第10話 命懸けのマナー研修
長安の片隅にある、外国使節用の薄暗い宿舎。
その一室で、犬上御田鍬と副使の薬師恵日をはじめとする遣唐使一行は、頭を抱えて車座になっていた。
「終わった……」
恵日が、虚ろな目で壁のシミを見つめながら呟いた。
「今度こそ、詰みましたよ大使。明日の朝までに、唐の宮廷儀礼を修得しろだなんて……そんなの、不可能に決まってるじゃないですか」
一行の間に、お通夜のような空気が流れる。
無理もない。彼らが突きつけられた条件は、あまりにも過酷だった。
唐の宮廷儀礼。
それは、数千年の歴史を持つ中華思想の結晶であり、人間が人間を支配するためのマウントシステムである。
歩幅は一歩につき何寸か。視線は何度下に向けるべきか。皇帝陛下から何メートル手前で立ち止まり、どういう順番で膝を折り、どのタイミングで息を吸うのか。
それらすべてが、マニュアルとして厳密に定められているのだ。
少しでも間違えれば「野蛮な猿が皇帝を侮辱した」として、不敬罪で即刻斬首される。
「どうするんですか大使。俺たち、日本の朝廷の緩いマナーすらまともに守れてないのに」
恵日の言う通りだった。
飛鳥の朝廷など、蘇我蝦夷が「あー、それでいいよ適当で」と言えばすべてが通る、ある意味で超絶ホワイトな環境である。
そんなヌルい環境で育った彼らが、世界最高峰のガチガチの宮廷マナーを一夜漬けで覚えるなど、物理的に不可能に近かった。
「……諦めるな」
犬上は、血走った目で立ち上がった。
「ここで諦めたら、沈んだ船も、噛まれたダニの痒みも、すべて無駄になる! 俺たちは、生き残るためならどんな理不尽でも飲み込んでみせる! それが、ブラック朝廷で鍛えられた社畜の意地だ!」
犬上の目は完全にイっていた。極度の疲労とプレッシャーにより、アドレナリンが過剰分泌されている。
「誰か! この宿舎にいる唐の役人を呼んでこい! 賄賂なら、まだ真珠が数粒残っている!」
数分後。
犬上たちの部屋に、一人の初老の唐人役人が連れてこられた。
彼は外国使節の世話係をしており、小遣い稼ぎのために時折、マナーのレクチャーを請け負っている男だった。
名前を李という。
「はぁ。倭国だか何だか知らんが、明日の朝までに儀礼を覚えたいだと?」
李は、犬上が差し出した数粒の真珠を素早く懐に仕舞い込みながら、呆れたようにため息をついた。
「無理だ無理だ。我が大唐の礼法は、幼少期から厳しく叩き込まれてようやく身につくもの。お前らのような猿どもが、一夜で覚えられるはずがない。さっさと諦めて国に帰れ」
「そこをなんとか! 李先生!」
犬上は、李の足元にすがりついて、その脛を顔面で擦り上げるような究極の平伏を見せた。
「我々は命がかかっているのです! 最低限、首を刎ねられないレベルで結構! どうか、どうかご指導を!」
「ええい、鬱陶しい! 離れろ、この泥猿!」
李は犬上を蹴り飛ばそうとしたが、犬上の腕力は異常だった。海を渡り、野宿を生き抜いたサバイバル筋力は、初老の文官など軽く凌駕していたのである。
「教えていただけるまで離しません! なんならこのまま李先生の足にしがみついて、明日の朝の謁見の間まで同行しますよ!」
「やめろ、私が不敬罪で処刑されるわ! わ、わかった! 教えてやるから離せ!」
こうして、長安の片隅で、命を懸けたスパルタ宮廷マナー講座が開幕した。
***
「バカモノ!! 右足から踏み出す奴があるか!」
パァン!
李の容赦ない竹の鞭が、犬上のふくらはぎに炸裂した。
「痛ッ!」
「皇帝陛下の御前に進む時は、必ず左足からだ! そして歩幅は一尺二寸! それ以上でもそれ以下でもない! 正確に動け!」
スパルタ講師と化した李の指導は、常軌を逸して厳しかった。
「目線が高い! 皇帝陛下の御尊顔を直接拝するなど、一万年早い! 視線は常に、陛下の足元から前方三尺の床に固定しろ! 床の模様を美女だと思え!」
「は、はいぃぃっ! 床の模様、愛しますッ!」
留学生たちも、泣きながら歩く練習を繰り返していた。
しかし、普段からフリーダムに歩いている彼らにとって、ガチガチに制御された歩行はロボットダンスのように不自然になってしまう。
「違う! 腕を振るな! 笏を胸の高さでしっかり保持し、肩を動かさずに腰から下だけを滑らせるように歩け! お前たちは白鳥だ、水面下でだけ足を動かせ!」
「先生! 笏なんて高級なアイテム持ってません!」
「木の枝でも拾ってきて持て! エアーでやるな!」
深夜二時。
歩行訓練をクリアした彼らを待っていたのは、中華帝国の最高難度アクション『三跪九叩頭の礼』であった。
(※ 三跪九叩頭の礼は17世紀以降、清代の文化だが深い事は気にしないで欲しい!)
「三度、跪き、九度頭を地に打ち付ける」という、皇帝に対する最大級の臣従の儀式である。
「いいか、ただ頭を下げればいいというものではない。リズムだ! リズムと角度が命だ!」
李は、自らお手本を見せた。
スッ、と流れるように膝を折り、ドン、ドン、ドンと床に額を打ち付ける。その動きは一種の芸術的な美しさすら帯びていた。
「さあ、やってみろ!」
犬上と恵日が、見よう見まねでやってみる。
ドゴッ! ゴツッ! バタン!
「痛ぇっ!」
「大使! 勢い余って床に鼻をぶつけました!」
「バカモノども! なんだその無様な動きは! 泥酔したカエルが転がっているようにしか見えんぞ!」
李の鞭が容赦なく飛ぶ。
「膝を折る時は、袴のシワが美しく広がるように空気を入れろ! 頭を打ち付ける音は、重く、かつ響きのある『ゴン』だ!『ペチッ』とか『コツッ』では誠意が伝わらん!」
「床の材質にもよるじゃないですかァァ!」
「言い訳をするな! 額の骨の角度で音を調整しろ!」
無茶苦茶な要求である。
しかし、彼らは必死だった。額から血を流し、膝を青痣だらけにしながら、三跪九叩頭の礼をひたすら繰り返す。
深夜四時。
儀礼のアクションになんとか合格点(ギリギリ斬首されないレベル)をもらった一行だが、最大の絶望的な問題が残されていた。
「……で、お前たち。まさかその服で謁見の間に行くつもりか?」
李が、心底嫌悪感に満ちた目で、彼らの襤褸切れを指差した。
遣唐使一行の服は、遭難した際に帆として縫い合わせ、海水と泥にまみれ、さらに長安までの過酷な旅路でボロボロに引き裂かれていた。
犬上に至っては、もはや「布を体に巻きつけているだけの半裸の変質者」に近い状態である。
「そ、そうですけど……。着替えなんて、海に全部流されちゃいましたし」
「バカモノ!!!」
李の絶叫が、夜明け前の宿舎に響き渡った。
「そんな乞食のような姿で、皇帝陛下の神聖な謁見の間に入れるわけがなかろう! 皇帝陛下の御目に、そんな汚物を映すこと自体が万死に値する不敬罪だ! 即刻、入り口の衛兵に串刺しにされるわ!」
「えええええっ!?」
犬上たちは顔面蒼白になった。
マナーを完璧にしても、ドレスコード違反で即死確定である。
「ど、どうすれば!? 今から服を買いに行く金なんてありませんよ!」
「知らん! なんとかしろ! 私はもう教えることは教えたぞ!」
李はそう言うと、逃げるように部屋から立ち去ってしまった。
残された一行に、再び絶望の闇が降り注ぐ。
「……終わった、そんな大事なこと、稽古する前に言ってくれよな……」
恵日が床に突っ伏して嗚咽を漏らす。
しかし。
犬上の目は、まだ死んでいなかった。
彼は血走った眼球をギョロギョロと動かし、部屋の中を、そして自分たちの着ている襤褸切れをまじまじと見つめた。
「……あるじゃないか」
「え?」
「俺たちの体に巻きついている、この布。もとはと言えば、天皇陛下から賜った最高級の絹織物だ」
「いや、そうですけど。もう原型留めてないじゃないですか。色もドス黒いし、臭いし」
犬上は、狂気を孕んだ笑みを浮かべた。
「デザインの問題だ。このボロ布を、いかにも『そういう最新のファッション』であるかのように見せかければいいんだ」
「はあ!?」
「いいかお前ら! 服を脱げ! そして、持っているすべての布を一枚に縫い合わせるんだ!」
犬上の狂気の号令のもと、徹夜の「オートクチュール・ドレス製作」が始まった。
全員の服を解体し、使えそうな部分だけを継ぎ接ぎしていく。
針と糸は、宿舎の備品を勝手に拝借した。
「大使! これ、どう見てもただのパッチワークの布っきれですよ!」
「バカ野郎、これを身体に巻きつけて、こう……ドレープを効かせるんだ! 西域の僧侶とかが着てる、袈裟みたいな感じに!」
犬上は、完成した布を、自らの半裸の身体にぐるぐると巻きつけた。
右肩を露出させ、布の端を左肩から垂らす。
その姿は、古代ギリシャの哲学者か、あるいは前衛的なモダンアートのオブジェのようだった。
「……大使」
恵日が、引き攣った顔で言った。
「それ、完全に『ヤバい奴』です。どう贔屓目に見ても、正気の沙汰じゃありません」
「うるさい! これしかないんだ! あとは、言葉のハッタリで乗り切る!」
犬上は、充血した目で水盆を見つめた。
目は落ち窪み、無精髭は伸び放題。額は叩頭の特訓で赤く腫れ上がり、身体には謎のパッチワーク布を巻きつけている。
どこからどう見ても、大国に国交を求めに来た使節には見えない。ただのヤバい狂人である。
「フフ……フハハハハッ! 完璧だ! これこそが、我が日本の最先端ファッション『侘び寂び前衛スタイル』だァァァッ!」
極度の睡眠不足、死の恐怖、そして過酷な特訓による脳内麻薬の分泌。
犬上のテンションは、もはや正常な人間のそれを完全に逸脱していた。
***
翌朝。
長安の宮殿、大明宮。
朝の光に照らされた壮麗な謁見の間の前に、他国の豪華な使節団がズラリと並んでいた。
そして、その列の最後尾。
「フフ……フフフフフ……」
「ヒヒッ……アハハハハッ!」
完全に目がガンギマリ状態の犬上と、同じくパッチワーク布を巻きつけて謎の笑みを浮かべる恵日たち遣唐使一行が立っていた。
「なんだあいつら……」
「近寄るな、関わったら呪われそうだ」
他国の外交官たちが、ドン引きして道を開ける。
「次! 倭国……前へ!」
呼び出しの声が響く。
「行くぞお前らァ! 死ぬ気で頭を床に叩きつけろォォッ!」
「オオォォォォッ!!」
徹夜明けの異常なハイテンションに包まれた彼らは、謎の奇声を上げながら、唐の第2代皇帝・太宗の待つ謁見の間へと、一糸乱れぬロボット歩行で突入していった。
第一回遣唐使、命を懸けた謁見の儀が、ここに幕を開けたのである。




