と受け取るのも違う。


「……まだ、会場に混乱が残っているはずです」


エレナは、ようやく言った。


「西側回廊の馬車寄せが混みます。庭園側へ流したご婦人方と、退出のご年配の方が、同じ導線で出てしまいます。いったん東のサロンを経由していただけると」


ルシアンは副官へ短く合図した。


「それで進める」


それだけ。けれど、その一言で、エレナの提案はまた王宮の指示になる。


会場の混乱は、ようやく終わりの形を取り始めた。


ルシアンは残っている人の流れを確かめてから、低く言った。


「ここから先は近衛隊が引き取ります」


エレナは返事をしなかった。


返事をすれば、その瞬間、自分はここから逃げていいのだと、体が受け取ってしまいそうだった。


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