第11話 名君、太宗
唐の皇宮、大明宮。
その中心に位置する広大な謁見の間は、帝国の中心たる圧倒的な威圧感に満ちていた。
大理石が敷き詰められた床、天を突くような朱塗りの柱、そして両脇にズラリと居並ぶ百官たちの研ぎ澄まされた視線。
そこに、徹夜明けで眼球の毛細血管をブチ切れさせた第一回遣唐使一行が、一糸乱れぬ不気味なロボット歩行で突入してきたのである。
ススッ、スススッ……。
「なんだ、あいつらは……」
「服が……いや、あれは服なのか?」
「それにあの歩き方……まるでからくり人形ではないか」
百官たちがザワつく中、犬上御田鍬と薬師恵日をはじめとする一行は、周囲の視線など一切気にする余裕はなかった。
彼らの視線は、前夜にスパルタ講師・李から叩き込まれた通り、「皇帝陛下の足元から前方三尺の床の大理石の模様」に固定されている。
(左足から一尺二寸! 笏の代わりの枝をブレさせるな! 俺たちは白鳥だ! 優雅に、かつ無機質に滑るのだ!)
犬上は心の中で絶叫しながら、皇帝の玉座の手前、決められた位置でピタリと停止した。
そして、合図とともに全員で一斉に動いた。
バサッ! ドンッ!
三跪九叩頭の礼。
三度膝を折り、九度頭を地に打ち付ける。
特訓の成果である。彼らはパッチワーク布のシワを美しく広げ、大理石の床に向かって全力で額を叩きつけた。
ゴォォォォンッ!!
謁見の間に、人間の頭蓋骨と大理石が激突する、尋常ではない重低音が響き渡った。
「痛ッ!」という悲鳴は絶対に上げてはならない。彼らは額から鮮血を滲ませながら、完璧なリズムと角度で九度の叩頭を完遂したのである。
「……ほう」
玉座の上から、静かな、しかし空間そのものを支配するような声が降ってきた。
唐の第2代皇帝・太宗(李世民)である。
暴君として恐れられた前王朝の煬帝とは対極に位置する、中華史上最高の名君と謳われる男。
数々の戦陣を駆け抜けた武将としての屈強な体躯と、天下を理で治める怜悧な頭脳を併せ持つ、完全無欠の絶対君主であった。
「東の海の果て、倭国……その使節であるな。面を上げよ」
犬上たちは、ゆっくりと顔を上げた。
玉座から見下ろす太宗の眼光は、決して怒りに満ちているわけではない。しかし、底知れぬ深淵のように、犬上たちのすべてを見透かしているかのような冷徹な響きがあった。
「長旅の労、ねぎらうぞ。して、我が大唐帝国への国書を持参したと聞くが」
「は、ははァッ!」
犬上は、震える手で懐からあの「国書」を取り出した。
世界一、杜撰な外交文書である。
傍らに控えていた宦官がそれを受け取り、太宗の御前に恭しく広げた。
その瞬間。
国書を一瞥した太宗の眉が、ピクリと動いた。
「…………」
謁見の間に、氷点下の沈黙が落ちた。
太宗の隣に控えていた高官が、国書を横から覗き込み、顔面を真っ赤にして激怒した。
「無礼者ォォォッ!!」
高官の怒声がビリビリと空気を震わせた。
「なんだこの国書は! 前王朝の国号を線で消し、我が大唐の名を書き殴るとは! 大唐帝国への明らかなる不敬! 陛下、このような野蛮な猿ども、即刻斬首になさいませ!」
ガチャリ、と周囲の衛兵たちが武器に手をかける。
恵日たち留学生は「終わった」とばかりに目をギュッと瞑った。
しかし、太宗は片手を軽く挙げて高官を制した。
「待て。斬るのはいつでもできる」
太宗は、冷ややかな瞳で犬上を見据えた。
「倭国の使節よ。お前たちは、命を懸けて海を渡り、我が大唐の礼法に則り、見事な叩頭をして見せた。その額の血が、お前たちの覚悟を物語っている」
太宗の声には、激昂はない。ただ純粋な、理知的な問いかけだった。
「だが、この国書はなんだ。お前たちは、我が国を愚弄しに来たのか、それとも本当に国交を結びに来たのか。朕を納得させるだけの理由を説明してみせよ」
背筋に氷をねじ込まれたような悪寒が走る。
この皇帝は、煬帝のように「ヨイショして機嫌を取れば誤魔化せる」相手ではない。論理的かつ本質的な回答を出さなければ、確実に殺される。
(どうする!? 『うちの上司が適当に書き直しただけです』なんて言ったら、国家のトップが阿呆だと露呈して国交断絶だ! なら、昨日の役人に言った『前衛アートです』の言い訳か? いや、この名君相手にそんな詭弁が通用するわけがない!)
犬上の脳髄が、ショート寸前の回転数で駆動する。
その時、彼の脳裏に、かつて小野妹子が遠い目をしながら語った言葉が蘇った。
『いいか犬上。外交ってのはな、弱みを見せたら終わりだ。相手がどんなに巨大でも、堂々とハッタリをかませ。自分たちには価値があると思い込ませろ!』
(そうだ……ブラック朝廷で鍛えた俺の営業トークを見せてやるッ!)
犬上は、血のにじむ額を再び床に擦りつけ、腹の底から声を張り上げた。
「恐れながら申し上げます、偉大なる皇帝陛下!」
犬上は顔を上げ、太宗の目を真っ直ぐに見返した。
「この国書は、決して大唐帝国を侮辱するものではございません! むしろ、我が国の偽りざる『現状』と『覚悟』を、ありのままにお見せしたものなのです!」
「ほう? 現状と覚悟、だと?」
「はい! 我が国は、島国ゆえに物資が極めて乏しく、大唐のように湯水のごとく高級な紙を使える状況にはございません! 本来であれば、新しい国書を一から書き直すべきでした。しかし!」
犬上は、己の身にまとったボロボロのパッチワーク布を広げて見せた。
「海を渡る途中で嵐に遭い、我々の船は沈みかけました! 食糧も失い、衣服も帆の代わりにして引き裂き、命からがら辿り着いたのです! 我々は、皇帝陛下に『見栄を張って取り繕った美しい国書』をお見せすることもできました。しかし、それでは真の友好は築けないと考えたのです!」
「……」
「この二重線の引かれた国書! そして我々のこの無様な衣服! これこそが、我が国の貧しさ、未熟さ、そしてそれでもなお大唐帝国の進んだ文化を学びたいという、血の滲むような執念の証明なのでございます!」
犬上は息継ぎもせずにまくし立てた。
要するに「貧乏でボロボロだけど、嘘偽りなくガチで学びにきました!」という、情に訴えかける超絶開き直りプレゼンである。
「なるほど」
太宗は、顎を撫でながら静かに頷いた。
「お前たちの必死さは伝わった。物質的な貧しさを恥とせず、教えを乞う姿勢は評価に値する。……だが」
太宗の眼光が、一瞬にして猛禽類のように鋭く細められた。
「外交とは等価交換だ。お前たちは我が国から、律令制度、仏教、先進技術を持ち帰ろうとしている。では問う。お前の国は、我が唐に何をもたらすのだ?」
「……ッ!」
核心を突く問いだった。
圧倒的な文明と武力を誇る唐からすれば、辺境の島国など、ただ技術を乞いに来るだけの「たかり屋」に過ぎない。唐にとってのメリットがなければ、国交を結ぶ価値などないのだ。
「海を隔てた未開の島国が、我が大唐帝国の利益になるのか? 答えよ」
冷や汗が、犬上の背中を滝のように流れ落ちる。
日本の特産品など、この長安に集まる世界中の宝物に比べればゴミ同然である。
では、日本が提供できる最大の価値とは何か。
(地理だ……! 妹子先輩の時とは違う、今の東アジアの情勢を考えろ……!)
犬上は、日本出発前に頭に叩き込んだ大陸の情勢をフル回転させた。
現在、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅が泥沼の抗争を繰り広げており、唐もその動向を虎視眈々《こしたんたん》と窺っているはずだ。
「……背中でございます!」
犬上は、確信に満ちた声で叫んだ。
「背中だと?」
「はい! 大唐帝国が今後、東アジア全域、特に朝鮮半島に秩序をもたらそうとされる時、必ずや半島諸国の抵抗に遭うでしょう! その時、半島を背後から牽制できる位置にある強大な海軍国家、それが我が日本なのです!」
実際には当時の日本に強大な海軍など存在せず、ポンコツ船が数隻あるだけの大ボラである。
「我々は、海という天然の要害に守られた完全なる独立国家! 大唐帝国が我が国と強固な国交を結び、最新の技術を供与してくだされば、我々は必ずや東の海における『最も信頼できる同盟国』として、陛下の東方戦略を決定的に有利なものにいたしましょう!」
犬上は、自らを大きく見せるために両手を広げた。
「我が国に投資することは、大唐帝国にとって決して損な取引ではございません! このボロボロの使節団は、将来の大唐帝国の安全保障を担う、極めて価値のある存在なのです!」
謁見の間に、犬上の声がビリビリと響き渡った。
百官たちは、あまりのハッタリのデカさに言葉を失っている。
ボロボロの布を巻きつけた半裸の男が、世界の中心である皇帝に向かって「俺たちに投資しろ、絶対に得をさせるから」と堂々と営業をかけているのだ。
太宗は、じっと犬上を見つめていた。
その沈黙は、犬上たちの心臓を握り潰すほどに重かった。
(ダメか……? 調子に乗りすぎたか……!?)
数秒ののち。
太宗の口角が、フッ、と僅かに持ち上がった。
「……クックック。はははははっ!」
名君として知られる太宗が、玉座の上で声を上げて笑った。
「ははは! 面白い! 実に面白い男だ! その見すぼらしいなりで、朕に向かって大唐の安全保障を語るとな!」
「へ、陛下……?」
「よかろう!」
太宗は立ち上がり、威風堂々《いふうどうどう》たる態度で宣言した。
「日本の使節よ! お前のその度胸と、大言壮語に免じて、国書は正式に受理する! 大唐と日本は、これより正式に国交を結ぶものとする!」
「おおおおおっ……!!」
犬上と恵日、そして留学生たちは、歓喜のあまりその場で平伏し、ボロボロと涙をこぼした。
「滞在中の費用はすべて我が国で持つ! 留学生たちも、我が国の最高学府である国子監で学ばせるがよい。存分に我が国の文化を吸収し、その『強大な海軍』とやらを育ててみせることだな!」
太宗は、犬上のハッタリを完全に理解した上で、あえて乗ってくれたのである。
それは、強者の余裕であり、名君ならではの懐の深さであった。
「ははァァァーーーッ!! 皇帝陛下の海よりも深き御恩、我ら日本国、永遠に忘れませんッ!!」
犬上は、人生で一番美しい角度で、最後の大理石への叩頭を決めた。
ゴォォォォンッ!という音が、心地よく謁見の間に響いた。
***
謁見が終わり、大明宮の外に出た瞬間。
犬上御田鍬と薬師恵日は、糸が切れた操り人形のように、その場にバタッと倒れ込んだ。
「た、大使……俺たち……やりましたね……」
「ああ……生きてる。首が繋がってる……ッ」
徹夜の疲労、死の恐怖、そして極限のプレゼンによる精神力の枯渇。
彼らは大の字になって長安の青空を見上げながら、泥だらけの顔でへらへらと笑い合った。
「恵日よ……これが、遣唐使の仕事なんだな。胃を削って、プライドを捨てて、ハッタリで国と国を繋ぐ……」
「はい……俺、大使に一生ついていきますよ」
「よせ。俺も、妹子先輩の受け売りをやっただけだ」
犬上は、懐の中で空になった胃薬の竹筒をそっと握りしめた。
極東の島国から来た社畜たちは、こうして世界最大の帝国から「国交」という名の最高の契約をもぎ取ったのである。
しかし、彼らのブラック労働はこれで終わりではない。持ち帰るべき膨大な知識の学習と、再びあの地獄の海を渡る帰路が待っているのだから。
(待っていろよ、日本のクソ上司ども……絶対に、莫大な成果を持ち帰って、給料ふんだくってやるからな……ッ!)
長安の空に、第一回遣唐使の静かなる、しかし熱い決意が溶け込んでいった。




