第14話 ヘッドハンティング
蘇我入鹿を排除する。
爽やかな顔をした中大兄皇子から、国家反逆レベルの暗殺プロジェクトの責任者に任命されて数日。
(……不可能だ。どう考えても不可能だ!)
中臣鎌足は、自室の机に積み上げられた木簡を前に、両手で頭を抱えていた。
彼が徹夜で調査・作成したのは、蘇我入鹿の「一日の行動スケジュール」および「警護体制」の報告書である。
その内容は、絶望的なものだった。
現在の入鹿は、父・蝦夷から実権を譲り受け、飛鳥における絶対的な覇者として君臨している。
当然、恨みも買いまくっているため、本人の警戒心は異常に高い。
外出時には、常に五十人の屈強な私兵が前後左右をガチガチに固めている。しかも彼らが装備しているのは、唐から輸入された最新式の鉄製武具だ。
さらに、密偵の報告によれば、入鹿は平服の下にすら、常に薄い鎖帷子を着込んでいるという徹底ぶりであった。
(防御力がカンストしている……ッ! 斬りかかるなど、自殺行為だ! そもそも、我らには私兵すらおらんのだぞ!?)
鎌足は、木簡を握り潰さんばかりの力で握りしめ、ボリボリと胃薬を咀嚼した。
この絶望的な状況を説明し、あのサイコパス皇子に計画の白紙撤回を納得させなければならない。
鎌足は重い足取りで、中大兄皇子の私邸へと向かった。
***
「なるほどなるほど。入鹿の奴、ずいぶんと臆病なのだな。ハッハッハ!」
皇子の私邸。
縁側で優雅に茶を啜りながら、中大兄皇子は鎌足の報告書を読んで屈託なく笑った。
その笑顔は、今日も相変わらず一ミリの曇りもない。
「皇子様、笑い事ではございませぬ!」
鎌足は、思わず声を荒らげた。
「これほどの警護体制です! どこからどう見ても、隙など皆無! 刀を抜く前に、我々が肉片に変えられてしまいます! この計画は実現不可能なのです!」
「ふむ。確かに、道端で襲うのは無理そうだな」
「お分かりいただけましたか! では、やはり平和的な法改正を……」
「ならば、護衛が入れない場所に呼び出せばよいではないか」
コトリ、と。
皇子が茶碗を置く音が、やけに鮮明に響いた。
「は……?」
「入鹿とて、朝廷の臣であろう? 帝の御前、神聖なる宮中の儀式の場であれば、いかに大臣とはいえ、私兵を引き連れて入ることなど許されまい。さらに言えば、帝の御前で刀を帯びることなど不敬の極み。奴も丸腰にならざるを得ん」
鎌足は、ハッとした。
確かに、宮中の中枢である「大極殿」において行われる公式な儀式の場であれば、護衛は門の外で待機することになる。
そこなら、一対一……いや、数人で取り囲めば、あの警戒心MAXの入鹿を無防備な状態に引きずり出せるかもしれない。
「し、しかし皇子様! そんな都合よく、入鹿が自ら大極殿に出向くような『大儀式』など、近々予定されておりませぬぞ!」
「なければ作ればよかろう」
「作る……!?」
「ああ。そなたの得意分野ではないか。唐や三韓(朝鮮半島)からの使者がやってきた、特別な貢物を持ってきた……なんとでも理由はつけられる。外交の儀式であれば、入鹿も出てこざるを得まい」
皇子は、扇子をパチンと鳴らしてニコリと笑った。
「というわけで、その『嘘の儀式』のでっち上げと、入鹿を誘い出すための手はずは、そなたに任せたぞ」
「……はい?」
「おお、そうだ。儀式となれば、我ら以外にも『入鹿を油断させるための身内の協力者』が必要だな。儀式の進行役として、蘇我の一門から誰か適当な奴を引き抜いてくれ。では、頼んだぞ!」
タタタッ、と。
爽やかな風を残し、皇子は「いやー、忙しくなってきたなー!」と朗らかに笑いながら、奥の部屋へと消えていった。
あとに残された鎌足は、口をポカンと開けたまま、数秒間フリーズした。
(ま・る・な・げ・か・ァァァァァァッ!!!)
心の中で、血を吐くような絶叫がこだました。
国家の最高実力者を暗殺するための、宮中を巻き込んだ前代未聞の偽装工作。
それを、一介の中堅官僚である自分一人に「任せたぞ」の一言でぶん投げたのだ。
「……殺す。いつか俺がトップに立ったら、絶対にあいつを……」
もはや不敬罪など知ったことではない。鎌足はドス黒いオーラを放ちながら、再び胃薬をボリボリと貪り食うのだった。
***
数日後。
飛鳥の都の外れにある、人目を忍ぶひっそりとした料亭。
その薄暗い一室で、鎌足は一人の男と対座していた。
男の名は、蘇我倉山田石川麻呂。
……名前が長い。とにかく長い。寿限無か何かか。
彼は蘇我氏の血を引く一門の者であったが、本家である入鹿からは冷遇されており、朝廷でも微妙な立ち位置にいる中堅役人であった。
年齢は鎌足よりも一回りほど上。立派な髭を蓄えてはいるが、その目は常にキョロキョロと泳いでおり、見るからに「プレッシャーに弱い小心者」のオーラを放っている。
「な、中臣殿……このような人目に付かぬ場所に私を呼び出すとは、一体何用でござるか? 私、入鹿様に睨まれるような事は何も……」
石川麻呂は、出された茶にも手をつけず、ガタガタと小刻みに震えていた。
鎌足は、内心で(このおっさんに国家の命運を懸けるのか……)と激しい頭痛を覚えながらも、営業スマイルを顔に貼り付けた。
「石川麻呂殿。単刀直入に申し上げましょう。今の蘇我本家のやり方……入鹿様の専横に、ご不満はございませぬか?」
「ふぁ!?」
石川麻呂は、ビクゥッ! と肩を跳ね上がらせて、周囲をキョロキョロと見回した。
「な、ななな、何を恐ろしいことを! 滅相もござらん! 入鹿様は我ら一門の誇り! 太陽! 私は一切の不満など抱いておりませぬぞ!」
「嘘をおっしゃい。先月の朝議で、あなたの提案した治水工事の予算案、入鹿様に『俺の庭の池を作るのが先だ』と丸められてボツにされたではありませんか」
「うぐっ……! そ、それは……」
「それに、あなたの娘さんを入鹿様の側室に出せと無理難題を吹っかけられ、夜な夜な涙で枕を濡らしていることも存じておりますよ」
鎌足の徹底的な事前調査が、石川麻呂の痛いところを正確に突いていく。
石川麻呂は、悔しそうに下唇を噛んだ。
「……だ、だからどうだと言うのだ。あの御方に逆らえば、一族郎党、首が飛ぶ……。我らのような分家は、黙って嵐が過ぎるのを待つしか……」
「ならば、その嵐の中心を、我々の手で消し去ってしまえば良いのです」
鎌足は、身を乗り出し、声を潜めた。
「中大兄皇子様が、立ち上がられます」
「……ッ!!」
「我々の手で入鹿を討つ。その後、蘇我一門をまとめる新たな長として……石川麻呂殿、あなたに白羽の矢が立っているのです」
鎌足は、ブラック企業特有の「お前が次のリーダーだ(大嘘)」という魅惑のニンジンを、石川麻呂の鼻先にぶら下げた。
「な……わ、私が、蘇我の長に……!?」
「ええ。皇子様も、あなたのお人柄と実務能力を高く評価しておられます。入鹿が消えれば、莫大な蘇我の財と権力は、すべてあなたのもの。娘さんも、無理な婚姻を強いられることはなくなります」
「……」
石川麻呂の目に、明らかな強欲と、家族を思う父親としての感情が入り混じった光が宿った。
いける。鎌足は心の中でガッツポーズをした。
しかし、石川麻呂はすぐに我に返り、再びガタガタと震え始めた。
「む、無理だ! あ、相手はあの入鹿だぞ! 常に五十人の兵を連れているバケモノだ! どうやって討つというのだ!?」
「ご安心を。入鹿を丸腰で大極殿に誘い出す計略は、すでに私が立てております」
「な、なら、私は何もしなくて良いのだな!? 横で見ていれば……」
「いいえ。石川麻呂殿には、最も重要かつ、名誉あるお役目をお願いいたします」
鎌足は、ニッコリと笑って、決定的な一言を放った。
「儀式の当日。大極殿において、入鹿の目の前で『嘘の外交文書』を読み上げていただきます。それが終わった瞬間が、暗殺決行の合図となります」
…………。
石川麻呂の顔から、スゥーッと、見事なまでに血の気が引いていった。
文字通り、土気色である。
「わ……私が……? 入鹿様の、目の前で……?」
「はい。同じ蘇我一門であるあなたが儀式を仕切ることで、入鹿の警戒心は解かれます。完璧なキャスティングです」
「む……」
「む?」
「無理だァァァァァァッ!!!」
石川麻呂は、卓をバンッ! と叩いて立ち上がった。
「死ぬ! 絶対に死ぬ! あの威圧感の塊のような入鹿様を前にして、しかも『今からお前を殺す合図を出しますよ』という状態の嘘文書を読むだと!? そんなの、読んでいる途中で声が震えてバレるに決まっておるわァァ!!」
「大丈夫です! 腹から声を出せばバレません!」
「精神論で何とかなるレベルではないわァ! お断りだ! 私は帰る! この話は聞かなかったことに……!」
パシッ。
逃げ出そうとした石川麻呂の手首を、鎌足が鋼のような力で掴んだ。
「ひぃっ!?」
「……石川麻呂殿」
鎌足は、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、完全に据わっていた。
連日の徹夜と、中大兄皇子の無茶振りによるストレスで、鎌足の精神も限界を突破していたのである。
「もう、遅いんですよ。あなたは聞いてしまった。国家反逆の計画を」
「な、何を……」
「もしここで断って逃げれば、私は即座に入鹿の元へ行き、『石川麻呂が謀反を企てております』と密告します」
「なっ!? 貴様から持ちかけてきたのだろうが!!」
「入鹿がどちらを信じますかね? 恨みを持っているあなたか、それとも忠実な下級役人である私か。……まあ、十中八九、あなたは明日には一族もろとも斬首でしょうね」
脅迫である。
プロジェクトマネージャーとして絶対に人員を確保しなければならない鎌足は、ついにダークサイドに堕ちたのだ。
「あ、悪魔……! お前、それでも人間か……ッ!」
「ええ。生き残るためなら、悪魔にでもなりますよ。……さあ、どうしますか? 確実に殺される道を選ぶか、それとも……ワンチャンスに懸けて、栄光を掴むか」
鎌足の低い声が、静かな部屋に響き渡る。
石川麻呂は、ワナワナと唇を震わせ、ついにその場に泣き崩れた。
「ううっ……やる……やりますぅ……! やればいいんでしょうがぁ……!」
「ご英断、感謝いたします」
鎌足は、パッと営業スマイルに戻り、石川麻呂の手を優しく握った。
しかし、泣きじゃくる石川麻呂の手は、氷のように冷たく、尋常ではない量の汗をかいていた。
その姿を見て、鎌足の胸の奥に、チクリとした痛みが走った。
自分は今、一人の気弱な中年男を、死の淵へと突き落としたのだ。トップの無茶振りに応えるために、他人の人生を巻き込んだ。
(……これが、上に立つ者の業か……)
鎌足の胃が、再びキリキリと痛み始めた。
彼は懐から竹筒を取り出し、胃薬を数粒手のひらに出した。
そして、ふと思いついて、そのうちの一粒を、泣き崩れている石川麻呂に差し出した。
「……なんですか、これは」
「胃薬です。とても苦いですが、効きますよ。唐から伝わった、秘伝の薬です」
「……」
石川麻呂は、震える手でそれを受け取り、口に放り込んだ。
ボリッ。
「……に、苦っ……! なんですかこれ、泥と草の味がしますぞ……ッ!」
「ええ。でも、これで私たちは、同じ釜の飯……いや、同じ胃薬を食った仲間です。共に、地獄を乗り越えましょう」
鎌足も自ら胃薬を噛み砕く。
極度のプレッシャーに押し潰されそうなビビりの中年役人と、上司のサイコパスぶりに神経をすり減らす若き実務担当者。
世代も立場も違う二人が、薄暗い部屋の中で、苦い顔をしながら胃薬を咀嚼する音が響いた。
かつて、遣唐使・犬上御田鍬が言っていた。
『泥水をすすってでも、ゲロを吐き散らしてでも、絶対に生き残って仕事を成し遂げろ。それが、社畜の仕事だ』と。
(犬上先輩……あなたがこれを託した理由、今なら痛いほどわかります)
社会の歯車は、後戻りできないところまで回ってしまった。
狂気のトップが描く絵空事を、実務と脅迫と胃薬で形にしていく。
史上最大のクーデター「乙巳の変」の決行日は、もう目前に迫っていた。




