第17話 乙巳の変
飛鳥の中枢、大極殿。
国家の命運を決する神聖なる儀式の場は、今や混沌のるつぼと化していた。
極度の緊張で脳がバグり、四つん這いで「ウホッ! ウキィッ!」と謎の猿の真似を続ける中堅官僚・石川麻呂。
恐怖のあまり小太刀を放り出し、柱の裏で泣き叫ぶ外注の刺客二人。
そして、そのすべてを冷酷な瞳で見下ろす、絶対権力者・蘇我入鹿。
完璧だったはずの『蘇我入鹿・暗殺プロジェクト』は、誰の目から見ても破綻していた。
しかし、このプロジェクトの最高責任者である中大兄皇子には、「計画の破綻」という概念が存在しなかった。
なぜなら彼は、過程や根回しなどどうでもよく、ただ「入鹿の死」さえ手に入れば手段を選ばない、生粋のサイコパスだったからである。
「誰もやらないなら、仕方ない」
爽やかな笑顔に、純度百パーセントの殺意を乗せて。
中大兄皇子は、御簾を蹴破り、抜き放った太刀を上段に構え、大極殿の空中を舞った。
「死ねッ! 入鹿ァァァッ!」
それは、皇族としての雅さなど微塵もない、ただの野生の獣のような跳躍であった。
柱の陰で絶望していた中臣鎌足は、その光景をスローモーションのように見つめていた。
(バ、バカな……! 組織のトップが、自ら最前線に突撃するなど、危機管理の観点からあり得ない! もし返り討ちに遭えば、我々は全員ただのテロリストとして歴史に名を……!)
鎌足の魂のツッコミを置き去りにして、皇子の白刃が、入鹿の首元めがけて一直線に振り下ろされた。
決まった。誰もがそう思った。
しかし。
ガァァァァァンッ!!!
大極殿に響き渡ったのは、肉を斬る音ではなく、金属同士が激突する、凄まじい轟音であった。
「……なっ!?」
空中で、皇子の爽やかな笑顔が初めて驚愕に歪んだ。
「愚かな」
入鹿は、一歩も動いていなかった。
彼は皇子の太刀を避けることすらせず、自らの左肩から胸にかけての装束で、その一撃を直接受け止めていたのである。
斬り裂かれた高級な絹の衣の下から覗いたのは、鈍い光を放つ、唐製の頑強な『鎖帷子』であった。
「この俺が、いかに宮中の儀式とはいえ、無防備な状態でノコノコと歩き回ると思ったか? 世間知らずの小童め」
入鹿の手が、皇子の胸ぐらをガシッと掴んだ。
「ぐはッ……!」
「貴様らのような羽虫が飛び回っていることなど、とうにお見通しよ。帝の御前ゆえ太刀は置いてきたが、俺の肉体とこの鎧があれば、貴様らなど素手で捻り殺せるわ!」
入鹿は、掴んだ皇子の身体を、まるでボロ雑巾のように大極殿の床へと叩きつけた。
ドゴォォォンッ! という地響きとともに、皇子が床を転がる。
防御力がカンストしている重戦車。それが蘇我入鹿という男の真骨頂であった。
「ひぃぃぃッ! ほ、ほら見たことか! やっぱり勝てねえんすよォ!」
柱の裏で、刺客の佐伯子麻呂が失禁寸前になっていた。
(終わった……! 奇襲が失敗した上に、ダメージゼロ! 皇子様が殺される!)
鎌足は、自らの首に冷たい刃が当てられたような錯覚を覚え、絶望に目を閉じた。
しかし、床に叩きつけられた中大兄皇子は、ゴホッ、と血混じりの咳を一つ吐くと、フラフラと立ち上がった。
そして。
「……あーあ。刃がこぼれちゃったじゃないか」
皇子は、刃こぼれした自分の太刀を、忌々《いまいま》しげに見つめた。
次の瞬間、彼はその最高級の太刀を、躊躇なくポイッと床に放り捨てたのである。
「皇子様!?」
鎌足が思わず叫ぶ。武器を捨てるなど、降伏宣言に等しい。
「鎧ね。なるほどね。……ズルじゃん、それ」
皇子は、口元の血を手の甲で拭いながら、ニィッと笑った。
その笑顔は、もはや「爽やかな青年」のそれではなかった。路地裏で喧嘩を始める、たちの悪いチンピラの顔である。
「斬れないなら、やり方を変えようか」
言うが早いか、皇子は丸腰のまま、地を這うような低い姿勢で入鹿の懐へと飛び込んだ。
そして、鎖帷子の覆われていない入鹿の『顔面』めがけて、容赦のない頭突きをぶちかましたのである。
ゴギャッ!!
「ぐおっ!?」
さしもの入鹿も、顔面の中心への鈍的打撃には耐えられず、鼻血を噴き出して大きくよろめいた。
そこへ皇子が、チンピラ丸出しの蹴り、膝蹴り、そしてマウントポジションからのタコ殴りという、皇族としての威厳ゼロのラッシュを浴びせ始めた。
「死ねッ! 死ねッ! 邪魔なんだよお前ェ!」
「この……狂人めッ! 離れろッ!」
大極殿の中心で、国家の最高実力者と次期天皇候補が、泥まみれの取っ組み合いの喧嘩を繰り広げている。
髪を掴み合い、顔面を殴り合い、床を転げ回る二人。
御簾の向こうで震えていた帝(皇極天皇)は、あまりの光景に耐えきれず、「わ、私は奥へ下がります!」と叫んで逃げ出してしまった。
(な、なんだこの歴史的クーデターは……! クソダサすぎる……ッ!)
柱の裏の鎌足は、プロジェクトのあまりの泥沼化に頭を抱えた。
しかし、見栄えなど気にしている場合ではない。
皇子の狂気のラッシュに押されているとはいえ、基礎体力と防具の差で、徐々に入鹿が力で押し返し始めていた。皇子の首に入鹿の太い腕が絡みつき、ギリギリと締め上げられている。
このままでは、トップが絞め殺される!
「お前ら! 行けェェェェェッ!!」
鎌足は、懐から「砂金が入った袋」を取り出し、柱の裏で震えている二人の刺客の鼻先に突きつけた。
「い、ひぃっ! な、中臣の旦那!?」
「これは、成功報酬の前払い分だ! だが、今ここで皇子様を見殺しにすれば、この金はおろか、お前らの命も一族も、明日にはこの世から消し飛ぶぞ!!」
鎌足は、夜叉のような形相で二人を怒鳴りつけた。
「剣が効かないなら、素手でいけ! プロジェクトが炎上しているんだ! お前らも火の粉を被って泥をすすれ! 金が欲しければ、今すぐあのタヌキオヤジを押さえ込めェェェッ!!」
究極のブラック労働の強要である。
しかし、目の前に突きつけられた黄金の輝きと、「やらなければ確実に殺される」という極限の恐怖が、ついに二人の刺客の脳内麻薬を爆発させた。
「うおおおおおッ! ボーナスゥゥゥゥッ!!」
佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が、ついに柱の裏から飛び出した。
彼らは手に持っていた小太刀を投げ捨てると、皇子を絞め殺そうとしている入鹿の背後から、ラグビーのタックルのように突っ込んだ。
「なっ!? 貴様ら、どこから……ッ!」
「金のためだァァァッ! 死んでくれ入鹿様ァァァッ!」
「ローンが残ってんだよォォォッ!」
子麻呂が入鹿の右腕にぶら下がり、網田が左足に食らいつく。
三対一のドッグファイト。もはや大極殿は、神聖な儀式の場ではなく、世紀末の無法地帯と化していた。
さらにそこに、予期せぬ伏兵が加わった。
極度のパニックで四つん這いになり、猿の真似を続けていた石川麻呂である。
彼は、目の前で繰り広げられる血みどろの乱闘から逃げようとして、床の汗で足を滑らせた。
「ウホォォォッ!?」
ズルッ! と滑った石川麻呂の巨体が、あろうことか、バランスを崩してよろめいていた入鹿の背中に、ボディアタックのような形で激突した。
「ぐふぅッ!?」
四人分の体重と、不意の衝撃。
さしもの重戦車・蘇我入鹿も、これには耐えきれず、前のめりに床へと倒れ込んだ。
「今だッ!」
皇子が、その一瞬の隙を見逃さなかった。
彼は、床に落ちていた子麻呂の小太刀を拾い上げると、入鹿の鎧の隙間――首の付け根の無防備な部分めがけて、全体重を乗せて刃を突き立てた。
ブスゥゥゥッ!!!
「ガ……ァ…………ッ!!」
入鹿の目が見開き、口から大量の血の泡が噴き出した。
致命傷である。
大極殿の空気が、ピタリと止まった。
雨音だけが響く中、入鹿は、自らの血で赤く染まる床の上に倒れ伏しながら、信じられないものを見る目で中大兄皇子を睨み上げた。
「……な、なぜだ……。私が……この俺が、何の罪を犯したというのだ……ッ!」
入鹿の喉から、血の混じった掠れた声が漏れた。
死の淵にあってもなお、彼の眼光は絶対権力者としての威厳を失っていなかった。
逃げ出した帝が座っていた、もぬけの殻の玉座に向かって、入鹿は手を伸ばして叫んだ。
「お答えください、帝よ! この入鹿、大和の国をまとめ上げ、富をもたらした! なのに、なぜこのような狂犬どもに命を奪われねばならぬのか! 私に……何の罪があるというのだァァァッ!!」
血を吐くような、痛切な叫びであった。
実際、強引な独裁者ではあったが、当時の国際情勢の中で強大な権力を持ったリーダーが必要であったことも事実である。
その悲痛な叫びを聞いて。
中大兄皇子は、顔にべっとりと返り血を浴び、息を荒げながらも……。
スッと立ち上がり、姿勢を正した。
そして、誰もいない玉座に向かって、信じられないほど通る、カリスマ性に満ちた声で、こう宣言したのである。
「帝よ! 恐れながら申し上げます!」
皇子は、ビシッと入鹿を指差した。
「この男、蘇我入鹿は、皇祖の血筋を絶やし、自らが帝に成り代わろうと企てた、国家の『逆賊』にございます! 私は、帝の御為、そしてこの国の安寧のために、この奸臣を討ち果たしたのにございます!!」
…………。
柱の陰で聞いていた鎌足は、口をポカンと開けた。
(嘘だ……ッ!)
鎌足は、内心で激しくツッコミを入れた。
(そんな証拠、どこにもない! こいつ、今、作り話を、さも真実かのように堂々と言い放ちやがった! 自分の暴行を正当化するための後付けの言い訳だ!!)
皇子のそのハッタリは、あまりにも堂々としており、絶対的な自信に満ち溢れていた。
歴史とは、勝者が作るものである。
大極殿の中心で、皇族である中大兄皇子が高らかに「こいつは逆賊だ」と宣言した瞬間。それは、動かしがたい『公式見解』となった。
「ば、バカな……。俺が、逆賊……だと……?」
入鹿は、その完璧なロジックのすり替えに、反論する気力すら奪われた。
力で国を支配しようとした絶対権力者は、さらに強引で、さらにサイコパスな若きカリスマの『ハッタリ』の前に、完全に敗北したのである。
「……見事だ……。狂犬……め……」
ガクッ、と。
蘇我入鹿の巨体が、ついに力なく崩れ落ちた。
飛鳥の朝廷に君臨した絶対的な独裁者は、泥まみれの乱闘と、理不尽極まりない大義名分の前に、その生涯を閉じたのである。
「ふぅーっ。あっぶねー。鎧着てるとか聞いてないよ、マジで」
皇子は、緊張の糸が切れたようにへらへらと笑いながら、血まみれの太刀を放り投げた。
そして、呆然として立ち尽くしている鎌足の方を振り返り、ニカッと爽やかに笑って言った。
「いやー、いい運動になった! やっぱり現場の仕事は汗をかいてナンボだな!」
「お、皇子、様……」
「さて鎌足。私は肉体労働をやったから、あとの事後処理はお前に任せたぞ!」
「……はい?」
「今の『入鹿は逆賊でした』って件、国中の豪族たちに納得させるための公式文書を作っといて! あと、入鹿の親父の蝦夷が報復してくる前に、軍隊の動員と法的正当性の確保もよろしく! 明日の朝イチまでにな!」
タタタッ、と。
皇子は「風呂入ってこよーっと!」と軽快な足取りで、血まみれの大極殿から去っていった。
あとに残されたのは、入鹿の死体と、気絶している刺客、猿の真似のまま固まっている石川麻呂。
そして。
「……明日の、朝イチ……?」
国家がひっくり返るほどのクーデターの事後処理。
そのすべてを、「明日の朝まで」という納期で丸投げされたプロジェクトマネージャー。
「……鬼だ……。あいつは、入鹿以上の、本当の悪鬼だァァァッ!!」
中臣鎌足の血を吐くような絶叫が、雨音に包まれた飛鳥の空に、虚しく響き渡るのだった。




