第1話 婚約破棄より、退場口を数えます
婚約破棄を告げられた瞬間、エレナ・グランベルが最初に見たのは、婚約者の顔ではなかった。
退場口、三つ。
開いている扉、二つ。
そのうち一つは、騒ぎに足を止めた貴族たちで半分ふさがっている。
王宮の大舞踏会場。その中央にエレナは立っていた。
今夜は、王太子主催の歓迎舞踏会。
隣国レイゼルの使節団を迎える、正式な式典の前祝いである。
王族、有力貴族、レイゼルの関係者、近衛兵、楽団員。
華やかな名目がなければ、決して同じ場に立たない家同士もいた。
その会場で、エレナの婚約者であるディオン・ハルトレイが、よく通る声で言った。
「エレナ、君との婚約を、ここに破棄する」
声は会場の奥まで届いた。
届きすぎた。
壇上に近い位置で、レイゼル側の護衛が一人、騒ぎの意味を測るように剣の柄へ手を寄せる。反対側の席では、先年、北方の領地境をめぐって争った二家の若い貴族たちが、同時に顔を上げた。
エレナは、その両方を見た。
婚約破棄。
侮辱。
家同士の面子。
レイゼル国の使節。
王宮の警備。
この場で誰かが声を荒らげ、誰かが前へ出て、誰かが剣に手をかければ、これは一人の令嬢の失恋では終わらない。王宮の不手際になる。レイゼル使節の前で血が流れれば、外交問題にもなる。
「君はいつも冷静だった」
ディオンの声は続いている。
「だが、その冷たさに、私は一度も愛を感じなかった」
ディオンの隣には、子爵令嬢リリア・セレストが寄り添うように立っていた。頬を赤くして俯く姿は、いかにも可憐だった。
会場のどこかで女性の小さな悲鳴が上がる。誰かが落としたグラスが床で割れる音。
エレナは割れたグラスの位置を見た。
裾の長いドレスの令嬢が、その近くに立っている。細かな破片が彼女の靴先へ広がりかけていた。
「私は、形式だけの婚約を続けるほど、不誠実ではいたくない」
楽団席で指揮者が壇上を見上げた。次の小節へ移る合図が止まりかけている。
音が止まれば会場は沈黙する。沈黙すれば、ディオンの声だけが通る。その次に通るのは、父の怒声か、それに応じる誰かの声か、近衛兵の制止の声。
泣くのは、あとでいい。今、音が止まる方がまずい。
右斜め後ろで、椅子の肘掛けが軋む。
父だ。
グランベル伯爵が立ち上がりかけている。母の顔色は、もう白い。父がこのまま壇上へ向かえば、婚約破棄の当事者は、二人から二家になる。
エレナは息を吸った。一拍だけ、声を出すための間を作る。
「お父様」
低く、短く言った。
「お母様を。こちらへ座らせてください」
父の手が肘掛けの上で止まった。
エレナの声は壇上のディオンには届かない高さで、しかし父には届く高さで作られていた。父は娘の顔を見た。それから、倒れかけている妻の肩を見た。
父の体が壇上ではなく、母の方へ向き直る。
まず、一人止めた。
エレナは視線を動かした。
楽団席の脇に、給仕長のトマ。エレナが幼いころから王宮行事のたびに顔を合わせてきた、古参の給仕長だった。
春季叙勲式で倒れかけた老侯爵を、誰にも気づかれないよう控室へ運んだこともある。会場の空気を読む目は、貴族よりよほど確かだった。
トマはエレナの視線に気づく。
「トマ」
エレナは声を少しだけ前へ通した。
「温かい茶を増やして。お酒は一度、奥へ」
トマは一瞬だけ目を見開いた。それから短く頷く。
給仕長は隣の若い給仕に手で合図を送り、自分はそのまま壇上側ではなく、ハルトレイ家の若者たちが集まっている卓へ向かった。トレイを下げる動きで、彼らの視線を一度だけ自分に集める。
酒杯を持ったままでは、声は大きくなる。茶を持てば、少なくとも一拍は遅れる。
その一拍が、今は欲しかった。
西の扉。
エレナは、壇の左側に立つ扉番に目を向ける。顔見知りの老使用人だった。王宮の扉番は、ただ扉を開ける者ではない。人の流れを読み、入れてよい者と止めるべき者を、声を荒らげずにさばく者だ。
「少し開けてください。風を通せます。ご婦人方が息苦しそうです」
老使用人は口を動かさず、扉の取っ手に手をかけた。
庭園側の冷えた夜気が薄く流れ込む。それまで詰まりかけていた婦人方の流れが、自然と西側へ向いた。人は、出口が見えれば、出口に意識が向かう。
「楽団は」
エレナは楽団席の方へ、ほんのわずか扇の先を動かす。
楽団長オルガと目が合った。
「次の曲を。少しだけ明るいものを」
オルガは片眉を上げる。それから、指揮棒を下ろさずに曲を変えた。
途切れかけていた音が、続いた。
会場の静寂は生まれずに済んだ。静寂が生まれていれば、ディオンの声も、誰かの怒号も、近衛兵の制止の声も、まっすぐ会場を貫いていた。
割れたグラスの近くにいた令嬢の隣には、若い給仕が立った。布を一枚、グラスの破片の上に被せている。素手では拾わせない。破片は布ごと包む。それは、以前エレナが別の夜会で頼んだ処理。若い給仕は、それを覚えていた。
「エレナ」
壇上のディオンの声に、戸惑いが混じる。
「君は……君は、何も言わないのか」
エレナは初めて壇上を見上げた。
ディオン・ハルトレイ。
侯爵家の嫡男。
幼いころから決められていた、エレナの婚約者。
そして今、王宮の中央で、婚約破棄を恋の勝利のように語っている人。
エレナは手袋の中の指に力を入れた。
「ハルトレイ卿」
声は震えなかった。
「お話は伺いました。ですが、今この場で続きを伺うのは、お家の名のためにも、王宮のためにも、お控えいただく方がよろしいかと存じます」
ディオンの眉が寄る。リリアがディオンの袖を引いた。
「西側の扉が開いております。ご婦人方と、ご年配のお客様を、先に庭園側へ」
エレナは続けた。
「残りのお話は、後日、家同士で承ります」
ディオンは、まだ何か言いたげだった。けれど、彼の言葉を待つより先に、会場が流れ始めている。
給仕が酒杯を下げ、湯気の立つ茶を運ぶ。婦人方が西側の扉へ向かう。父は、母を支えて立ち上がった。
壇上に向かって声を上げかけていたハルトレイ家の縁者たちは、目の前に立った給仕にトレイを差し出されていた。酒杯を渡せばよいのか、茶を受け取ればよいのか、刹那の判断を奪われている。
会場の奥で、レイゼル側の護衛が剣帯から手を離す。壁から半歩離れていた背を、また壁へ預け直した。
エレナは、それを見た。
間に合った。
少なくとも最初の流血は起こらなかった。
そのとき、エレナの斜め前に、王宮近衛隊の制服が立った。
近衛隊長、ルシアン・ヴァルト。
黒に近い濃紺の制服。銀の飾緒。無駄のない立ち姿。王宮の保安責任者として、今夜の会場を見ていた男だ。
整った顔立ちをしていた。
ただし、華やかな美貌というより、隙のない静けさが先に立つ。笑みで人を惹きつけるのではなく、視界に入った者が、自分の立ち位置を正したくなる。そういう種類の端正さだった。
ルシアンは、剣の柄に手をかけかけていた若い近衛兵へ、視線だけを送る。
抜くな。
その視線だけで、若い近衛兵の手が止まった。
ルシアンの目は、次に壇上ではなく、給仕長へ短く言葉を投げた令嬢の横顔へ向いた。
同情の目でも慰めの目でもない。何が起き、何が避けられたのかを、ただ確認する目だった。
騒ぎは収まりかけていた。けれど、会場はまだ閉じきっていない。婚約破棄の声は、会場全体に届いてしまった。噂は、王都中を走るだろう。
捨てられた令嬢。
冷たい女。
愛されなかった婚約者。
呼び名はいくらでも生まれる。
ただし流血は避けられた。
近衛は剣を抜かず、レイゼル側の護衛も壁際へ戻った。婦人方と高齢者は庭園側へ流れ、父は壇上ではなく母の介抱に向かった。
今夜の王宮は、かろうじて王宮のままだった。
エレナは扇を持ち直そうとした。
そのとき初めて、手袋の中で自分の指が震えていることに気づいた。
指先が冷たい。喉の奥も冷たい。胸の奥だけが変に熱い。
泣くなら後でいい。そう思った。けれど、あとで泣けるかどうか分からなかった。
震えを見られないうちに、エレナは扇を閉じた。
すぐそばで低い声がした。
ルシアンが、副官と思しき若い近衛兵を一人、呼び寄せる。
「グランベル伯爵令嬢の名を、今夜の報告書に残せ」
「……伯爵令嬢を、ですか?」
副官は一瞬だけ問い返した。
ルシアンは壇上ではなく、会場の流れを整えている令嬢を見る。声に同情や慰めの色はない。
「そうだ。近衛隊が剣を抜かずに済んだのは、彼女が先に人の流れを作ったからだ」
副官の顔から、戸惑いが消える。
「承知しました」
短い敬礼が返った。
その言葉は、エレナの耳に遅れて届いた。
近衛兵が剣を抜かずに済んだ理由。その中に自分の名が残される。褒められたのだと受け取る余裕はなかった。ただ、手の震えが、もう一段だけ強くなった。
まだ終わってはいない。
婚約破棄に泣くのは後でいい。今は会場を閉じなければならない。
この夜、報告書に記されたひとつの名が、明日、人生を変えることになるなど、まだ知るよしもなかった。
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本作は、婚約破棄から始まる異世界恋愛という偉大なテンプレを土台に、「危機管理異世界ファンタジー」と呼べるような新しい切り口に挑戦しています。
初日は4話投稿です。
このあと12:10、19:40、21:10に続きます。
「婚約破棄の場で、まず退場口を数える令嬢、ありかも」と少しでも思っていただけましたら、ブックマーク・評価・感想で応援していただけると励みになります。
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