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第16話 偽の伝言は、正しい顔で届く

香りが強い。


東控室に入ったエレナは、準備の見回りを始めてすぐ、窓際の台の前で足を止めた。


今日の設営指示では、東控室の香炉は窓際に一基。強すぎない香を、窓辺で薄く逃がすことになっていた。


けれど、窓際の台は空。


白磁の香炉は、部屋の中央にある飾り台へ移されていた。来賓が扉から椅子へ向かう導線の、ちょうど真ん中にある。見栄えは整う。けれど、来賓が扉から椅子へ向かう途中で、必ずそのそばを通る位置だった。


香りは、すでに部屋の中へ満ちている。


エレナは、香炉へ手を伸ばさなかった。準備中の使用人が花器を整えているのを待ち、声を落として尋ねる。


「こちらの香炉は、いつ、この位置に変わりましたか」


使用人は、意外なことを聞かれたように瞬きをした。


「今朝、でございます。こちらへ移すように……そう伺いましたので」


「どなたから」


「若いご貴族の方です。礼儀正しいお方でした。お名前までは……申し訳ございません」


使用人は、少し肩を縮めた。


「『中央に置いて下さい、そのほうが整って見える』と」


中央の飾り台には、たしかに空白がない。白磁の香炉は花器より重く見え、部屋に入った者の目を最初に受け止める。見栄えだけを考えれば、そこへ置きたくなる者がいても不思議ではない。


だから通った。


エレナは、香炉の縁から細く上がる煙を見た。


「一度、記録を確認します。香炉は、まだ動かさないでください」


使用人の指が、花器の縁で止まる。


「戻さなくても、よろしいのでしょうか」


「戻します。ただ、もう香りは消せません。今は、誰がどういう目的で動かしたのかを残します」


使用人は不安そうに頷いた。


香炉は中央に置かれたまま、香りだけが部屋の奥へと流れていた。




イザークは、帳面を開いた。


「配置の変更記録は、ありません」


「本日の東控室の設営指示書は」


「窓際一基。変更申請も、追記もありません」


「では、中央の飾り台への移動は、記録上、存在しないのですね」


「そうなります」


セドリックが、東控室の扉の方を見た。眉は寄っていたが声は荒れていない。


「誰かが勝手に指示をした、ということですかな」


「伝言を出した方が手続きを経たかどうか、まだ分かりません」


エレナは答えた。


「ただ、記録にない変更が設営に入った。そこは確かです」


「香炉の位置ひとつが、それほど問題になりますかな」


セドリックの問いに、重い響きはない。香炉と列順が、まだ結びつけていない声。エレナは来賓記録を開き、東控室の欄に挟まれていた小札へ指を置いた。


「位置だけなら、戻せば済みます。ただ、今日は来賓記録と列順を合わせて見る必要があります」


イザークが、別の帳面をめくった。


「東控室には、モントレイ伯爵夫人がお控えになります。昨年秋の慈善茶会で、香油の強い卓から席を替えています」


「控室の香りが強ければ、廊下で待ちたいとおっしゃる可能性があります」


セドリックの視線が、来賓記録から回廊図へ移った。


「東控室の列が、予定より早く外へ出る」


「はい。その時間帯に、西控室から神殿関係者が出ます」


「列が重なれば、格順と案内順が崩れる」


「はい」


エレナは、中央に置かれた香炉を思い浮かべる。


「窓際へ戻しても、部屋へ回った香りは消えません。ですから、導線を北へ逃がします」


セドリックは小さくうなずき、名簿を閉じた。


「対応します」




「ヴァルト卿」


ルシアンが、配置図から目を上げた。


「東控室の退場導線を、北側の予備回廊経由に変更していただけますか」


「理由を」


「東控室の香炉配置に、記録にない変更が入りました。来賓記録と列順を照合すると、通常導線では西控室の列に触れる可能性があります」


ルシアンは、配置図の東控室と西控室の間に視線を落とす。


「モントレイ伯爵夫人か」


「はい」


「香炉は戻したのか」


「これから戻し、窓を開けます。ただ、香りは数日残ります。導線だけ安全側に倒した方がよいと判断します」


ルシアンは短く頷いた。


「同意する。東控室の案内係へは私から伝える。北側予備回廊の近衛配置も変える」


「ありがとうございます」


「香炉の件は、変更経緯不明としてイザークに記録させてください」


「はい」


エレナは、顔を上げた。


ルシアンの指が、配置図の上で東控室から北側の回廊へ動く。


「次に同じ形の変更が入った時、偶然かどうかを判断するためです」


「承知しました」




香炉は、窓際の台へ戻された。


窓を細く開け、香りを外へ逃がす。開けすぎれば廊下の音が入り、控室が落ち着かなくなる。案内係が窓の幅を確かめている間に、中央の飾り台には小さな花器が置かれた。


部屋は整えられた。けれど、入室した瞬間には香りが残った。


案内係には、窓辺の席を先に勧めるよう伝えてある。近衛も、予定の回廊ではなく北側の予備回廊を使える位置へ下がった。それでも、最初の反応だけは避けられない。


モントレイ伯爵夫人は、控室に入ったところで、扇を口元へ寄せた。


エレナは、扉から一歩引いた位置でそれを見た。案内係も見ていた。



「窓辺の席をご用意しております」



声はすぐに出た。


夫人は一瞬だけ室内を見回し、ゆっくり頷いて窓際の椅子へ進む。廊下で待ちたいとは言わなかった。


それでも退場時、東控室の列は当初予定の回廊へは出されなかった。案内係が先に扉を開け、近衛が北側の予備回廊の曲がり角に立つ。


東控室の来賓は北側へ誘導され、西控室から出る神殿関係者の列とは、重ならなかった。


式典は静かに終わった。控室の廊下に詰まりは起きず、案内順も崩れなかった。


表向きには、香炉が一度動いただけだった。




式典後、セドリックが保安部の小机の前に来た。


「今日の件ですが」


「はい」


「設営後の確認を、式典当日の朝にも入れます。指示書どおりに整えた後に、誰かの一言で動かさないためです」


「お願いします」


「使用人は、悪意で動かしたわけではありません」


エレナは、机の端に置いた来賓記録を閉じる。


「だから、仕組みで防ぐ必要があります」


セドリックは少しだけ黙った。


「個人を責めるより、仕組みで防ぐ」


「はい」


セドリックは帳面に書き留める。筆先が紙へ下りるまでの間に、以前のような躊躇はない。


「当日朝の設営確認表に、変更の有無と、口頭伝言の有無を足します。伝言者の名が分からない場合も、空白のまま残す」


「空白であることも、次の確認材料になります」


セドリックは、もう一度筆を動かした。




夜、イザークが帳面を抱えて来た。


「記録に残しました」


「ありがとうございます」


「正式な変更記録なし。使用人の証言あり。若い貴族、氏名不明。伝言内容は、中央に置いた方が整って見える、です」


イザークは、そこだけを読み上げてからページを一つ送った。


「対応も併記しています。香炉位置の復旧、換気、北側予備回廊への導線変更」


エレナは、東控室の扉を思い浮かべた。扉はただ閉じている。けれど一度、誰かの言葉で混乱が起こりかけた。


「一件では、偶然かもしれません」


イザークは、閉じた帳面の表紙に指を置いた。


「しかし、同じ形が二件になれば、別の話になります」


「はい」


「グランベル嬢」


「はい」


「記録は、問い詰めるためではありません」


その声は、いつもより少しだけ低かった。


「次に活かすためです」


エレナは、静かに頭を下げた。




その夜、王都の小さな夜会の端で、オスカー・ベイルは、隣に立つ仲間から東控室の香炉の話を聞いた。


「今日の式典、香炉一つで記録が増えたらしい」


「香炉?」


「誰かが中央へ移したとか。見栄えがいいから、と」


オスカーは、杯を口元まで持ち上げた。


「それで?」


「すぐ戻された。導線も変えられた。混乱は起きなかったそうだ」


「あの令嬢が気づいたのか」


「たぶんな」


オスカーは、少し笑った。


「ずいぶん細かいところを見るな」


「面倒な令嬢だ」


「いや」


オスカーは、杯の中で揺れる酒を見た。


「面白い」


香炉を移した者の名は出ない。そして誰も、聞こうとはしない。


名前を出せば、笑い話では済まなくなる。


だから、彼らは香炉の話だけをする。誰かの一言が使用人を動かし、記録に残ったことを、酒席の端で軽く転がす。


大きな悪意というほどの言葉は、誰の口にも上らない。ただ、面白がる空気だけがある。本人たちは、その軽さがどこまで届くかを深く考えはしない。




エレナは記録の写しを確認した。


 伝言経路不明の変更、一件。

 香炉配置差異、確認。

 北側予備回廊への導線変更、案内順維持。

 口頭伝言確認欄、次回設営表へ追加。


正しい顔で届いた言葉は、香炉を一度動かし、香りを部屋に残した。


それでも、記録の外への逃げ場は残さなかった。


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