第18話 ハルトレイ家は、謝罪の席順を間違える
ハルトレイ侯爵家の応接室には、春の光がよく入った。
磨かれたテーブルの上に、招待状の下書きが三枚置かれている。文面は少しずつ違うが、封筒はまだ用意されていない。宛名の欄には、どの下書きにも同じ家名が入っていた。
グランベル伯爵家。
ディオンの父、ハルトレイ侯爵が、椅子に深く腰をかけ、文面を眺めていた。銀のペーパーナイフで紙の端を軽く押さえながら、彼は何でもない用件のように言う。
「グランベル家への対応を、そろそろ形にする」
婚約破棄以来、ハルトレイ家の評判は少しずつ傾いていた。王宮の舞踏会で、婚約破棄を一方的に告げた家。社交界では、そういう言い方をする者が増えている。
そして、婚約破棄を告げたのはディオン自身だった。
あの場では、決断を示したのだと思っていた。曖昧にしておくより、その方が早い。長引かせるより、周囲も動きやすい。そう考えていた。
けれど、王宮の舞踏会で、公衆の面前で、一方的に告げたという事実は消えない。
面と向かって責める者はいない。しかし、招待の返事が少し遅れ、挨拶の声が以前より短くなった。
ただ、それだけであれば、時間が経てば薄まっていくのかもしれない。
しかし近ごろ、別の噂も混じり始めていた。
王宮の小さな慈善茶会で、グランベル家の令嬢が来賓と給仕の導線を整えたらしい。リリア・セレスト嬢が注目を集めすぎた場で、誰にも恥をかかせず空気を戻したらしい。
社交界の噂になる頃には曖昧になっている。それでも、エレナの名は、婚約破棄された令嬢という言い方から外れ始めていた。
ハルトレイ家から離れた令嬢が、王宮で活躍している。その事実は、ハルトレイ家の沈黙をかえって目立たせた。
「謝罪ではなく、説明の場だ」
侯爵は、下書きの一枚を指で押さえた。
「謝罪にすれば、こちらの非を認めた形になる。上位家門への説明にも響く。だから説明する。こちらの事情を伝え、互いの理解を整える」
言葉を聞けば、理屈は通っていた。
家を守るための判断なのだろう。父はグランベル家を嘲っているわけではない。傾いた評判を早く支え直そうとしている。
ただ、その支え方が、相手の方を向いていなかった。
「こちらに来ていただく。場所は当家の応接室。出席は私、ディオン、書記官。グランベル伯爵には、伯爵ご本人と付き添い一名でよい」
出席者の欄には、ハルトレイ家の名が三つ並んでいる。対して、グランベル家側は二つ。
ディオンは、その数を見ただけで、喉の奥に引っかかりを覚えた。
最初に浮かんだのは、グランベル家の痛みではなかった。この席順を誰かに見られれば、また社交界で囁かれる。ハルトレイ家はまだ分かっていない、と言われる。
その程度の、ひどく自分本位な不安だった。
それでも、その不安の形を追ううちに、対面に座らされる側の景色が遅れて見え始めた。
「リリア嬢も同席させるか」
侯爵が続けて言った。
「ディオンの状況を示すには、その方がよい。誤解を解く場でもある」
「リリアを、ですか」
「候補者として紹介しておけば、話が早い」
話が早い。
その言葉が、応接室の明るさの中で妙に軽く聞こえた。
ディオンは、かつて自分が同じ速さを好んでいたことを思い出した。
決めてしまえば早い。
皆の前で言ってしまえば、一気に進む。
あの舞踏会でも、同じだった。
人々の前で告げれば、もう戻れない。戻れなければ、周りが整えてくれる。そんな身勝手を、決断の速さだと思っていた。整える人間が、誰なのかを考えずに。
ディオンは、下書きに目を落とした。
『今般の件につきまして、双方の理解を深めるための会談を設けたく』
丁寧な文章。乱暴なところはない。けれど、そこに謝罪の文字はない。ただ、双方の理解を深める、とある。
「席順は、上座に私。右にディオン。グランベル伯爵は対面でよい」
侯爵は、別紙に簡単な配置図を描いた。
上座にハルトレイ侯爵家。
対面にグランベル伯爵家。
その横に付き添い。
そして、ディオンの隣にリリア。
父の筆先は迷わず進み、部屋の広さも椅子の数も、何も問題がないように整っていく。しかし、そこに置かれた意味は、ずっと重い。
「この席順では」
ディオンは思わず声を出した。
侯爵が顔を上げる。
「何だ」
「この席順では、謝意を示す場には見えません」
応接室の空気が止まった。
「私は侯爵で、この家の主人だ。客を迎える位置に座るのは当然だろう」
「はい。それに私は、言える立場ではありません。それでも今回は、グランベル家の面子をどう立てるかが重要ではないでしょうか」
父の眉が寄った。
「誰に教わった」
その問いに、ディオンは答えられなかった。
誰に教わったのか。
思い出したのは、静かな声だった。
『ディオン様、この順番では、相手の方のお顔が立ちません』
何度も聞いた。うるさいと思った。形式ばかり気にしていると思っていた。その場では頷きながら、あとで面倒だとこぼしたこともある。小さなことにこだわりすぎる、と。
彼女はその後、席を一つ動かし、招待状の一文を直し、付き添いの人数を揃えていた。自分が軽く扱った小さなことを、相手の家はたぶん覚えている。傷つけた方の記憶は残りにくい。けれど、傷つけられた方には、きっと残る。
その一つひとつへの気配りを、ディオンは退屈だと思っていた。その目端が今、エレナの貴重な能力として、王宮で認められ始めている。
そしてハルトレイ家は、その力を失った。
「リリア嬢の同席も、再考した方がよいと思います」
ディオンは続けた。
「婚約破棄された家の前で、新しい候補者を隣に座らせるのは……」
「隠す必要はない」
侯爵が遮る。
「むしろ、当家が前を向いていることを示せる」
前を向いている。
その言い方にディオンは口を閉じた。ハルトレイ家にとっては、そうなのだろう。だが、グランベル家にとっては違う。娘を捨てた家が、その次に座る令嬢を置く。
そして、捨てたのは、自分。
配置図の上では、ただ一つ名前が増えるだけ。だが、その椅子はグランベル家へ向けて置かれる。
扉が静かに叩かれた。
「失礼いたします」
リリアが入ってきた。
淡い桃色のドレスをまとい、柔らかく微笑んでいる。応接室の入口で一度足を止め、侯爵とディオンへ順に礼をした。
その礼はきれいだった。見られることに慣れた洗練された動き。部屋に入る時、どこで足を止めれば視線が集まり、どの角度で微笑めば空気がやわらぐのかを、リリアは本能でわかっている。
だからこそ、彼女には自分が座る椅子の向こう側までは見えていなかった。
「何か、お手伝いできることはございますか」
侯爵は表情をゆるめた。
「当日、ディオンの隣に座ってもらうかもしれない」
リリアの目が、ぱっと明るくなった。
「もちろんです。ディオン様のお力になれるなら」
リリアは迷わず言った。その迷いのなさが、ディオンの胸に刺さった。
ディオンは、その笑顔を見た。
リリアは本当に、自分の力になろうとしている。だから難しかった。リリア自身が悪いのではない。リリアがそこに座ることが、場の意味を変えてしまう。
「ディオン様?」
リリアが、不安そうに見る。
「私、何か」
「いや。君は悪くない」
ディオンは、そう言った。本当だった。しかし、その先を説明する言葉が出ない。君が悪くなくても、君の席が相手を傷つける。リリアに対して、そんな言い方はできなかった。
父は、配置図のディオンの隣に、リリアの名を書き込む。筆先が紙を滑る音が、やけに大きく聞こえた。
リリアは、配置図を覗き込んで嬉しそうに微笑んだ。
「私、当日は何色を着ればよろしいでしょう。派手すぎない方がよろしいですよね」
それは、場にふさわしくあろうとする問いだった。
「そうだな。控えめな色がよい」
侯爵が答える。
リリアは安心したように頷いた。控えめな色を選べば礼を尽くせると信じていた。
ディオンは、違う、とは言えなかった。
色ではない。座ることそのものが、相手へ向く。しかしそう言えば、リリアの善意を責めることになる。
ディオンの中には、そこへ届く言葉がまだ育っていなかった。
夕方、ディオンは一人で書斎にいた。
テーブルには、下書きと席順表が広げられている。
宛名。文面。人数。席順。同席者。
このまま送れば、ハルトレイ側の論理では整った手紙に見える。けれど、グランベル家が受け取れば、呼び出しに見える。
エレナは、こういう齟齬を直していたのだ。ディオンが軽く扱った場面のたびに。
小言だと思っていたものは、誰かが傷つかずに済むための配慮だったのかもしれない。
ディオンは、羽ペンを取った。
『双方の理解を深めるための会談』
その一文の上に線を引こうとして、手が止まった。
謝罪。
そう書くと、父は元の文に戻すだろう。
原因は自分。そして、グランベル家のためだと、きれいには言えない。それでも、何もしない自分のままではいられなくなっていた。
ディオンは、余白に小さく書いた。
『お詫びを申し上げるため』
文字は、ひどく頼りなかった。
席順表にも、リリアの名の横に細い線を引いた。
同席再考。
それが精一杯だった。
ディオンは、羽ペンを置いた。
窓の外には、王宮の塔が見えた。エレナはもう、ディオンの言葉を直してはくれない。
ようやく、そのことが痛みになりはじめた。




