第9話 長安の洗礼
瀬戸内海での遭難、そして「パッチワークの帆」という狂気の修復作業を経て、犬上御田鍬率いる第一回遣唐使一行は、奇跡的に東シナ海を横断した。
奇跡としか言いようがなかった。
大陸の沿岸に辿り着いた瞬間、限界を迎えていた丸太のマストはへし折れ、船体はバラバラに崩壊したのである。
彼らは板切れに掴まりながら、命からがら唐の領土へと上陸を果たした。
そこから唐の首都・長安までの道のりは、さらなる地獄のサバイバルだった。
言葉もろくに通じない異国。着ているものは、帆として使い古して塩と泥にまみれた絹のボロ布。
彼らは野宿を繰り返し、時には現地の農民に土下座をして飯を恵んでもらいながら、数ヶ月の時間をかけて、ついに大帝国・唐の中枢へと歩を進めたのである。
そして現在。
犬上と、副使の薬師恵日は、口をポカンと開けたまま、魂を抜かれた顔で立ち尽くしていた。
「……大使」
「……ああ。俺の目がおかしくなったわけじゃ、ないんだな」
彼らの目の前に広がっていたのは、人類の歴史上、類を見ない超巨大メガロポリスであった。
唐の首都、長安。
周囲を高さ数メートルの巨大な城壁がぐるりと取り囲み、その広さは飛鳥の都がまるごと数十個は入るのではないかという異常なスケールである。
碁盤の目のように整然と区画された街路。メインストリートである朱雀大路は、道幅がなんと百五十メートルもある。現代の日本の大通りですらあり得ない広さだ。
「な、なんですか、あの生き物は……っ! 馬の背中に、コブが二つも生えてますよ!?」
恵日が震える指で差した先には、大量の荷物を背負って悠然と歩く駱駝の隊商がいた。
行き交う人々は、中華民族だけではない。
遥か西方の砂漠を越えてやってきたであろう、碧眼に彫りの深い顔立ちをしたソグド人の商人たち。色鮮やかなターバンを巻いたインドの僧侶。
世界中の富と情報が、この長安というすり鉢の底に集まっていた。
西市と呼ばれる市場からは、活気という名の暴力的な喧騒が押し寄せてくる。
「さあさあ、西域から届いた極上の瑪瑙だよ! そっちの客には、ペルシャの玻璃(ガラス)の杯はどうだい!」
「香辛料! 胡椒と丁子はいらんかね!」
見たこともない宝石、透き通ったガラス、鼻腔をくすぐる強烈なスパイスの香り。
飛鳥の市場で「今年のカブはよく育ったなー」などと暢気に笑っていた犬上たちにとって、ここは完全に別次元、いや別宇宙であった。
「大使……俺たち、完全に場違いです……」
恵日が、ポロポロと涙をこぼし始めた。
無理もない。彼らは今、異世界レベルの超巨大都市のど真ん中に、襤褸切れをまとったホームレスのような格好で突っ立っているのである。
現に、通りすがりの異国の商人が、彼らの足元にチャリンと銅銭を投げていった。
完全に乞食と間違われている。
「泣くな恵日! 我々は誇り高き日本国の代表だぞ! 服がボロボロなのは、海という大自然との死闘を制した名誉の負傷ではないか!」
犬上は強がって見せたが、その声は微かに震えていた。
圧倒的なカルチャーショックが、エリート官僚としての彼のプライドを根元からへし折りにかかっていた。
(これが……新しい国、唐……! 隋が滅んで混乱しているかと思えば、むしろ発展しとるやないかい!!)
犬上は懐に手を当てた。
そこには、あの世界一舐め腐ったゴミ国書がある。
(こんなゴミで、この超大国のトップと面会するだと……? 無理だ、絶対に門前払いされる。いや、不敬罪で秒殺される……!)
しかし、ここまで来て引き返すという選択肢は、ブラック朝廷に仕える彼らには存在しない。
犬上は、自らの頬を両手でバチン! と強く叩いた。
「行くぞ恵日! 泣いていても始まらん! まずは外国の使節を管轄する役所へ乗り込むのだ! 妹子先輩の教えを思い出せ! 『ハッタリと気合いで乗り切れ』だ!」
「は、はいぃぃっ!」
***
彼らが向かったのは『鴻臚寺』という、外国使節の接待と外交事務を取り仕切る巨大な役所だった。
役所の門前には、すでに他国の外交官たちが長蛇の列を作っていた。
北方の強大な遊牧帝国である突厥の使者、チベット高原から来た吐蕃の使節団。
彼らは皆、豪華絢爛な民族衣装を身に纏い、貢物として屈強な名馬や、金銀財宝を山のように積んだ馬車を引き連れている。
それに引き換え、日本の遣唐使一行はどうだろう。
貢物の大半は海に沈み、持っているのは申し訳程度の真珠や水晶の欠片。そして服装は塩吹いた襤褸。
「次! そこの薄汚い連中、前へ出ろ」
案内された受付の窓口で、唐の小役人が、犬上たちをゴミでも見るような目で睥睨した。
「お前たち、どこの蛮族だ。ここは炊き出しの会場ではないぞ。施しなら裏口へ回れ」
「こ、乞食ではござらん! 我々は、はるか東の海の彼方、『倭国』から参った正式な使節団である!」
犬上は、持てる限りの威厳を振り絞り、覚えたての漢語で反論した。
「倭国?」
小役人は、面倒くさそうに竹簡のリストをパラパラと捲った。
「知らんな。聞いたこともない。大方、地図にも載っていないような辺境の無人島から、大唐の威光にすがりついて来たのだろう。どこの馬の骨とも知れん連中を、皇帝陛下にお目通りさせるわけにはいかん。帰れ帰れ」
シッシッ、と犬を追い払うような手つきをされる。
「待たれよ! 我々の国は、かつて隋の時代にも正式に使節を送り、国交を結んだ実績があるのだ! 当時の記録を調べてもらえれば……!」
「隋の記録など、戦乱のドサクサで大半が燃えておるわ! いいから早く退け、後ろが閊えているのだ!」
役人の塩対応の壁は、万里の長城よりも高くて厚かった。
後ろに並んでいる他国の使節団からも、「なんだあの小汚い猿どもは」「早く追い出せ」と露骨な嘲笑が飛んでくる。
恵日が、心が折れた顔で犬上の袖を引いた。
「た、大使……もう無理です。相手にすらされません。こんな大国にとって、俺たちなんて路傍の石っころと同じなんですよ……」
確かに、まともな外交ルートでは、交渉のテーブルにすら着かせてもらえない。
犬上はギリッと奥歯を噛み締めた。
(まともな手段が通じないなら……)
犬上の脳内に、飛鳥での激務の日々が蘇る。
稟議書を蹴り飛ばす上司、無茶な納期を押し付ける取引先、予算ゼロで新規プロジェクトを立ち上げろと宣う天皇。
ブラック朝廷で鍛え上げられた、社畜としてのド根性。
それが、大都会・長安のど真ん中で爆発した。
「ふざけるなァァァァッ!!」
犬上の怒声が、鴻臚寺のロビーに轟いた。小役人も、周囲の外交官たちも、一瞬ビクッと肩をすくめる。
「我々は! 何ヶ月も泥水をすすり! 嵐で死にかけ! ゲロを吐き散らしながらここまで来たんだぞ!! 『はいそうですか』と引き下がれるわけがなかろうが!!」
犬上は、ドンッ! と受付の机に両手をつき、小役人に顔面が触れそうなほどの距離まで身を乗り出した。
その目は、完全にイっている。
「名刺代わりの国書がある! これを見ろォォォッ!!」
バァン!!
犬上は懐から、あの「ゴミ国書」を叩きつけた。
「ほぅ、国書とな。まあ、書式が整っているなら、一応は……」
小役人は、嫌々ながらその国書を広げた。
そして、その文字列を見た瞬間。
彼の顔から、スゥーッと血の気が引いていった。
『……云々、大 隋 唐国皇帝陛下へ』
「…………な、なんだこれは?」
小役人の声が、震えていた。
「お前たち……偉大なる皇帝陛下へ宛てた国書に、二重線を引いて、あまつさえ横に殴り書きで『唐』と書き直しているのか……?」
「いかにも! 我が国の最上位の権力者が、自ら筆を取って最新の情報にアップデートした、大変ありがたい文書である!」
「ふざけるなァァァッ!!」
今度は小役人の方が絶叫した。
「こんな杜撰な偽造文書があるか! よりにもよって、滅亡した前王朝『隋』の字を消して再利用だと!? 舐めているのか! 大唐帝国への明らかな侮辱である! 衛兵! こいつらを即刻捕縛し、首を刎ねよ!!」
ガチャガチャと、甲冑を鳴らして武装した唐の衛兵たちが殺到してくる。
「ひぃぃぃっ! 終わった! 俺たちの外交、受付窓口で終わったァァ!」
恵日が頭を抱えてしゃがみ込んだ。
絶対絶命。
しかし、ここで犬上は、小野妹子から受け継いだ究極奥義を繰り出した。
「お待ちくださああああああいッ!!!」
ドゴォォォォン!!
犬上は、大理石の床に自らの額を全力で叩きつけた。
周囲の人間が引くほどの、完璧な速度と角度を誇る、究極の平伏である。
「誤解でございます! これは決して、大唐帝国を侮辱するものではございません!」
犬上は、額から血を流しながら、機関銃のように喋り始めた。
「我が国は、島国ゆえに物資が極めて乏しいのでございます! 特に、この国書に使われている和紙は、国家予算の半分をつぎ込んで作られた究極の素材! 我が国では、モノを大切に使い回す『もったいない精神』という高度な哲学がございまして!」
「も、もったいない精神……?」
「はい! 決して新王朝を軽んじているわけではありません! むしろ、前王朝の負の遺産を打ち消し、そこに新たに力強く『唐』という文字を上書きすることで、大唐帝国の永遠の繁栄を予祝するという、前衛的なアート表現なのでございます!」
無茶苦茶である。
意味不明な詭弁である。
しかし、ブラック営業で培われた「絶対に折れない心」と、命の危機に瀕した人間の必死の形相は、言葉の壁を越えた謎の気迫を生み出していた。
さらに犬上は、平伏したまま、懐からそっと「ある物」を取り出し、小役人の足元へ滑らせた。
それは、難破した船から唯一死守してきた、日本産の極上の真珠が詰まった小さな袋だった。
「どうか……この前衛アートの深い意味を、心の広い貴方様にはご理解いただきたく……。ほんの『ご挨拶』の品でございます」
「……」
小役人は、真珠の袋をチラリと見た。
その瞬間、彼の冷徹な官僚の目に、微かな強欲の光が宿った。
唐の役人もまた、人間である。
しかもここは、魑魅魍魎が跋扈する大帝国の官僚機構。賄賂は、どんな立派な国書よりも雄弁に語る。
小役人は、素早い手つきで真珠の袋を自分の袖口に隠すと、コホンと大袈裟な咳払いをした。
「……ま、まあ? 遠路はるばる海を越えてきたその誠意、無下に追い返すのも、我が大唐帝国の度量の深さに傷がつくというもの」
衛兵たちに手で合図を送り、剣を収めさせる。
「よかろう。お前たちの国書は、特例として受理してやる。皇帝陛下との謁見の順番も、一番最後に入れておいてやろう」
「おおっ! ありがたき幸せ……ッ!」
犬上と恵日は、涙を流して床に伏した。
しかし。
小役人は、ニヤリと底意地の悪い笑みを浮かべて、こう付け加えた。
「ただし。皇帝陛下に拝謁できるのは、明日の朝だ。それまでに、お前たちが我が唐の『宮廷儀礼』をにつけていることが条件だ」
「宮廷儀礼、ですか?」
「そうだ。歩き方、拝礼の角度、言葉遣い。一つでも間違えれば、皇帝陛下への不敬罪として、その場で斬首される。お前たちのような野蛮な猿に、たった一晩で我が国の高度なマナーが覚えられるかな?」
小役人の言葉に、犬上の背筋に氷のような悪寒が走った。
ただでさえ何ヶ月も野宿を続け、極度の睡眠不足と疲労状態にある。
その状態で、今から明日の朝までに、世界一複雑で厳格な中華帝国の宮廷マナーをゼロから丸暗記しろというのだ。
「お前たちが明日の朝、玉座の前で首と胴体が泣き別れになる姿を、楽しみにしているぞ。ふはははっ!」
嘲笑う役人を背に、犬上たち遣唐使一行は、絶望的な「徹夜の一夜漬け」という名の、新たなブラック労働に直面することになるのだった。




