第四話
「プラチナの指輪か」
翌朝。カルロスがやってくるとまっすぐ私の元へ来て、左手を取られた。
触られてる左手も、背筋もゾワゾワしてる。
けど、これで疑いが晴れるならと我慢していると、カルロスは、ふうん、と呟きながら、見定めるようにジロジロと指輪を凝視している。
「急拵えにしてはまあまあだな。で、そのペアリングの片割れは?」
ニヤニヤと嘲笑う男の後で扉が開いた。カルロスを見下ろすアイスブルーの目が、視線だけで殺そうとしているのかと思うほど鋭く睨んでいる。
「……私の婚約者から、手を離してください」
地を這うような低い声には、怒気が籠っている。殺意がオーラとして見えそうなくらい怒りを露わにしたキースに、カルロスは口を開けたまま、静かに私の手を離した。
「大丈夫ですか、アスティ」
「婚約はまだって話じゃなかったのっ」
「これから婚約をするなら、大して変わりませんよ」
私をカルロスから離すように、自然に抱き寄せられる。いや、ちょっと近いというか……! わざわざカルロスに触られた手首を撫で回さないで欲しいというか……!
「ち、ちょっと、キース……! ストップ!」
「もう公表すると決めたのですから、今更取り繕う必要もないでしょう」
「そうだけど、そうではなくて……!」
そんな甘々な恋人役を演じなくても! こっちの心臓が持たないというか!
でも、大きくて皮膚の厚みを感じるキースの手に触られるのは、不思議と嫌じゃない。
カルロスに触られてゾワゾワしてた感触が、キースの手の温かさで上書きされていくみたい。
「は……? 婚約? クラウゼル家の次男が、こんな女と?」
「何か問題でも? 私の婚約者を侮辱するなら、私への挑発と受け取りますが?」
キースの胸に顔を埋めているから見えないけど、その声からは忠告以上の気迫を含んでいるようだ。それに気圧されたのか、カルロスは顔を引きつらせた。
「ハッ! 結局、次男は家業を継げないからな。どれだけ出世したところで、家を継いだ兄貴には敵わないだろ。落ちぶれるしかない奴にはお似合いだ」
完璧な捨て台詞を吐き捨てるように言い残し、カルロスは部屋を去っていった。
嵐のような男が去った後も、しばらくはシンと静まり返っていた。けれど、皆、突然息を吹き返したように叫び始める。
「き、キース様がアストリッドさんの恋人!!??」
「本当に!?」
キャアキャア騒ぐ女性に反して、男性職員は顔を顰めている。
「故郷に婚約者がいるって言ってなかったか?」
「私が隠したいってお願いしてたの。こうなると思ってたから……」
「まぁ、相手がキース隊長じゃあな……」
国守騎士団は、燃えるようなルビーゴールド色の髪を持つ精悍な顔立ちの団長に、エルフをも唸らせる顔だけなら儚げな美人(ただし体は筋肉質)な副団長と、組織のトップがとにかく目立つ。もちろん、その座にいるだけの実力も相まって二人の人気は王都中で高いのだが、今では彼らの次に列挙されるのがキースになる。
神経質そうにきっちりと撫で付けられた金髪に、鋭い目つき。顔立ち自体は整っているのに、表情筋はあまり動かず、いつも無愛想だから威圧感がある。
だけど、威圧的な見た目の割に誰に対しても丁寧なので、老若男女問わずキースに好意を持っている人は多い。
「こちらは管理室の皆さんに。今日はご迷惑をお掛けしたので」
どこからか貴族御用達の高級菓子店の包みを取り出した瞬間に、また室内が騒がしくなる。
「いつのまに……!?」
「昨日、話を聞いた時点で、こちらへ行くことは分かっていましたから」
「あの後に!? 遅い時間だったのに、どうやって……」
「……まぁ、色々とツテがありますので」
あ、逃げた。
室長に「お久しぶりです。お騒がせしました」と言って大箱を渡すと、キースはこちらに向き直る。
「これは、貴方に」
そう言って小さな箱をくれた。これって……このお店の中でも、一粒で一日の食費を超すくらい超高価なチョコレートでは!?
「ほ、本当にどうしたの!?」
「婚約者に贈り物をしてはいけませんか?」
「……! う、受け取る……ありがとう……」
「では、私は仕事に戻ります。何かあればすぐに連絡してください」
いつもの仏頂面と違って、なんとなく満足げな顔をしているような……。
キースは、国境管理室の扉の前で騎士らしく礼をすると、背を向けて出て行った。
その姿を見て、また室内は黄色い声が上がる。
疲れた……朝にしていいカロリー消費量じゃない。
はぁぁ、と深いため息を吐くと、手元に残った高級感のある小さな白い箱を見つめる。
昨日の今日でこの態度の違い。いくら恋人役をお願いして、いくら婚約者になる予定と嘘をついているとはいえ、さすがにこうも急に甘々な対応をされると落ち着かない。
それが嫌じゃないのが……むしろ、嬉しいと思ってる自分がいることが一番信じられなかった。
しかし、本当の嵐はその後だった。
キースの婚約者が国境管理室勤務の男爵令嬢だった、というニュースはその日中にそこかしこに知れ渡っていた。
管理室の人のことは疑いたくない……とはいえ、たまたま話をしているのを誰かが聞いていたという可能性もあるし……。公爵家は提出した調査書の内容が漏れた可能性もあるし、カルロスが言いふらしている可能性だってある。どこが情報源かなんて私にはわからない。
幸いにも名前までは割れなかったから一命を取り留めた。
――と思っていた時期が私にもありました。
「貴方がノルゼスト男爵令嬢ね? どうやってキース様にお近づきになったのかしら」
「身分の差というものがあることをご存知ない? それともクラウゼル侯爵家に援助でもしてもらうつもりなの?」
「まぁ、まぁ。噂はあくまで噂。本当とは限りません。そうでなくてはおかしいですわ。こんな平民にしか見えない方が、キース様の婚約者だなんて」
書類を届けに王宮の廊下を歩いていたところ、人通りの少ない場所で貴族のご令嬢たちに取り囲まれてしまった。
なぜ、私だとバレたのか。
そんなもの、男爵家の娘で行き遅れの文官が私しかいないから。
噂話の伝達の速さは、田舎でも王宮でも同じなのだろう。
恨みがましく睨みつけてくるご令嬢たちは、チクチクと私に嫌味を吐き続ける。
嫌だなぁ、下手に反論して敵に回したくもないし。いや、もう敵みたいなものか。
どうしたものかと悩んでいると、「聞いているの!?」と一人の女性が扇で私の肩をこづいた。
その瞬間、よろけて、服の下に隠したネックレスが顕になる。キースに「念の為、明日は着けておいた方がいいですよ」と言われていた、大地の涙だ。
こんな高価なものを首から下げて、平然を装って仕事していたことを褒めて欲しい。
嫌味を言っていた令嬢たちの動きがピタリと止まった。全員が目を見開き、信じられないものを見る目で私の胸元を凝視している。
「そ、それ……大地の涙……!?」
「まさか……本当に!? 本気でキース様と婚約を!?」
社交界に顔を出せば誰もが知っている、クラウゼル家が取り扱う貴重な宝飾品――大地の涙。
もちろん、クラウゼル家以外にも所有している貴族はいる。だけど、今回、キースと噂になってしまった私が身につけているということは、本当にクラウゼル家との繋がりがあるという証明になったはずだ。
「……失礼いたします。急ぎの仕事がありますので」
私がペコリと頭を下げて脇を通り抜けようとすると、令嬢たちは「ひっ」と短い悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように引き下がっていった。
クラウゼル家を敵に回したくないのだろう。いい判断だ。
それにしても――、
「……すごすぎでしょう、このネックレス……」
誰もいない廊下で立ち尽くしたまま、胸元の宝石を見つめて深く溜め息をついた。
キースの言っていた“魔除け効果”は絶大だった。だけど、こんなに効果があると逆に怖い。
何より、この婚約騒動はある意味嘘なのだ。
みんなを騙している罪悪感が胸を締め付ける。
偽装だって分かっているのに……こんな高価なものを借りて、キースの婚約者のフリをするなんて。
実家が貧しくて王宮へ出稼ぎに来た私と、家を出たとはいえ侯爵家の次男で騎士団の隊長を務めるキース。いくら彼を助けるためとはいえ、彼の評判を落としかねない。
申し訳なさで胸がギュッと締め付けられるのを、私はただ耐えるしかない。
「今朝の件で、考えたのですが……」
「何を?」
「いつどこで誰に見られているか分からない以上、“恋人らしい距離感”の練習をしておく必要があるのではと」
キースの私邸の客間で、彼は至極真面目な顔でそう言い放った。
手に持った紅茶のカップをソーサーに戻しながら、私は思いっきり眉をひそめた。
「練習? 指輪して、たまに一緒にいるくらいで十分では?」
「ですが、今朝の貴方は少し距離を詰めただけで慌てているのが見て取れました。家同士の取り決めで婚約したわけではなく、恋人から婚約者になろうというシナリオである以上、スキンシップを躱わすのは不自然です」
キースは首を横に振ると、長脚を組んで私をじっと見つめた。その氷のような青い瞳には、一切の悪ふざけの色がない。だからこそ余計にタチが悪い。
「恋人同士であれば、ふとした瞬間に自然なスキンシップが発生するはずです。手をつなぐ、肩を抱く、あるいは――」
「あ、あるいは?」
「ハグや、挨拶程度のキスです」
「キスッ……!」
「咄嗟に私に抱き寄せられたり、顔を近づけられたりした時、過剰に動揺して固まってしまえば、もしや偽装なのでは? と疑う余地が生まれます。ですから、今から慣れておくべきです」
「いやいや! きっと誰も気にしてな……きゃっ!?」
反論しようとした瞬間、腕を引かれて身体が傾いた。
気がついた時には、目の前にキースの顔があった。バランスを崩して咄嗟に支えようと手をついた先はキースの胸元で、深緑の制服の生地越しに彼の胸板の厚みと力強い体温が伝わってくる。
「き、キース……!?」
「力を抜いてください。そうやって体を強張らせるのが、一番怪しまれます」
低い声が耳元で響き、背中に回された大きな手が、優しく私を抱きかかえるように収まった。包み込まれるような完璧なハグ。キースの体温と、彼特有の爽やかな柑橘系の香りが一気に全身を包み込み、頭がクラクラしてくる。
近い近い近い! 心臓が壊れそう!
「……アスティ」
「は、はいっ!」
「顔が赤いですよ」
「誰のせいだと思ってるの!?」
胸を押し返そうとしたけれど、キースの腕はびくともしない。それどころか、彼は私の頬に添えられた手で優しく顔を上げさせると、視線を私の唇へと落とした。
「次は……キスの練習です」
「練習って……」
冗談でしょう、と言おうとした瞬間、キースの顔がぐっと近づいてきた。
長いまつ毛、澄んだ瞳、そして薄い唇が、吐息が触れ合うほどの距離まで迫る。
本当にするつもりなの!?
待って、待って! 初めてなんだけど……!
思わず反射的に目を瞑る。
……けれど、待っても唇への衝撃は来なかった。
代わりに、ちゅっと軽い音とともに、額に柔らかく温かい感触が落とされた。
そっと目を開けると、至近距離でキースが静かに微笑んでいた。いつもは仏頂面なのに、目の奥には見たこともないほど甘い光が揺れている。
「まずは、額からにしておきましょう。一度にやると、貴方の心臓が持ちそうにありませんから」
「……弄ばれた……」
「弄んでなどいません。私は真面目にやってます」
キースは名残惜しそうにもう一度、額にキスをすると、背中に回していた腕が少しだけ解けた。
「これで、抜き打ちで抱き寄せても大丈夫ですね?」
「大丈夫じゃないよ、もう……」
「では、慣れるまでやりますか?」
「もう慣れました!!」
赤くなった顔を隠すように、私は彼の胸元に額を押し付けることしかできなかった。
……その時、胸板越しに伝わってきたキースの心拍数は、私と同じくらい激しく鳴っていることに気づいてしまった。
涼しい顔して、本当は緊張してたのかな。
そう考えたらちょっとだけ可愛く思えて、バレないようにこっそり頬を緩ませた。




