第五話
儀典の計画書を抱えて王宮の西廊下を歩く。そこそこの束になった計画書はずっしりと腕に負荷を掛けてきて、思わず小さく息を吐いた。
「忙しそうだね」
聞き覚えのある声に振り返ると、キャラメル色のふわふわした髪の男性が手を振っていた。
昔からお世話になっている財務室のオリバーさん。今は室長補佐になり、さらに忙しそうにしている。
「オリバーさん! 今期の親善使節団の受け入れが近くて……」
「あぁ、それは忙しいわけだ。……ところで、噂は本当なの? あのキースと婚約したって」
オリバーさんはいきなり核心をつくように、声を潜めて悪戯っぽく笑う。
「いや……その……いろいろ事情がありまして、正式にはまだ……」
「事情ね。それなら深くは聞けないかな。俺は応援してるよ」
「ありがとうございます……」
「キースは、財務室にいた頃から君に気があったみたいだしね。よかったよ」
そんな昔から? いや、キースと話をするようになったのは確かにその頃だけど。
キースは騎士団に入団する前、財務室で働いていた。経費の精算やら新年度の予算やらで度々財務室を訪れることがあって、その時に初めてまともに会話をした。最初は事務的に仕事の話をしていたけど、私たちの出身が近いこともあり、そのうち雑談もするようになっていった。
「うちを辞めて五年? 六年? くらい経つっけ。突然、『財務室を辞めて騎士団を受ける』って言い出してさ。みんなで必死に止めたなぁ。せっかく来た新人に辞めてほしくなくて」
「財務室は中々人が入らないですしね」
「そうそう。あいつは優秀だったし。あんまりにも淡々と正確に仕事するもんだから、“書類を食う機械”なんて呼ばれてた」
「酷いあだ名つけますね、財務室って」
「まぁ、みんな労働時間が長くて疲れていたから。今は少しずつ改善してるし、嫌がらせに見えるような言動には注意するようにしてる。とはいえ、貴族社会は嫌味を言う人が多くて、なかなかなくならないけどね」
「大変ですね」
私が答えると、オリバーさんはおかしそうに笑う。
「全然思ってないね? でも、そこが君のいいところだ。飾らなくて、裏表がなさそうなところ」
「……それって褒めてます?」
「褒めてる、褒めてる。キースは、君のそういうところが好きなんだと思う」
オリバーさんの言葉にドキッとしてしまった。
キースが私を好き……? 確かに、仲がいいとは思うし、友人としてなら納得できる。
……けれど、恋愛的にはどうだろう。
婚約者に見えるようにとハグしたり、キスを試みようとしたりしてたから、接触したくないほど異性として絶対に無理というわけではないのだろうけど。
だからと言って、好きかと言われるとどうだろう。
ただでさえ言葉足らずで感情が読みにくい顔をしているから、よくわからない。
「覚えてる? あまりにも忙しすぎて、さすがにキースも死にそうな顔してた時に、君はお茶をあげたでしょ」
「はい。私の故郷ではよく飲む薬草茶で、効き目はいいんですけど、すごく苦くて……後から、嫌がらせだって思われたんじゃないかと心配してました」
「あれは普通、嫌がらせだと思うよ。苦すぎるもん。でも、あいつはすごい顔で眉間に皺寄せながら、茶葉が無くなるまで律儀に全部淹れて飲んでた。多分、嬉しかったんだろうね」
「そうだといいんですけど……」
「そりゃあ、お茶が入っていた袋を、財務室を辞める時まで持ってたくらいだし……」
「え? 袋を?」
私が驚いて目を見開くと、オリバー様は「おっと」と口元を押さえ、苦笑いを浮かべた。
「……まぁ、昔からちょっと不器用だったからね。だから、騎士になるなんて聞いた時は驚いたけど、『守るべきもののために、力と権限が必要なので』って理由はなんというか、キースらしいなって思ったよ」
「守るべきもの……」
当時、私もキースから似たようなことを聞いた。財務室でも出来ることはあるけど、もっと直接的に、大切なものを守る力が欲しいのだと。
文官から騎士になった人はかなり珍しく、騎士団側も困惑していたと聞いた。結局、入団テストの時期が悪く、財務室を辞めると言ってから一年も掛かった。そこから五年、きっと並々ならぬ努力をして隊長にまでなったのだ。それだけ大きな変化を起こすほどの理由が、何か目的があったはずだ。
今の状況を思うと、そんな彼の邪魔になっていないだろうか、と不安になってしまう。
「まぁ、その辺りは本人から聞いたほうがいいんじゃないかな。それより……」
オリバーさんは柔らかく笑っていた表情を引き締めて、優しく話し始める。
「今回のオルデン公国への輸出品、国境管理室でのチェックを厳重にやってほしい。前回の輸出で、グラナート商会が提出してきた通関書類に、財務室の監査でごく僅かだけど数字の不整合が見つかったんだ。例の次男坊の圧力で押し切られそうだけど……」
「カルロスの……。わかりました。管理室側でも精査してみます」
「助かるよ。じゃあ、無理はしないで」
オリバーさんと別れた私は、抱えた書類をぎゅっと腕に力を込めて持ち直した。
夜の帳はすっかり下り、王宮の執務室の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。
管理室の自分のデスクで、私はランタンの小さな炎を頼りに書類を広げていた。グラナート商会側の通関書類と過去の記録を突き合わせていたけれど、あまりの疲労に目の前がかすんでくる。
「……そろそろ限界……でも、あの男がいないうちにチェックしないと……」
この国の外交を大きく発展させるためだと入廷を許されているけれど、どうもそれだけではなさそうな、あの胡散臭い男――カルロス・グラナート。
何かをしようとコソコソ動き回ってるなら、私も気づかれないように行動しないといけない。
あと少し、この書類の束だけザッとチェックしたら帰ろう。
そう思った時に、廊下から足音が聞こえ、国境管理室の前で止まった。思わず体がビクッと跳ねて、慌てて書類を整えて扉を見る。
扉が静かに開くと、暗がりの中にランタンを片手に立っていたのは、深緑の騎士団制服に身を包んだキースだった。
相変わらずの仏頂面だが、それが恐ろしいほど絵になる。
「キース……? こんな遅くに、どうしたの?」
「夜間の巡回です。やはり、まだ残っていましたね」
キースは静かな声で言いながら、迷いのない足取りで私のデスクへと近づいてきた。彼の手に下げられていたのは、小さなお菓子の箱だった。
「これを。頂き物ですが」
「ありがとう。わざわざ持ってきてくれたの?」
「見回りのついでです。貴方がまだ居るような気がしたので」
キースはごく淡々とした調子で言い、私のデスクの側に立つ。
「まだ終わりませんか? もう遅いので、送ります」
「この書類だけ確認しておきたいの」
「そうですか。でしたら、ここで待ちます」
近くの椅子を引くと、ゆっくりと座り、こちらをじっと見つめる。
「……すごくやりにくい」
「では、今すぐ帰りますか?」
「もう……! お忙しいキース隊長のお時間を、私のために使わないでください! 一人で帰れます!」
「一人で? ダメに決まっているでしょう」
今までの穏やかなやりとりから一転。キースは一際低い声を出した。驚いて顔を見ると、怒っているのか、鋭い目つきでこちらを睨むように見つめている。
「そうやって楽観視して、暴漢に襲われたのは誰ですか」
「あれは……!」
あれは、今日みたいに夜遅くまで残業した日だった。働き始めて数年目で、キースも財務室にいた頃。王宮から宿舎までの道が工事中で、警備兵に迂回路を案内された。だけど、思ったよりも遠回りな迂回路に、残業でクタクタだった私は近道をしようと、暗い路地裏へ足を踏み入れた。それが間違いだった。後ろから急に羽交い締めにされて、口を塞がれて、そのまま連れ去られる……そう思った時に、キースが助けてくれた。すぐに警備兵が駆けつけて、犯人は捕まって、私は警備兵に宿舎まで送り届けてもらった。その時のことをキースは言っているのだろう。
「……ごめんなさい」
「……別に、謝って欲しいわけではなく、ただ心配なだけです」
そう言うと、フーッと溜息を吐いて、こめかみを押さえた。澄んだ氷のような青い瞳が、まっすぐに私を捕らえる。
「婚約を信じさせるために必要なのかもしれないけど……でも、キースが忙しいのは変わらないし、その上で私が時間を取ってしまうのは申し訳ないというか……」
「勘違いしないでください。私は一度たりとも、貴方のことを迷惑だと思ったことはありません。どれほど忙しくとも、貴方のために時間を使うことを無駄だと感じたことはない」
キースの手がわずかに動き、私の頬にかかっていた後れ毛を耳の後ろへと優しく掻き上げた。その指先の手袋越しに伝わる体温があまりに温かく、私の心臓がドクンと大きく跳ね上がる。
「本当に……?」
「嘘を言って何か得がありますか?」
「ない……かな?」
「わかったのなら、帰りますよ」
「……わかった。じゃあ、これだけ……」
私が書類に手を伸ばそうとすると、キースはその手をそっと遮るように制した。
「夜間警備の責任者として、規定を適用します。刻限を過ぎました。これ以上の残留は認めません」
「そんな、強引な……」
「こうでもしないと、貴方は帰らないでしょう。さぁ」
そう言って片付けを催促されて、急いで書類をしまう。最後に引き出しに鍵をかけると、キースは立ち上がって手を差し出した。
その手を取り、立ち上がると、そのまま腕に絡めるように添えられて……これではまるでエスコートだ。
もう反抗するのは諦めて、キースに促されるまま管理室を出る。
静かな夜に二人きり、腕を組んで歩く。通勤路がいつもより短く感じて、名残り惜しむように手を離すと、キースはわずかに微笑んで「おやすみなさい」と言った。去っていく後ろ姿を見て、ただ残業から帰ってきただけなのに、なんだかデートでもしていたような気分になって、少しだけドキドキしたのは内緒だ。




