第16話 滝汗大演説
「……なるほど。そういうことか」
大極殿に響き渡った、蘇我入鹿の低く冷酷な声。
進行役である蘇我倉山田石川麻呂の視線が不用意に泳いだことで、暗殺の実行犯たちが隠れている柱の存在が、バレた瞬間であった。
(終わった……! 解散! 倒産! 飛鳥時代、完!)
柱の陰に隠れていた中臣鎌足は、音を立てずに頭を抱え、絶望のあまり白目を剥いた。
計画の前提となる「奇襲」という最大のアドバンテージが、プレゼンターの痛恨のミスによって開始一分で消滅したのだ。現代のビジネスで言えば、新商品の極秘プレゼン中に、ライバル企業の社長に向かって「実はこれ、御社のデータをパクったんです」とスライドにデカデカと表示してしまったようなものである。
しかし、大極殿の惨劇はまだ始まったばかりであった。
入鹿の冷たい視線を一身に浴びた石川麻呂の身体から、ついに「人体の限界」を超えた現象が起き始めたのである。
ポタポタポタッ、ボタボタボタボタァァァッ!!
石川麻呂の毛穴という毛穴から、異常な量の汗が噴き出した。
それはもはや「冷や汗」というレベルではない。大極殿の美しく磨き上げられた床板に、みるみるうちに水たまりが形成され、さながら新たな湖が誕生しようとしているかのようだった。
そして、その滝汗の直撃を受けたのは、彼が震える手で持っている「三韓からの偽造国書」である。
鎌足が徹夜で、最高級の墨をすって書き上げた流麗な漢文が、おびただしい量の汗によって急激に溶解を始めていた。
「た、たっ……太陽の昇る……処の……」
石川麻呂は、ガチガチと歯を鳴らしながら、必死に国書を読もうとした。
しかし、文字はすでに原形をとどめていなかった。
『高句麗王』と書かれていたはずの文字は、汗で滲んで黒いシミに変異している。
(よ、読めぬ……! 文字が溶けておる……!)
パニックに陥った石川麻呂の脳細胞は、極限状態の中で奇跡的なバグを起こした。
読めないなら、アドリブで繋ぐしかない。彼は、滲んだ墨のシミから、インスピレーションで言葉を紡ぎ始めた。
「こ、高句麗の……黒くて丸い……毛玉。毛玉からの……ご挨拶にございます!」
「……毛玉?」
入鹿の眉間に、深いシワが刻まれた。
「そ、そうです! 毛玉が……大和の国に……大雨を降らせ……あ、いや、これは私の汗で……!」
「おい、石川麻呂」
入鹿が、忌々《いまいま》しげに舌打ちをした。
「貴様、先ほどから何を言っているのだ。三韓からの使者はどこにいる。その木簡には、真実は何が書かれている?」
「ひぃぃぃッ!」
詰め寄る入鹿の圧倒的な威圧感。
丸腰であるにも関わらず、彼の全身からは「大魔王」のような禍々《まがまが》しいオーラが立ち昇っていた。
石川麻呂の震えは頂点に達し、ついには両膝がガクガクと笑い出し、その場で奇妙なステップを踏み始めてしまった。
カタカタカタカタッ! と、床を叩く足音が大極殿に響く。
「な、なんの真似だ、それは」
「こ、これはッ! 三韓より伝わりし、最新の舞にございます! 名付けて『震え舞』! 帝の御長寿を祈願して、私が、全力で震えておりますゥゥ!」
「ふざけているのか、貴様」
入鹿の堪忍袋の緒が、音を立てて切れかかっていた。
一方、その地獄のプレゼンを柱の陰から見ていた鎌足は、胃袋を引きちぎりたい衝動に駆られていた。
(バカかあのおっさんはァァァッ! なにが『震え舞』だ! 脳がショートしてるじゃないか! 早く、早く合図を出して暗殺を実行させねば……!)
鎌足は、柱の陰でガタガタと震え上がっている二人の刺客――佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田の尻に、渾身の蹴りを入れた。
「おい! お前ら! バレたんだからもう待つ意味はない! 今すぐ飛び出して斬れ! さっさと斬れ!」
「む、無理っすゥゥゥ!」
子麻呂が、顔中を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、鎌足の袴の裾にすがりついた。
「入鹿様のあの殺気、見えねえんすか!? 今飛び出したら、指先一つで俺たちの首が『あべし』しますよ! 契約違反っす! 事前情報と相手の戦闘力が違いすぎますゥ!」
「俺たち、下請けのしがない武士なんすよ! 不可抗力免責条項を適用して、この案件から撤退させてもらいますゥ!」
「古代にそんな言葉はないッ!!」
鎌足は、泣き叫ぶ刺客たちの襟首を両手でギリギリと締め上げた。
「いいか!? ここでやらなきゃ俺たち全員死ぬんだよ! 入鹿は丸腰だ、剣を持ってない! お前らは二人で剣を持ってる! 有利はこちらにあるんだ!」
「剣なんか関係ねえっすよ! あの人は覇気だけで人を殺せるんすよォォ!」
暗殺の実行犯が、本番のど真ん中でストライキを起こしていた。
プロジェクトは、暗礁に乗り上げた。否、すでに滝壺に向かって急降下している最中であった。
鎌足は、最後の望みを託して、御簾の向こう側に座っている『このプロジェクトの最高責任者』――中大兄皇子へ、助けを求めるような視線を送った。
(皇子様ッ! トップのあなたから、何か指示を……! この場を収拾する、起死回生のハッタリをかましてくださいッ!)
しかし。
鎌足が見たものは、信じられない光景であった。
大極殿という、国家の命運を決する血生臭い修羅場のど真ん中で。
中大兄皇子は鎌足が昨夜徹夜で書き上げた偽造文書の横に置いてあった、あの『差し入れの舶来品の甘味』をモグモグと、めちゃくちゃ美味しそうに食っていたのである。
「……ん?」
皇子は、鎌足の視線に気づくと、口の周りに粉をつけたまま、キラキラとした無邪気な笑顔で親指を立てた。
そして、口パクでこう言った。
『(すごいサスペンスだな! 最高のエンターテインメントだ! で、いつ血しぶきが飛ぶんだ?)』
…………。
ブチッ。
鎌足の脳内で、何かが決定的に切れる音がした。
(この、超絶サイコパス野郎がァァァァァァッ!!!)
自分の部下が極限のプレッシャーで脳味噌を溶かし、外注の刺客がストライキを起こし、プロジェクトが崩壊しているというのに。
このトップは、『映画館でポップコーンを食っている観客』のテンションであった。
他人の命のやり取りすら、彼にとっては退屈しのぎの娯楽に過ぎないのだ。
(ダメだ。もう誰も頼れない。俺が……俺がなんとかするしかない……!)
鎌足は柱の陰から、石川麻呂に向かって必死のハンドサインを送り始めた。
(石川麻呂殿! とにかくなんでもいいから叫べ! 『斬れ!』と叫んで、注意を逸らすんだ!)
鎌足は、首を切るジェスチャーをし、目をひん剥いて石川麻呂に合図を送った。
しかし。
極限の恐怖で視野が5ミリほどになっている石川麻呂には、鎌足のジェスチャーがまったく別のものに見えていた。
(な、中臣殿……首を掻いて……目をひん剥いている……。ま、まさか……『猿の真似をして場を和ませろ』という指示か!?)
完全なるミスコミュニケーションである。
石川麻呂は、滝のような汗を振り乱しながら、突如として大極殿の中心で奇声を上げた。
「ウホッ! ウホホホホッ!!」
「……は?」
入鹿が、呆気を取られて固まった。
「キーッ! 三韓からの使者は、猿にございましたァ! 私は猿! 私は哀れな猿にございますゥゥ!」
石川麻呂は、両腕をブラブラさせながら、大極殿の床を四つん這いで飛び跳ね始めた。
国家の最高儀式の場で、中堅官僚が突如として猿のモノマネを始めるという、前代未聞の大事故である。
「…………」
入鹿は、冷たい氷のような目で、猿の真似をして泣き叫ぶ石川麻呂を見下ろした。
そして、深く、重いため息をついた。
「下らぬ茶番だ。……石川麻呂。貴様の背後に誰がいるのかは知らんが、俺を謀ろうとした罪、万死に値するぞ」
入鹿が、ゆっくりと右手を挙げた。
外で待機しているであろう、五十人の屈強な私兵を呼び寄せる合図である。
「来い! 逆賊どもを捕らえよ!」
入鹿の怒号が大極殿を震わせた。
しかし。
外からは、雨音以外、何の返答もなかった。
「……何?」
入鹿の眉がピクリと動いた。
「兵ども! 何をしておる! 早く参れ!」
再度叫ぶが、大極殿の扉が開く気配はない。
それもそのはずである。この儀式をでっち上げた鎌足は、事前に朝廷の門番たちに「本日は神聖なる儀式ゆえ、何人たりとも門を通してはならぬ。入鹿様の護衛であっても例外ではない」という『偽の天皇勅令』を回布していたのだ。
文書の偽造において、今の日本で中臣鎌足の右に出る者はいない。
「……なるほど。周到に準備をしたというわけか」
自分の護衛が動けないことを悟った入鹿は、しかし、まったく慌てる素振りを見せなかった。
彼は、自らの豪華な装束の袖をバサリと翻し、柱の陰に向かって一歩、足を踏み出した。
「ならば、俺が自ら貴様らの首を捻り潰してやろう。隠れていないで出てこい、ネズミども」
ドスン、と。
丸腰の入鹿が一歩踏み出しただけで、大極殿の空気が物理的に重くなったように感じられた。
彼は、服の下に唐製の鎖帷子を着込んでいる。並の刀では傷一つつけられない、歩く重戦車である。
「ひぃぃぃッ! 来る! 殺されるゥゥ!」
柱の陰で、二人の刺客が泡を吹いて気絶寸前になっていた。
(万事休す……! これが、朝廷を支配する男の真の力……!)
鎌足は、詰んだことを悟り、静かに目を閉じた。
自分の首が刎ねられる瞬間の痛みを想像し、せめて一息で殺してくれと神仏に祈った。
その時である。
「あーあ。なんだよ、全然面白くないじゃん」
大極殿の静寂を切り裂く、場違いなほどに間延びした、明るい声。
御簾の向こうで菓子を食っていた中大兄皇子が、パラパラと指先についた粉を払いながら、ゆっくりと立ち上がった。
「皇子様……?」
鎌足が目を見開く。
「刺客がビビって動かないわ、進行役が猿になるわ。……お前らさあ、せっかくの私が企画した『入鹿討伐プロジェクト』を、こんな泥仕合のクソ茶番にしてくれて、どう落とし前つけてくれるわけ?」
皇子の声は、相変わらず爽やかなトーンであった。
しかし、その瞳の奥には、先ほどまでの無邪気な光は一切なく、底なしの暗黒よりも深い、純粋で無機質な『殺意』が渦巻いていた。
「入鹿。お前もだ」
「何……?」
入鹿が、初めて怪訝な表情を浮かべた。
「丸腰のくせに、威圧感だけで勝った気になってるんじゃないよ。護衛がいなけりゃ、お前ただの着ぶくれしたおっさんだろうが」
皇子は、腰に下げていた太刀の柄に、スッと手をかけた。
その瞬間。
中大兄皇子の全身から放たれた殺気は、入鹿のそれを遥かに凌駕する、常軌を逸したサイコパスのそれであった。
「……誰もやらないなら、仕方ない」
チャキン、と。
大極殿に、美しく、そして冷酷な刃が抜かれる音が響いた。
「刮目せよ、鎌足」
中大兄皇子が、狂気の笑みを浮かべたまま、御簾を蹴破って空中に跳躍した。
乙巳の変、真の開戦。
それは、計算し尽くされた暗殺計画などではなく、狂ったトップの癇癪による、史上最も血生臭い物理戦の幕開けであった。




