第15話 氷令嬢は、誰よりも人の顔を見る
「拾われたそうよ」
その声は、花の香りより軽く、針より細かった。
エレナは声の主を見なかった。
代わりに、声の主から半歩離れて立つ令嬢達の顔を見た。
セレスティア姫殿下のお茶会が終わったあと、東庭にはまだ白い円卓が残っていた。令嬢たちは三人、五人と小さな輪を作り、帰り支度を終えた者から順に庭の端へ流れている。
エレナは王宮儀典局の臨時補佐として、片づけの導線と使用人通路の確認を頼まれていた。招かれた客の列には入らない。けれど、使用人の列にも入らない。
その狭間に声が落ちた。
「婚約破棄されたのに、翌日には王宮へ出入りしていらっしゃるのですって」
「お仕事だそうよ」
「まぁ、お仕事」
「儀典局だか、近衛隊だかの補佐でしょう」
「よくいらっしゃれるわね」
「冷たい氷令嬢ですもの」
指先に少しだけ力が入った。エレナは円卓の向こうにある顔を順に拾う。
声を出した令嬢。
頷いた令嬢。
笑いかけて、唇の端だけを戻した令嬢。
話題から外れようとして、半歩だけ輪の外へ立った令嬢。
それぞれの顔は、同じ言葉を同じ温度で受け取ってはいない。
見えてしまう。
声になる前から、次に、自分に問いが向くと分かった。
一人の令嬢が扇を少し下げる。
こちらへ声をかける角度になる。
まだ言葉にはなっていないが、問いの形は顔に出ている。
ヴァルト隊長とは、どういうご関係なの。
エレナは問いが発せられるより早く、緑の垣根のそばへ移った。
そのとき、穏やかな声がした。
「グランベル嬢」
振り返ると、クラリッサ・モントローズ侯爵令嬢が、白磁の茶器を手に立っている。
「少し、ご一緒してもよろしくて」
「もちろんです」
クラリッサは垣根の陰へ半歩だけ寄った。エレナの隣ではなく、斜め前。二人で同じものを見ているようにも、偶然近くに立ったようにも見える位置だった。
「先ほどの声」
「はい」
「不快になさらないで、とは申しませんわ。あれは、不快になるものですもの」
エレナは瞬きをする。
「社交界は、泣く令嬢には言葉を持っています。でも、泣かずに場を閉じる令嬢には、あまり持っていないのです」
「呼び名を、ですか」
「ええ」
クラリッサは一口飲むようにして、ほんの少し間を置いた。
「冷たい、は便利ですもの。考えずに済みますから」
エレナの扇の端が、手袋の中で小さく鳴った。
クラリッサはそれを見たが、見なかったことにした。彼女の親切は、そんな形をしている。
「ヴァルト隊長のお名前が並ぶと、余計に見たがる方も出ます」
「隊長を、ですか」
「王宮近衛隊長で、あのご容姿ですもの。見ない理由を探す方が難しゅうございます」
クラリッサは、口元だけで笑った。
「そこに、婚約破棄されて間もなく王宮へ出入りするグランベル嬢のお名前が並ぶ。噂好きの方には、格好の組み合わせですわ」
エレナは、庭の中央へ目を向けた。
円卓のそばで、先ほどの令嬢たちがこちらを見ないふりをしている。見ないふりをしている顔ほど、よく見える。
「私の名だけなら、構いません」
言い終えてから、その言葉が自分の喉の奥に残った。
クラリッサは手元を静かに下ろす。
「構わない顔をなさるのが、お上手なのですわね」
エレナは答えなかった。
答えなかったことにも、クラリッサは踏み込まなかった。
「ただ、隊長のお名前まで並べば、あなたのお仕事も、隊長の判断も、私情に見せたい方が出ます。そこは、お気をつけあそばせ」
忠告。甘い味はしない。けれど、飲み込める温度ではあった。
「グランベル嬢」
別の声が、廊下の方から届いた。
ベアトリス・ロウェルが、儀典局の徽章を胸に歩いてくる。黒のドレスは庭の光を吸い、手にした通路表の白だけが目立っていた。
「使用人通路の確認、ご一緒に」
自然な声。自然すぎるほど、仕事の声だった。
クラリッサは、ほんの少しだけ目礼する。
「ベアトリス様、お久しゅうございます」
「モントローズ様、失礼いたします」
ベアトリスは短く会釈し、すぐにエレナへ通路表を差し出す。
「明日の小式典の通路表に、一か所、確かめたい箇所が」
「はい。参ります」
エレナは垣根から離れた。
その瞬間、庭の輪がほんの半拍だけこちらへ寄る。体ではなく、視線だけが。
追われたことを、エレナは視界の端で拾った。
今日はその視線が、いつもより少し胸に残った。
保安部に戻ると、音が変わった。
庭の笑い声は扉の外へ遠ざかり、代わりに紙をめくる音と、伝令の足音が戻ってくる。
ベアトリスは通路表を机に置きながら言った。
「あそこに長くいると、聞かなくてよいものまで聞こえます」
「ご配慮、ありがとうございます」
「配慮というより……仕事です」
ベアトリスは優しい顔をしなかった。エレナを慰めるために言葉を選ぶこともしない。ただ、声を少し落とした。
「もう一つ、お耳に入れておきます」
「はい」
「噂が、王宮の中まで入り始めています。今朝は馬車寄せでも聞こえたそうです。外局の書記、従者、小姓の間にも」
エレナは、上着の留め具に指をかけたまま、続きを待った。
「どのような形で」
「『近衛隊長に拾われた令嬢』と」
ベアトリスは、そこで手を止める。
「拾われた、ですか」
エレナは、少しだけ口角を上げた。
「それなら、拾ってよかったと思っていただけるくらいには、働かないといけませんね」
冗談めかして返せたのは、そこまでだった。留め具に触れていた指が、金具の端で止まる。
胸の奥に、薄い紙を一枚差し込まれたような違和感があった。痛みと呼ぶには淡く、それでも、そこにあると分かる。
今朝、ノーラから渡された小さな便箋を思い出した。
マリアンヌの字は、いつもより少しだけ硬かった。
お姉様。
拾われたのではありません。
お姉様は、ご自分の意思で王宮へ行かれたのです。
その紙は、今も袖の内側に入れてある。
誰かの噂を止める力はない。けれど、その紙があるだけで、エレナは自分自身を「拾われた令嬢」と自虐せずに済んだ。
ベアトリスは、エレナの沈黙を急かさなかった。
夕刻、保安部の窓際の小机で、エレナは翌日の資料を広げた。
東控室。
西控室。
神殿関係者。
香炉、窓際一基。
セドリックが、設営指示書を机の右端に置く。
「明日の東控室の分です」
「ありがとうございます」
エレナは紙を受け取り、香炉の欄へ視線を落とした。
強すぎない香を、窓辺で薄く逃がす。
それは、ただの設営指示。控室を落ち着かせる小さな手順。
「グランベル嬢」
セドリックが、少し不安そうに言った。
「何か、気になる点が」
「いいえ」
エレナは答えた。
「明日、見ます」
セドリックは一度だけ瞬きをし、それから小さく頷いた。
エレナは資料を閉じた。
袖の内側には、マリアンヌの便箋がある。机の上には、東控室の設営指示書がある。どちらも、エレナが自らの足でここに立っていることを示す紙だった。
噂は王宮の中へ入ってきた。
しかし、次に入ってくる言葉は、噂の顔をしていなかった。




