第12話 未来、次世代へ
大帝国・唐の首都、長安。
第一回遣唐使として死に物狂いのプレゼンを成功させ、皇帝・太宗から正式な国交をもぎ取った犬上御田鍬と遣唐使一行は、その後の一年間、まさにスポンジが水を吸うかのような勢いで超大国の文化を吸収し続けていた。
「大使! 律令の写し、百三十巻すべて完了しました!」
「仏教経典のリスト化も終わりました! 最新の建築技術の図面も、すべて荷車に積み込み済みです!」
宿舎の庭には、山のように積まれた木簡、竹簡、そして貴重な紙の束があった。
それは、唐の高度な政治システム、法典、宗教、文化のすべてを網羅した、膨大な知識の結晶であった。
「よくやった、お前ら……!」
犬上は、目の下に濃いクマを作りながらも、充実感に満ちた笑みを浮かべていた。
命懸けで海を渡り、暴君の如き大自然と、小役人の塩対応を乗り越え、ついに彼らは「日本の未来を変えるアイテム」をコンプリートしたのである。
「よし! 皇帝陛下からの返書もいただいた。帰りの船の心配もいらん。なんと太宗陛下が、大唐帝国が誇る最新鋭の帆船を、我々の帰国のために手配してくださったのだ! 行きで我々の船はバラバラに崩壊したが、帰りは優雅なVIPクルーズだぞ!」
犬上が拳を突き上げて歓喜の声を上げた、その時である。
「あ、あの……大使。ちょっとよろしいでしょうか」
もじもじしながら進み出てきたのは、エリート留学生の高向玄理と、南淵請安であった。彼らは、十数年前に小野妹子と共に裴世清の帰国船で再び隋へ渡り、そのまま大陸で学び続けていた筋金入りのベテラン留学生である。
「なんだ玄理。忘れ物か? 早く荷造りをしろ。極上の船の旅が待ってるぞ」
「い、いや、その……」
玄理は、気まずそうに視線を泳がせた後、意を決したように言った。
「俺たち、やっぱり唐に残ります」
「……は?」
「ですから、日本には帰りません。大使たちだけで帰ってください!」
犬上の顔から、スゥーッと表情が抜け落ちた。
「お、お前ら……何を言っているんだ? 十数年も異国の地で学んで、ついに祖国にその知識を還元する時が来たんだろうが! 日本はお前たちの帰りを待っているんだぞ!」
「いやー、まあそうなんですけどぉ」
請安が、頭を掻きながら横から口を挟んだ。
「大使、冷静に考えてみてくださいよ。この長安、めちゃくちゃ住みやすいんですよ。道は平らだし、飯は美味いし、風呂はあるし。それに比べて日本って……道は泥だらけだし、飯は干からびた米だし、娯楽もないじゃないですか」
「なっ……! 貴様ら、大和魂を忘れたのか!」
「大和魂で腹は膨れないんですよ! それに……一番の理由は……」
留学生たちは、顔を見合わせ、そして同時にブルブルと激しく身を震わせた。
「船旅のトラウマがエグすぎて、もう二度と海なんて見たくないんですゥゥゥッ!!」
「いくら唐の最新鋭の船でも嫌です! 海神に命を握られるくらいなら、異国で骨を埋めた方がマシですゥゥ!」
彼らの悲痛な叫びに、犬上はぐうの音も出なかった。
痛いほどわかる。渡航サバイバルは、人間の精神を崩壊させるには十分すぎるほどの地獄だったのだから。
「お、お前たち……祖国を見捨てるというのか……ッ!」
「見捨てるわけじゃありません! まだ唐の律令制度の奥深さを学びきれていないんです! もっと深く学んで、いつか陸路で日本と繋がった時に帰りますから!」
「陸路で繋がるかァァッ! 島国だぞ!」
詭弁である。海から逃げたいだけの言い訳だった。
しかし、犬上は彼らの目を見て、ふとある事に気がついた。
彼らが唐に残って学び続けることは、あながち逃げでもないのだと。
(……この唐という国は、化け物だ)
一年間、唐の内情を見てきた犬上にはわかっていた。
今はまだ建国されたばかりで内政に力を入れているが、太宗という不世出の名君のもと、この大帝国は必ず外へ向かって膨張を始める。
その圧倒的な軍事力と経済力が、朝鮮半島、ひいては日本へと牙を剥く日が必ず来る。
「……わかった」
犬上は、深くため息をついて頷いた。
「無理には連れて帰らん。お前たちはここに残り、大唐帝国の底知れぬ力と、世界の趨勢を見極めろ。そしていつか、日本が危機に陥った時、その知識を持って祖国を救ってくれ」
「大使……!」
犬上は、涙ぐむ留学生たちの肩を強く叩いた。
「俺たちは一足先に帰る。だから、絶対に死ぬなよ」
「はいッ! 大使もお気をつけて!」
こうして、犬上たちは貴重な留学生をあえて大陸に残し、持ち帰れる限りの莫大な知識と経典だけを積んで、帰路に就いたのであった。
***
大陸の港。
犬上と副使の恵日が目にしたのは、日本のポンコツ船とは次元が違う、巨大な楼閣のような大唐帝国の外洋帆船だった。
「おおおっ……! なんという巨大さ! なんという頑丈な造りだ!」
「これなら波の揺れなんて一切感じませんよ、大使! さすがは太宗陛下、太っ腹です!」
二人は感動の涙を流しながら、豪華な船室へと案内された。
ベッドがあり、温かい食事が振る舞われ、まさに至れり尽くせりのVIP待遇である。
銅鑼が鳴り、無数の巨大な帆が風を孕んで、船は滑るように東シナ海へと漕ぎ出した。
「ハッハッハ! 快適だな恵日! やはり大国の技術力は素晴らしい!」
「ええ! これで心置きなく眠れますね!」
二人が勝利の美酒に酔いしれていた、出港から数時間後。
ドドドドドッ!! バッシャァァァァンッ!!
「……えっ?」
突如、船体が激しく跳ね上がり、室内の調度品が吹っ飛んだ。
何事かと甲板に飛び出した犬上たちが見たのは、尋常ではない速度で海面を爆走する巨大船と、舵を握りながら豪快に笑う唐の船長の姿だった。
「アイヤー! 今日は風がイイネ! 大唐の船は帆が多いから、風に乗ればメチャクチャ速いヨ!」
「ま、待て船長! 波を! 波を正面からぶち抜いてないか!?」
「問題ナイ! 船体が頑丈だから、この程度の波なら叩き割って進むアル! 揺れ? そんなの気合いで耐えるヨロシ!」
日本のポンコツ船は「波に乗ってプカプカ揺れる」地獄だったが、唐の最新鋭船は「圧倒的な推進力で波に激突しながら無理やり進む(物理的衝撃がヤバい)」という、別ベクトルの地獄だったのである。
ドォォォォンッ! という激突音と共に、内臓が口から飛び出そうになる猛烈な縦揺れ。
まるで、ブレーキの壊れた馬車に乗せられているかのようだった。
「オロロロロロロォォォ……ッ!!」
「大使ィィ! 豪華客船でも結局ゲロ吐いてるじゃないですかァァ!」
「ウプッ……やめろ、船長ォォ! もう少しスピードを落として……オェェェッ!」
「ハハハ! 倭国の客人は愉快ネ! もっと帆を張るヨォォッ!!」
「もう遣唐使なんて二度とやらねえええ!」という乗組員たちの怨嗟の叫びが東シナ海に響き渡る。
優雅なクルーズになるはずが、結局は別の意味でのサバイバル航海となり、彼らは社畜の意地だけで、奇跡的に日本への帰還を果たしたのである。
***
そして、飛鳥の都。
小墾田宮の朝堂院にて。
犬上御田鍬は、激しい縦揺れによる全身の筋肉痛と船酔いの後遺症でフラフラになりながらも、朝廷の最高実力者・蘇我蝦夷の前に平伏していた。
彼の背後には、唐から持ち帰った夥しい数の木簡と仏具が高く積み上げられている。
「蝦夷様! 第一回遣唐使、只今帰還いたしました! これぞ、我が国を新たな次元へと引き上げる、大唐帝国の知識のすべてにございます!」
犬上は、誇らしげに声を張り上げた。
(これだけの成果だ! さすがの蝦夷様も、我々の命懸けの功績を称え、莫大なボーナスと昇進を約束してくれるはず……!)
しかし。
蝦夷は、山積みの木簡をパラパラとめくりながら、ひどく退屈そうに欠伸をした。
「ふぁ~あ。お疲れー、犬上。まあ、無事に帰ってきて良かったじゃん」
「は、ははっ! それで蝦夷様、そちらの律令の書でございますが、これは唐の強力な中央集権体制の要となるものでして……!」
「あー、読んだ読んだ。なんかさ、『土地は全部国家のものにして、人民から直接税金を取り立てる』みたいなこと書いてあるじゃん。公地公民制? だっけ?」
蝦夷は、鼻をほじりながら木簡をポイッと放り投げた。
「それさ、ウチじゃ無理だから。ボツで」
「……え?」
犬上は、自分の耳を疑った。
「ボ、ボツ……? しかし蝦夷様! この制度を導入しなければ、我が国は強大な唐に対抗できる国家基盤を作れません! 唐は今、恐るべきスピードで国力を増強しております! いずれ朝鮮半島を蹂躙し、我が国にも手が届くやもしれませぬ!」
「いやいや、大袈裟だっての」
蝦夷は、面倒くさそうに手をヒラヒラと振った。
「あのさ、公地公民なんてやったら、俺たち蘇我氏の私有地とか私有民も全部天皇に没収されちゃうじゃん。そんなの、俺が許すわけないでしょ? 唐の真似事なんてしなくても、今まで通り俺たちが適当に仕切ってれば国は回るのよ。はい、この話終わり。お土産の珍しい仏具だけ奥に運んどいてー」
「…………ッ!!」
犬上の全身の血が、逆流するような怒りに沸騰した。
我々が、どれほどの思いで海を渡ったと思っているのか。
吐き気をこらえ、死の恐怖に怯え、皇帝の前で額から血を流して土下座をし、プライドを粉々に砕きながら持ち帰ってきた国家の宝を。
この男は、己の既得権益を守るためだけに、一瞬でゴミ箱に捨てたのだ。
(ダメだ……この国は、終わっている)
犬上は、床に額を擦りつけたまま、ギリィッと唇を噛み破った。
(蘇我氏が実権を握っている限り、日本が生まれ変わることはない。俺たちが命懸けで持ち帰った知識は、ここでは埃を被って腐るだけだ……!)
「大使……」
傍らに控えていた恵日も、悔しさに震えていた。
彼らの第一回遣唐使という壮大なプロジェクトは、最高権力者の「適当さ」と「既得権益への執着」によって、あっけなく頓挫させられてしまったのである。
***
それから数年後。
飛鳥の都の片隅で、すっかり白髪交じりになり、窓際部署へと追いやられていた犬上御田鍬は、縁側で一人、夕陽を見つめていた。
胃の痛みは慢性化し、もはや彼の人生の一部となっていた。
「犬上殿! お疲れ様です!」
元気な声とともに現れたのは、まだ若い、下級の神祇官であった。
名を、中臣鎌足といった。
極めて聡明な瞳を持ち、日本の古い体制に密かな疑問を抱き始めている、次世代の若者である。
「鎌足か。精が出るな」
「はい! それより犬上殿、また唐のお話を聞かせてください! あの大陸の進んだ律令制度、俺、すごく興味があるんです。もし日本が唐のような中央集権国家になったら、きっと素晴らしい国になると思うんですよ!」
熱く語る鎌足の姿に、犬上はかつての自分を見た。
そして、そのさらに向こうに、かつて自分に背中を見せてくれた小野妹子の姿を重ね合わせていた。
(ああ……そうか。俺たちの仕事は、無駄じゃなかったんだ)
蘇我蝦夷には拒絶された。
だが、俺たちが海を渡って持ち帰ってきた知識という名の「種」は、確実に次の世代の若者たちの心に蒔かれている。
いつか必ず、この若者たちが古い体制を打ち壊し、俺たちが持ち帰った知識を使って、新しい日本を創り上げてくれるはずだ。
「……鎌足よ」
犬上は、懐から古びた竹筒を取り出した。
それは、かつて小野妹子から託され、激動の航海を共に乗り越えてきた、あの強烈に苦い「胃薬」のケースだった。
「これをお前にやろう」
「えっ? これは……? 何か、大陸の秘伝の書ですか!?」
「いや。ただの胃薬だ。めちゃくちゃ苦いぞ」
「い、胃薬……?」
きょとんとする鎌足の手に、犬上はその竹筒をしっかりと握らせた。
「これからお前がやろうとしている事は、途方もなく困難で、理不尽で、胃に穴が開くようなストレスの連続になるだろう。上司の無茶振りに泣き、魑魅魍魎のうごめく政治の波に飲まれそうになる日も来る」
「犬上殿……」
「だがな。泥水をすすってでも、ゲロを吐き散らしてでも、絶対に生き残って仕事を成し遂げろ。それが……」
犬上は、夕陽に向かってニヤリと笑った。
「それが、国を動かす『社畜』の仕事だ」
鎌足は、その言葉の真意をまだ完全には理解していなかったが、先輩の顔に刻まれた深い皺と、海を越えた男の威厳に圧倒され、深く一礼して胃薬を受け取った。
遣隋使から遣唐使へ。
小野妹子から犬上御田鍬、そして中堅官僚たちから次世代の改革者たちへ。
日本の黎明期を支えたのは、教科書に載るような華々しい英雄たちだけではない。
理不尽な命令に振り回され、未知の大海原に放り出され、胃痛に耐えながらもハッタリと根性で生き抜いた、名もなき中間管理職たちの涙と汗の結晶なのだ。
東シナ海の荒波の向こう。
今日もまた、日本の未来を背負わされた誰かが、船の上で桶を抱えながら泣き叫んでいるのかもしれない。
「次は、君の番だ……」
犬上御田鍬のポツリと漏らした呟きは、飛鳥の秋風に吹かれて、優しく空へと溶けていった。
(遣唐使はつらいよ編・完)
次回、「世直しはつらいよ」──。




