第13話 楽しい蹴鞠会
時代は飛鳥。
かつて、小野妹子や犬上御田鍬といった先人たちが、死の海を渡り、強大な帝国・唐から持ち帰ってきた膨大な知識の結晶。
木簡や竹簡に記されたそれらの「最先端の法体系」は、朝廷の片隅にある薄暗い書庫で、うず高く積み上げられていた。
そこに、一人の若き官僚の姿があった。
彼の名は、中臣鎌足。
のちに日本の歴史を大きく動かすことになるこの男は、薄暗い行灯の光の下、目の下に消えない隈を作りながら、果てしない書類整理の業務に追われていた。
「……なるほど。唐の律令制度、すなわち『公地公民』。国家が土地と民を直接管理し、法によって秩序をもたらす。これこそが、我が国を新たな次元へと導く唯一の道……」
鎌足の目は、過労で充血しながらも、確かな希望の光を宿していた。
現在の日本の朝廷は、控えめに言って「超絶ブラックなワンマン体制」である。
かつて適当の極みであった蘇我蝦夷はすっかり老い、現在はその息子である蘇我入鹿が朝廷の実権を掌握していた。
入鹿の横暴は、父・蝦夷の適当さを「恐怖政治」へと全振りさせたようなものであり、もはや帝の権威すら凌駕しつつあった。有力な豪族たちは怯え、朝廷の資源はすべて蘇我氏という一個人の私物と化している。
鎌足は、この腐敗した体制を「法」という名のルールで正し、平和的かつ合理的に「ホワイト化」するという壮大なプロジェクトを立ち上げようとしていたのだ。
「犬上先輩……。あなたが持ち帰ったこの知識、決して無駄にはいたしません。明日こそ、蘇我の大臣にこの改革案を上奏してご覧に入れます」
鎌足は、懐から年季の入った竹筒を取り出した。
中には、かつて遣唐使・犬上御田鍬から「大事に持っておけ。必ず胃に穴が開く日が来る」と託された、大陸伝来の強烈に苦い胃薬が入っている。
鎌足はそれを一粒噛み砕き、泥のような苦味と共に、決意を腹の底へと飲み込んだ。
***
翌日。
飛鳥の都にそびえ立つ、贅を極めた蘇我氏の邸宅。
その広大な広間に、中臣鎌足は平伏していた。
御簾の向こう側、一段高い上座で肘掛けに寄りかかっている男こそ、現在の朝廷における絶対権力者・蘇我入鹿である。
入鹿は、唐から取り寄せた最高級の絹を何重にも重ねた、やたらと装飾過多な衣装に身を包んでいた。傍らには、常に抜身の太刀を持った屈強な私兵たちがギロリと目を光らせている。
鎌足は、持参した木簡の束を恭しく差し出し、声を張り上げた。
「……以上の通りにございます。唐の法体系に倣い、大和の地のすべての領地と民を、一度帝の御手にお返しする。しかるのちに、明確な法をもって再び国を治める。これこそが、我が国が強国として生き残るための道と存じます!」
完璧なプレゼンテーションであった。
論理的かつ、国家百年の計を見据えた非の打ち所のない改革案。
広間に、重苦しい沈黙が降りた。
入鹿は、差し出された木簡を手に取り、ふむ、と鼻を鳴らした。
「公地、公民、とな」
入鹿の低くドスの効いた声が響く。
「要するに、我ら蘇我の領地も、我らに仕える民も、すべて帝の元へ差し出せと。そういうことか?」
「はっ。蘇我の大臣が自ら率先して範を示されれば、他の豪族たちも必ずやこれに続きましょう。法による、公平なる統治にございます」
「……」
入鹿は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、鎌足が徹夜で書き上げた血と汗の結晶である木簡を、床にポイッと放り投げた。
カラン、と虚しい音が響く。
「下らぬ」
「……え?」
「公平なる統治だと? 笑わせるな、中臣の小役人が。よく聞け」
入鹿は、鎌足を見下ろし、極めて傲慢な笑みを浮かべた。
「この国の法とは、すなわち『俺』のことだ。朝廷の財も、大和の豊かな土地も、そこを耕す民も、すべては俺のものだ。帝の領地? それも俺のものだ。俺のものを、なぜ俺以外の誰かに渡さねばならぬのだ?」
本家もドン引きするほどのジャイアニズムの体現であった。
倫理も論理も通用しない。己の欲望と権力のみが世界の絶対的なルールであると信じて疑わない、絶対的ワンマン社長の暴論である。
「お、恐れながら! そのような独裁が続けば、いずれ国の屋台骨が……ッ!」
「黙れ」
入鹿の背後に控えていた私兵たちが、一斉に柄に手をかけた。
チャキン、という冷たい金属音が、鎌足の背筋を凍らせる。
「お前が唐のガラクタを読み漁ろうが勝手だが、俺の機嫌を損ねるような戯言を二度と口にするな。次はないぞ。下がれ」
殺意による、問答無用の企画却下。
鎌足は、屈辱に唇を噛み破りそうになりながら、床に散らばった木簡を拾い集め、逃げるように蘇我の邸宅を後にするしかなかった。
***
数日後。
飛鳥にある法興寺の広場では、「蹴鞠会」が催されていた。
鹿の革で作られた鞠を、地面に落とさないように足で蹴り合う、当時の貴族たちにとっての雅なスポーツである。
しかし、その実態は現代の「接待ゴルフ」や「社内運動会」と何ら変わらない。
有力な豪族や高位の役人たちが集まり、権力者に向けて露骨なヨイショを連発し合う、極めて政治的な社交の場であった。
「おおっ! さすがは蘇我の御曹司、見事な足捌き!」
「いやはや、我らなど足元にも及びませぬな! ハッハッハ!」
広場の中心では、入鹿の取り巻きたちが、わざとらしく鞠を蹴り損ねてはおもねりの声を上げている。
その光景を、鎌足は広場の隅にある藤棚の陰から、死んだ魚のような目で眺めていた。
(……終わっている。この国の中枢は、腐りきっている。誰もが蘇我の顔色をうかがい、保身に走るばかりだ……)
鎌足の胃が、キリキリと悲鳴を上げた。
平和的な法改正など、ただの机上の空論だったのだ。蘇我入鹿という絶対的な権力の壁が存在する限り、この国がホワイト化することなどあり得ない。
鎌足は懐から竹筒を取り出し、胃薬を2、3粒まとめて口に放り込み、ボリボリと音を立てて噛み砕いた。
泥のような苦味が口内に広がるが、今の彼の絶望に比べれば甘露にも等しい。
(もう辞めようか……。田舎に引っ込んで、畑でも耕して生きていく方が、よほど人間らしいかもしれない……)
心が折れ、辞表の文面を脳内で考え始めた、まさにその時だった。
「そぉれッ!」
若々しく、やたらと爽やかな声が広場に響いた。
声の主は、一人の若き皇族であった。
高貴な身分を示す美しい絹の衣を翻し、見事な跳躍とともに鞠を蹴り上げる。
その身のこなしは群を抜いて美しく、何よりその横顔には、周囲の淀んだ空気とは無縁の、キラキラとした光が満ち溢れていた。
(あの方は……確か、中大兄皇子様……)
鎌足がその輝かしい姿に見惚れた、次の瞬間。
皇子が力強く鞠を蹴り上げた拍子に、スッポォォン! と、彼の右足から革の沓がすっぽ抜けた。
沓は、美しい放物線を描きながら宙を舞い――。
あろうことか、藤棚の陰で胃薬を噛み砕いていた鎌足の顔面めがけて飛んできたのである。
「えっ」
バシッ!
鎌足は、飛んできた沓を反射的に両手でキャッチした。
広場の空気が、凍りついた。
身分の高い皇子の沓が脱げ、しかもそれが下級官僚の胸元に飛び込むという、極めて気まずいアクシデント。
周囲の豪族たちが「あーあ」という顔で遠巻きに見つめる中。
中大兄皇子は、片足が足袋のままの姿で、タタタッと軽快な足取りで鎌足の元へ駆け寄ってきた。
「おお、すまない! 力が入りすぎてしまったようだ」
皇子は、一切の嫌味のない、底抜けに爽やかな笑顔を向けてきた。
鎌足はハッとして我に返り、慌てて床に膝をつき、沓を恭しく差し出した。
「も、申し訳ございませぬ、皇子様。この中臣鎌足、出過ぎた真似を……」
「いや、見事な受けであった! 私の沓を汚さずに守ってくれたこと、感謝するぞ、中臣鎌足とやら」
皇子は沓を受け取ると、ふと、鎌足の顔をじっと見つめ込んできた。
その瞳は、ただの世間知らずの若者のものではない。獲物を物色する鷹のように、鋭く、底知れぬ知性を秘めた光を放っていた。
「……そなた。先ほどから見ていたが、ひどく思い悩んだ顔をしておったな。その懐に抱えた木簡の束……何か、大層な企てでも記してあるのか?」
「ッ……!」
鎌足は息を呑んだ。
この木簡は、入鹿に突き返された「公地公民」の改革案である。
隠そうとしたが、皇子はスッと手を伸ばし、鎌足の腕から木簡の一部を抜き取ってしまった。
「ほほう。唐の律令を用いた、法による統治……。領地と民を帝の元へ返す、か」
皇子は木簡の文字を素早く目で追い、そして、パァァッと顔を輝かせた。
「素晴らしい! 実に素晴らしい考えだ! 私も常々、この国の在り方に疑問を抱いておったのだ。蘇我の顔色をうかがうだけの老人たちにはウンザリしていたところでな!」
「ほ、本当でございますか……!?」
「ああ! そなたのような見識を持つ者が埋もれていたとは、大和の国もまだ捨てたものではないな! どうだ鎌足、私と共に、この国を新しく創り直す気はないか!?」
後光が差して見えた。
鎌足の目に、感動の涙がじわっと浮かんだ。
見つけた。蘇我入鹿という巨大な壁に対抗しうる、高貴な血筋と、高い志を持った若きカリスマ。
彼となら、彼がトップに立ってくれれば、自分の法案を可決し、この国を法治国家へと生まれ変わらせることができるかもしれない!
「は、ははァッ! この中臣鎌足、微力ながら、皇子様の思い描く新しき世のため、粉骨砕身働く覚悟にございます!」
「おお、頼もしいぞ! これよりそなたは、私の無二の腹心だ!」
皇子は、鎌足の肩をガシッと力強く掴んだ。
運命的な出会い。運命の歯車が噛み合った瞬間であった。
鎌足の長年の胃痛が、スゥーッと嘘のように消えていくのを感じた。
「さっそく、我らの計画の第一歩を決めようではないか!」
「はいっ! まずは法案の修正と、各豪族たちへの根回し……それから、唐の事例を元にした租税の計算モデルを……」
「いや、そんな面倒なことは後回しでよい」
皇子は、先ほどと変わらぬ、キラキラとした無邪気な笑顔のまま、信じられない言葉を口にした。
「とりあえず、あの鬱陶しい蘇我入鹿の首を、いつ斬り落とすか決めよう。明日斬るか? 明日でいいか?」
…………。
……………………。
鎌足の思考回路が、停止した。
いま、この爽やかな青年はなんと言った?
首を、斬り落とす?
明日?
「えっ……と。お、皇子様? 斬ると仰いますと……その、比喩的な表現、すなわち政治的な失脚を狙うという……」
「いやいや、物理的にだよ。刀で。ザシュッと」
皇子は、手刀を作って自分の首元を水平にスライドさせるジェスチャーをした。
その笑顔には、一滴の狂いもないほどの純粋な殺意が満ちていた。
「奴ら蘇我一門は、いささか図に乗りすぎている。法だの何だのと小難しいことをする前に、一番邪魔な頭を排除してしまえば、あとはすべて思い通りになるだろう? 非常に合理的ではないか」
「む、無茶にございますゥゥゥッ!!」
鎌足の絶叫が、藤棚の陰に響き渡った。
「な、何を仰いますか! 相手は朝廷の最大権力者にして、常に屈強な兵を連れ歩く男にございますよ!? 暗殺など、狂気の沙汰! 失敗すれば一族郎党皆殺しにされます!」
「大丈夫だ、そなたのその素晴らしい頭脳があれば、必ず良い策を思いつくはずだ! 私はそなたを信じておるぞ!」
「信じる方向性が違いますゥゥ! 私は法案を作りたかっただけで、人殺しの計画書なんて書いたことありません!」
「ハッハッハ! 謙遜するな。よし、実務はすべてそなたに任せたぞ。まずは入鹿を丸腰にする罠を考えてくれ。私は刀の手入れをしておくゆえな!」
言うだけ言って、中大兄皇子は「いやー、楽しみだなー!」とスキップせんばかりの足取りで、蹴鞠の輪の中へと戻っていってしまった。
あとに残されたのは、先ほどまでの希望の光から一転、暗黒星雲へと突き落とされた鎌足のみ。
(……この人、サイコパスだ)
鎌足は、ガクガクと震える膝から崩れ落ちた。
法治国家を目指していたはずが、気がつけば「国家反逆の暗殺プロジェクト」の責任者に勝手に任命されていたのである。
しかも、トップは「実務は任せた」と丸投げする気満々だ。
「……あ、あぐっ……胃が……」
先ほど治まったはずの胃の激痛が、今度はドリルで抉られるような猛烈な勢いでぶり返してきた。
鎌足は、震える手で懐から竹筒を取り出すと、中に入っていた激苦の胃薬を一気に3粒まとめて口に放り込み、涙目でボリボリと噛み砕いた。
遣唐使から受け継がれた「社畜の胃薬」の系譜。
それは、海を越えた今、権力闘争という名の血で血を洗う泥沼のベンチャー企業において、再びその真価を発揮しようとしていた。
日本の歴史を根底から覆すクーデター、「乙巳の変」。
その血生臭いプロジェクトは、一人の狂気あふれる皇子と、胃腸薬を過剰摂取する不憫な中間管理職の、最悪のエンカウントによって幕を開けたのである。




