第15話 殺意の雨
「三韓より、我が朝廷へ特別な貢物を献上したいとの申し出がございました。つきましては、大極殿にて、帝の御前でこれを披露する儀式を執り行いたく存じます」
それは、飛鳥の朝廷に激震を走らせる、「フェイクニュース」であった。
三韓とは、朝鮮半島に覇を唱える高句麗、百済、新羅のことである。
唐という超巨大帝国の脅威が迫る中、使者が特別な品を持ってやってくるとなれば、これは国家レベルの一大イベントである。
朝廷の実質的なトップである蘇我入鹿も、この『重要な外交の場』には、正装で出席せざるを得ない。
そして、帝の御前で行われる神聖な儀式であるがゆえに、いかなる権力者であれども「丸腰」で、かつ「護衛を外に待たせて」大極殿に入らなければならない。
これこそが、中臣鎌足が捻り出した、入鹿から盾を剥ぎ取るための、唯一にして最大の計略であった。
「……よし。これで、なんとか辻褄は合うはずだ……」
深夜の執務室。
鎌足は、目の下に濃すぎる隈を作りながら、筆を置いて大きく息を吐いた。
目の前にあるのは、最高級の和紙に流麗な漢文でしたためられた「三韓からの偽造国書」である。
当然ながら、三韓の使者など一人も来ていない。すべては鎌足が書き上げたフィクションである。
バレれば、問答無用で国家反逆罪および公文書偽造の罪で死刑確定だ。
「まさか、小野妹子先輩が残した『絶対にバレない! 外交文書言い訳マニュアル』が、こんな暗殺計画の舞台作りに役立つとはな……」
鎌足は、本棚の奥に隠してある一巻の古い木簡を見つめた。
そこには、かつて遣隋使として海を渡った妹子が、煽り国書をどうやってハッタリで誤魔化したか、そのノウハウが血の涙とともに書き記されていた。
先人たちの胃を削るような苦労の結晶が、時代を超えて鎌足の背中を後押ししていたのである。
「おーい、鎌足。進捗どう?」
ガラッ、と。
何の遠慮もなく襖を開けて入ってきたのは、この最悪のプロジェクトの発起人である中大兄皇子であった。
深夜だというのに、彼の顔には疲労の色など微塵もなく、無駄にキラキラとした爽やかな笑顔を浮かべている。
「皇子様……進捗も何も、たった今、この命懸けの偽造文書を書き上げたところです。私の寿命は、すでに風前の灯火ですよ」
「ハッハッハ! そう言うな。ほら、差し入れを持ってきたぞ」
皇子は、手に持っていた菓子折りを鎌足の机にドンと置いた。
見れば、どこぞの商人が持ち込んだであろう、たいそう高価な舶来品の甘味である。
「糖分を摂って、明日の本番に備えてくれ! いやー、いよいよ明日だな! 入鹿の首がスパーンと飛ぶかと思うと、楽しみで眠れんよ!」
「遠足の前の子供のようなテンションで暗殺を語らないでくださいッ!」
鎌足は、激しい頭痛に耐えながらこめかみを揉んだ。
このサイコパス気質の皇子は、事の重大さを欠片も理解していない。
失敗すれば、朝廷は血の海となり、自分たちの首が飛鳥の空を飛ぶことになるのだ。
「いいですか皇子様。書類の偽造と、入鹿を大極殿に誘い出す手はずは整えました。儀式の進行は、蘇我一門の石川麻呂殿が務めます。問題は、『誰が実行するのか』です」
「ん? もちろん、私が斬るが?」
皇子は、きょとんとした顔で言った。
「私が一番に飛び出して、奴の首を刎ねる。それで終わりだろう?」
「なりません!! トップ自らが真っ先に手を下すなど、リスクが高すぎます! もし皇子様が返り討ちにでも遭えば、その瞬間に我々のクーデターは失敗、逆賊として歴史に名を刻まれるのですよ!」
「えー? でも、私が一番強いし」
「フィジカル的な問題ではないのです! トップは最後にデンと構えて、『入鹿は逆賊である』と大義名分を宣言するだけで良いのです! 実行犯は、別の者に任せるべきです!」
鎌足は、半ば泣きそうになりながら皇子を説得した。
このトップは、放っておくと自ら最前線で特攻しかねない危うさがあるのだ。
「ふむ……まあ、鎌足がそこまで言うなら、刺客を用意しよう」
「すでに手配済みです。武の腕に覚えのある、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田という二人の刺客を雇い入れました」
「名前が長いな! 寿限無か!」
「そのネタ二回目です。 とにかく、彼らに剣を持たせて、大極殿の柱の陰に隠れさせます。石川麻呂殿が偽の国書を読み終えた瞬間、二人が飛び出して入鹿を仕留める。これが、我々の『乙巳の変』の全貌です」
鎌足は、机の上に広げた見取り図を指さしながら計画をプレゼンした。
入鹿を丸腰にし、身内の裏切り者で油断させ、プロの刺客が確実に仕留める。
これ以上ない、完璧な計画であった。
「なるほど、素晴らしい! さすがは私の見込んだプロジェクトマネージャーだ! よし、では明日の決行を楽しみにしているぞ!」
皇子は上機嫌で部屋を出て行った。
残された鎌足は、再び深い、深いため息をつきながら、竹筒から胃薬を取り出した。
「……完璧な計画のはずだ。これなら、いける。……しかし、なぜだろう」
ボリッ、と苦い薬を噛み砕く。
「この計画に関わっている人間が、私以外、全員どこか『ポンコツ』な気がしてならないのは……」
***
そして迎えた、運命の決行当日。
皇極天皇四年(西暦645年)、六月十二日。
飛鳥の空は、この日の惨劇を予見するかのように、朝から重苦しい鉛色の雲に覆われ、やがて激しい土砂降りの雨となった。
ザアァァァァァッ!!
叩きつけるような雨音が、宮中の瓦屋根を打ち鳴らしている。
大極殿の裏手にある控えの間では、これから歴史的な大任を果たすべき二人の刺客――佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が、ガタガタと小刻みに震えていた。
「おい、子麻呂……俺たち、本当にやるのかよ……。相手はあの、蘇我入鹿様だぞ……」
「バ、バカ野郎、網田。今更、日和ってんじゃねえよ! 中臣の旦那から、前金で報酬もらっちまったんだから、やるしかねえだろ……!」
彼らは確かに腕利きの武士であったが、それはあくまで「そこら辺の賊」を相手にした場合の話である。
国家の最高実力者であり、常に威圧感のオーラを放つ入鹿に刃を向けるなど、プレッシャーの桁が違いすぎた。
「ほら、お前ら。しっかりしろ」
そこへ、鎌足が二振りの小太刀を持って現れた。
「これを、衣の中に隠し持て。いいか、大極殿の中では絶対に音を立てるな。石川麻呂殿が国書を読み終えたら、迷わず飛び出して一撃で仕留めるのだ。わかったな?」
「ひぃぃっ! な、中臣の旦那……やっぱ、俺たちには荷が重いっすよォォ!」
子麻呂が、涙目で鎌足の足元にすがりついた。
「昨日、入鹿様と廊下ですれ違ったんすけど、あの人、目がマジでヤバいっす! ちょっと睨まれただけで、俺の寿命が十年縮みましたよ! あんなバケモノ、斬れるわけねえっす!」
「俺もっす! 昨日から腹が痛くて、下痢が止まらねえっす!」
網田も便乗して泣き言を喚き散らす。
実行犯のメンタルが、本番直前で崩壊していた。
(……だから言っただろうが! このプロジェクト、人員の質に問題がありすぎるんだよォォォッ!)
鎌足の胃が、ギリギリと悲鳴を上げた。
しかし、ここで計画を中止するわけにはいかない。今日を逃せば、二度と入鹿を丸腰にするチャンスは巡ってこないのだ。
「……お前ら」
鎌足は、据わった目をしながら、二人の胸ぐらをガシッと掴み上げた。
「い、ひぃっ!?」
「今更逃げられると思うなよ? お前らはすでに、共犯だ。もしここで逃げ出せば、俺が入鹿に『こいつらが命を狙っていました』と密告してやる。どのみち、お前らの首は飛ぶんだよ」
石川麻呂に対して使った『脅迫話法』の再利用である。
もはや、倫理も道徳もない。ブラック企業の中間管理職は、目的を達成するためなら手段を選ばないのだ。
「や、やります! やらせてくださいィィッ!!」
「俺、入鹿様の首筋に、綺麗な十文字の斬り傷をプレゼントして見せますゥゥ!」
恐怖のあまり半狂乱になった二人の刺客を、鎌足は無理やり大極殿の柱の陰へと押し込んだ。
(よし……これで、役者は揃った。あとは……本番を待つのみ……)
鎌足は、柱の陰から、静まり返った大極殿の内部を窺った。
雨音だけが響く広大な空間。
正面の上座には、御簾が下ろされ、帝がすでに着座されている。
そして、その傍らには、涼しい顔をして座っている中大兄皇子の姿があった。
彼は鎌足と目が合うと、ニコッと爽やかに笑い、親指をグッと立てて見せた。
(あのサイコパスめ……。この極限状態にあって、なぜあんなに落ち着いていられるのだ……)
鎌足が頭痛を堪えていると、大極殿の入り口から、重々しい足音が響いてきた。
「蘇我大臣、入鹿様、御入来ーッ!」
役人の声とともに、広間の空気が一瞬にして凍りついた。
現れたのは、豪華絢爛な衣を纏い、傲慢な笑みを浮かべた蘇我入鹿であった。
彼の周囲には、当然ながら護衛の姿はない。大極殿の門の外で、雨に打たれながら待機しているはずだ。
そして、彼の腰には太刀がない。
計画通り、丸腰である。
(いける……! これで、ヤツはただの無防備なウサギだ……!)
鎌足は、柱の陰でガッツポーズをした。
入鹿は、悠然とした足取りで広間の中央まで進み出ると、帝に向かって深々と一礼した。
その所作には、一切の隙がない。
丸腰であるにも関わらず、彼の全身からは「俺がこの国の覇者だ」という圧倒的な威圧感が放たれていた。
その威圧感は、隠れている刺客たちを震え上がらせるには十分すぎるものであった。
「では、三韓からの国書を読み上げよ」
帝の声が響く。
それに呼応して、広間の脇から、一人の男が進み出てきた。
今回のプロジェクトにおける、最大のキーマン。
嘘の儀式を進行し、偽造国書を読み上げる役目を負った、蘇我倉山田石川麻呂である。
しかし、鎌足は、進み出てきた石川麻呂の姿を見て、思わず「ああっ」と声を漏らしそうになった。
ガックン、ガックン、ガックン……。
石川麻呂の歩き方が、おかしいのである。
右手と右足が同時に出ているのは序の口。膝の関節が抜け落ちたブリキのおもちゃのように、全身を不自然に痙攣させながら歩いている。
その顔面は、土気色を通り越して真っ白であり、目玉はどこを見ているのかわからないほど泳ぎまくっていた。
(い、石川麻呂殿ォォォッ!! 緊張しすぎだァァァッ!!)
鎌足の魂の叫びは、誰にも届かない。
石川麻呂は、どうにかこうにか入鹿の数メートル手前まで辿り着くと、ドスンッと座り込んだ。
そして、震える手で、鎌足が書き上げた「偽造国書」を懐から取り出した。
カタカタカタカタカタ……ッ!
石川麻呂の手が震えすぎて、木簡がカスタネットのように激しい音を立てている。
静まり返った大極殿に、その情けない音が虚しく響き渡った。
「…………」
入鹿が、冷ややかな視線で石川麻呂を見つめた。
その目は、「おい、なぜそんなに震えているんだ?」と、無言の圧をかけている。
「た、た、たっ……」
石川麻呂は、口をパクパクと動かしたが、声が出ない。
極度の緊張と恐怖により、喉の筋肉が硬直してしまっていたのだ。
「たっ……太陽の昇る……あ、いや、ええと……その……」
ようやく絞り出した声は、裏返り、掠れ、もはや何を言っているのか聞き取れないレベルであった。
さらに最悪なことに、石川麻呂の額からは、滝のような汗が噴き出していた。
その汗は、ポタポタと木簡の上に落ち、鎌足が最高級の墨で書いた偽の文字を、無残にも黒く滲ませていく。
(ああっ! 俺の徹夜の成果がァァァッ! 汗で読めなくなってるゥゥゥッ!!)
鎌足は、柱の陰で胃袋を鷲掴みにされたような激痛に襲われた。
これはマズい。非常にマズい。
こんな挙動不審な態度で国書を読めば、いかに「丸腰」とはいえ、あの勘の鋭い入鹿が異常に気付かないはずがない。
「おい」
ついに。
入鹿の、低くドスの効いた声が、大極殿に響いた。
「石川麻呂よ。……なぜ、そのように震えておるのだ?」
ビクゥゥゥッ!!
石川麻呂の肩が、天高く跳ね上がった。
そして、彼は恐怖のあまり、読まなければならない国書から目を逸らし、あろうことか、チラッ……チラッ……と、刺客が隠れている柱の方を盗み見てしまったのである。
(バカァァァァァァッ!!!)
鎌足の脳内で、絶望の鐘が乱れ打ちされた。
秘密のプロジェクトにおいて、素人が本番で視線を泳がせ、隠し玉の方を見てしまうという、最もやってはいけない痛恨のミス。
入鹿の目が、すうっと細められた。
彼は、石川麻呂の視線の先――鎌足や刺客たちが隠れている柱の方へと、ゆっくりと顔を向けた。
「……なるほど。そういうことか」
入鹿の口元に、冷酷な、そしてすべてを悟ったような笑みが浮かんだ。
バレた。
1000%、暗殺計画がバレた瞬間であった。
(終わった……! すべてが終わった!)
鎌足は、懐から竹筒を取り出し、残っている胃薬をすべて手のひらに出した。
もはや、オーバードーズで意識を飛ばすしかない。
柱の裏では、刺客の子麻呂と網田が「ひぃぃぃっ!」と悲鳴を上げ、小太刀を取り落として床にへたり込んでいる。
実行犯の戦意は完全喪失。
進行役はパニックで機能停止。
ターゲットには勘付かれ、圧倒的な威圧感で見下ろされている。
完璧だったはずのプロジェクトは、わずか数分で、修復不可能なレベルの大崩壊を迎えていた。
飛鳥の空を覆う黒雲から、雨はさらに激しさを増し、まるでこれから起こる惨劇を予告するかのように、大極殿の屋根を打ち据えていた。
「さあ……ネズミども。隠れているのはわかっているぞ。出てこい」
入鹿の、死刑宣告のような声が響く。
歴史に残るクーデター「乙巳の変」は、最悪のバッドエンドへと向かって、急転直下の真っ逆さまに落ちようとしていた。




