第19話 グランベル伯爵は、怒鳴らずに条件を置く
後日、グランベル家にハルトレイ家からの書状が届いた。
封は正式なものだった。紙もよい。文面も丁寧で、乱暴な言葉は一つもない。
ただ、謝罪の文字はなかった。
今般の件につきまして、双方の理解を深めるため
グランベル伯爵は、その行を読み終えたところで、しばらく動かなかった。
同封されていた会談概要には、出席者の名が並んでいた。ハルトレイ家側は、ハルトレイ侯爵、ディオン、書記官。必要に応じてリリア・セレスト嬢も同席、とある。グランベル家側は、伯爵本人と付き添い一名。
グランベル伯爵夫人は、そこまで読んだところで、椅子の背に手をかけた。
「……リリア嬢も」
声は小さかった。
それだけ言って、母の顔から血の気が引いた。マリアンヌが駆け寄るより早く、ノーラが椅子を引き、母の体を受け止めた。
「奥様。お部屋へ」
ノーラの声は落ち着いていた。伯爵には、その声の静かさがこたえた。
マリアンヌが母の肩にショールをかける。伯爵夫人は目を閉じたまま、紙から顔を背けていた。倒れたわけではない。だが、公の場で娘を傷つけた相手から、その次の令嬢の名まで添えた書面が届いたことは、母の体から力を奪うには十分だった。
伯爵は、書状を机の上に置いた。
置いた、というより、押さえた。
紙の角が、指の下でわずかに歪む。
「馬車を」
家令が息を呑んだ。
「旦那様」
「ハルトレイ家へ行く」
その声は低い。怒鳴ってはいない。だが、屋敷の空気が一瞬で張った。
マリアンヌが母のそばから顔を上げる。
「お父様」
「分かっている」
伯爵は、娘ではなく、机の上の書状を見ていた。
「怒鳴りに行くのではない」
そう言いながら、伯爵自身が、その言葉を自分に言い聞かせているようだった。
エレナがあの日の夜に整えた文章を、彼は思い出していた。重くしすぎれば、相手に揚げ足を取られる。必要なことだけを通す。娘は、あの夜、そう言った。
必要なことだけ。
それでも、怒りが消えるわけではない。
伯爵は、もう一枚の紙を取り出した。余計な形容を入れず、短く書く。
当家は、本件を双方の理解の相違とは扱わない。
面会の目的は、当家令嬢へなされた公然の非礼についての謝罪確認である。
出席者は同数とし、婚約破棄の直接当事者でない令嬢の同席は認めない。
場は、当家または中立の第三者立ち会いのもとで改めて定める。
最後の一行を書き終えると、伯爵はペンを置いた。
「これを、私の口から伝える」
マリアンヌは、不安そうに父を見ていた。
「お姉様には」
「知らせるな。王宮の仕事中に、余計な気を使わせたくはない」
伯爵は、そこで一度だけ目を閉じた。
「あの子は、もう十分すぎるほど気を使っている」
ハルトレイ家の応接室は、前日と同じように春の光が入っていた。
違っていたのは、そこにグランベル伯爵が立っていることだった。
ハルトレイ家の家令は、突然の訪問に慌てながらも、伯爵を応接室へ通した。用意された客用の椅子は、上座の向かいに一脚だけ置かれていた。昨日、侯爵が配置図に描いた位置とほとんど同じだった。
グランベル伯爵は座らなかった。
しばらくして、ハルトレイ侯爵が部屋へ入ってきた。
「これは、グランベル伯爵。お約束のないご来訪とは」
「約束の前に、確認すべきことがありました」
伯爵は、持ってきた紙をテーブルの上へ置いた。
「貴家から届いた書状には、謝罪という言葉がありませんでした」
侯爵の眉が動いた。
「まずは双方の理解を深める場です」
「私の娘は、王宮の大舞踏会で、公衆の面前で、婚約破棄を告げられました」
伯爵の声は大きくなかった。
「理解の相違ではありません。順序を誤った非礼です」
侯爵は口を開きかけた。だが、伯爵は続けた。
「さらに、リリア・セレスト嬢の同席を必要に応じて、と記されていました」
その名が出た瞬間、扉の外で小さく衣擦れの音がした。誰かが近くにいるのだろう。伯爵はそちらを見なかった。
「公の場で捨てた令嬢の家を呼び、その席に次の令嬢を置く。貴家では、それを説明と呼ぶのですか」
侯爵の顔が険しくなった。
「言葉が過ぎますぞ」
「過ぎているのは、席の置き方です」
伯爵の手が、一瞬だけ握られる。
怒鳴るなら今だった。
娘を侮辱された父として、いくらでも声を荒げることはできる。ハルトレイ家の家令や書記官の前で、怒りをぶつけることもできた。
だが、それをすれば、この場は怒声の応酬になる。
それは、エレナがあの夜、必死に避けようとしたもの。
伯爵は、握った手をほどいた。
「条件は、紙に書きました」
静かな声だった。
「謝罪の場であること。出席者を同数にすること。リリア嬢を同席させないこと。場は当家、もしくは中立の第三者立ち会いのもとで改めて定めること」
侯爵は、テーブルの紙を見下ろした。
「一方的な条件ですぞ」
「一方的に始めたのは、貴家です」
伯爵は言った。
「こちらは、場を整えるための条件を出しています」
その時、奥の扉が少しだけ開いた。
ディオンが立っていた。
顔色は悪かった。昨日の配置図を見ていた時よりも、さらに血の気が薄い。彼の視線は、テーブルの上の紙と、座らないグランベル伯爵の背を行き来している。
伯爵は、ディオンにも礼をしなかった。
無礼ではなく、まだ礼を交わす段階ではない、という距離だった。
「返答は、書面でいただきたい」
そう言って、伯爵は向きを変えた。
応接室を出る直前、彼は一度だけ足を止めた。
「娘は、王宮で場を壊さないために働いています」
背を向けたまま、伯爵は言った。
「だからといって、貴家が壊したものまで、当家が黙って片づけるわけではありません」
扉が閉まった。
応接室には、紙の上の条件と、座られなかった椅子が残った。
ディオンは、その椅子を見ていた。




