第18話 大化の改新
皇極天皇四年、六月十二日。
飛鳥の空を覆う暗雲の下、大極殿において蘇我入鹿が討たれた。
のちに「乙巳の変」と呼ばれるこの歴史的政変は、中大兄皇子という若き皇族の、常軌を逸した凶行とハッタリによって幕を閉じた。
だが、真の地獄はこれからであった。
「急げ! 各地の豪族たちへ遣いを走らせよ! 『入鹿は逆賊ゆえに討ち果たした。朝廷に弓引く意思にあらず』と、一刻も早く触れ書きを回すのだ!」
大極殿の惨劇から一夜明けた朝。
中臣鎌足は、一睡もできぬまま、血走った目で文官たちに指示を飛ばしていた。
絶対権力者であった入鹿を暗殺したとはいえ、蘇我氏の力は未だ健在である。飛鳥の都を見下ろす丘の上には、入鹿の父である蘇我蝦夷の堅牢な邸宅があり、そこには無数の私兵が立て籠もっているのだ。
もし蝦夷が「息子を殺された復讐」として兵を挙げれば、飛鳥は血の海となり、大極殿での凶行は単なる反乱として鎮圧されてしまう。
そうなる前に、法的な正当性を記した文書を国中にばら撒き、味方を集めなければならない。鎌足は、すり減った筆を握りしめ、木簡の山と格闘していた。
(早く……早くせねば……。皇子様は『事の収拾は任せたぞ』と丸投げして、優雅に朝寝坊を決め込んでおられる。私がやらねば、本当に一族皆殺しだ……!)
胃の激痛に耐えながら、鎌足が新たな墨をすろうとした、その時である。
「中臣殿ォォォッ!!」
見張りに立たせていた下級役人が、顔面を蒼白にして執務室に転がり込んできた。
「ど、どうした! 蝦夷が動いたか!? 兵を下ろしてきたか!」
「い、いえ! 兵は一歩も動きませぬ! ただ……燃えております!」
「燃えている……?」
「蝦夷様の御屋敷から、猛烈な火の手が! おそらく、蝦夷様ご自身で火を放たれたものかと!」
なんと。息子を殺され、大勢がすでに決したと悟った蘇我蝦夷は、抗戦を諦め、自邸に火を放って自刃を選んだのである。
それ自体は、クーデターを企てた鎌足たちにとって、これ以上ない朗報のはずであった。血を流さずして、最大の敵が自滅してくれたのだから。
「おお……! なんという僥倖。これで、我らの勝利は確実なものに……」
「しかし、中臣殿!」
役人は、絶望的な声を張り上げた。
「あの屋敷の宝物庫には……朝廷より預かった『天皇記』や『国記』をはじめとする、大和国の歴史書や、諸国の田畑の広さを記した重要な帳簿が、すべて収められておりますぞ!!」
…………。
パキン、と。
鎌足の手の中で、筆が真っ二つに折れた。
「……え?」
「ですから! この国の成り立ちから現在の税の記録まで、国家の根幹を成す重要な文書が、すべて蝦夷様の手によって灰にされようとしております!」
鎌足の全身から、スゥーッと血の気が引いた。
唐の律令制度を学んだ彼には、それがどれほどの絶望を意味するのか、痛いほど理解できた。
国を治めるには、法と記録が必要である。「誰が、どこに、どれだけの土地を持っているか」という記録がなければ、税を取り立てることも、国を動かすこともできない。
その、国家運営における「唯一の公式記録」が、今まさに焼却されようとしているのだ。
「ひ……控えは! 文官たちが書き写した控えの木簡は、朝廷の書庫に残っておらぬのか!?」
「すべて、先月入鹿様が『俺の屋敷に置いておく方が安全だ』と仰って、持ち去られました!」
公私混同が、ここに来て最悪の牙を剥いた。
「ああああああああああっ!!」
鎌足は、髻を振り乱して立ち上がった。
「水だ! 水桶を持て! 記録を……記録の束だけでも救い出さねば、この国は根底から立ち行かなくなるぞォォォッ!!」
鎌足は、半狂乱になって飛鳥の丘へと駆け出した。
燃え盛る蘇我の邸宅。天を焦がす猛火を前に、鎌足は顔を煤だらけにしながら、決死の覚悟で火の海に飛び込もうとした。
「中臣殿! 危険にございます!」
「放せ! あの炎の中には、先人たちが気の遠くなるような年月をかけて集めた、大和の国の記憶があるのだ! それが消えれば、我らは暗闇の中で国を治めねばならぬのだぞ!」
しかし、猛威を振るう炎は、無情にもすべてを焼き尽くしていった。
ようやく火が鎮まった焼け跡から、鎌足が拾い上げることができたのは、火の粉から奇跡的に焼け残った『国記』の、ほんの数枚の焦げた切れ端のみであった。
「終わった……」
黒焦げになった木簡の残骸を抱きしめ、鎌足は灰まみれの地面に膝をついた。
権力者の自暴自棄な嫌がらせによって、国家の記録はリセットされてしまった。
これより先、朝廷は「誰がどこの誰なのか」すら手探りで調べ直さねばならない。途方もない、果てしのない調査と書物の編纂作業が待っているのだ。
「……あーあ。もったいないことするなぁ、蝦夷のおっさんは」
ふと、背後からのんきな声が聞こえた。
振り返ると、そこには豪華な直垂を着込み、いかにも上機嫌な様子の中大兄皇子が立っていた。
「お、皇子様……。笑い事ではございませぬ。国の記録が灰燼に帰しました。これでは、新たな政を始めようにも、土台がございませぬ……」
「そう悲観するな、鎌足。古いものが燃えたなら、新しく作り直せばよいではないか」
皇子は、焼け野原を見渡しながら、爽やかな風に吹かれて両手を広げた。
「蘇我の専横は終わりを告げた! 本日この日より、元号を『大化』と定める! 大いなる変化の始まりだ!」
皇子の声が、飛鳥の丘に高らかに響き渡る。
「よく聞け鎌足! これより我が国は、唐の制度に倣い、大和の地のすべての領土と民を、帝の御手にお返しする! すなわち、『公地公民』である!」
それは、かつて鎌足が夢見た、法による公平な国家体制の宣言であった。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、鎌足の背筋に、氷のような悪寒が走った。
(公地……公民……? すべての土地と民を、朝廷の直接管理下に置く……?)
先ほどまでの鎌足は、それを理想の形だと信じていた。
だが、国家の記録がすべて燃え尽きた『今』、それを実行するということは、一体どういう意味を持つのか。
「おわかりか、鎌足」
皇子は、ニコリと笑って鎌足の肩に手を置いた。
「これより、この国のすべての田畑の広さを測り直し、すべての民の戸籍を調べ上げ、一から新たな帳簿を作り直すのだ。そして、その巨大な法と記録の体系を、お前の手で完成させるのだ」
…………。
鎌足は、息をするのも忘れて皇子を見上げた。
全国の土地の測量。全国民の戸籍調査。そして新たな律令の執筆。
それを、一から。
「私が……?」
「うむ! 私は頂に立って政の方針を決める。ゆえに、裏の泥臭い実務は、お前にすべて一任する! 頼んだぞ、私の無二の右腕よ!」
爽やかな笑顔とともに下された、文字通り「死ぬまで続く無限の労役」の宣告であった。
蘇我氏という暴君は消えた。
しかし、その代わりに誕生したのは、天皇を頂点とし、すべての権力と業務を中央に一点集中させる、かつてない超巨大な権力機構――すなわち、逃げ場のまったくない「底なしの泥沼のごとき朝廷」であった。
「……あ、あぐっ……」
鎌足は、懐に手を入れた。
極限のストレスで胃が千切れそうになり、あの苦い薬を求めようとした。
しかし。
(……ない)
竹筒の中は、空っぽであった。
昨日の大極殿の惨劇を乗り切るために、すべて飲み干してしまっていたのだ。
「フフ……アハハハハッ……!」
鎌足は、空の竹筒を握りしめ、天を仰いで力なく笑った。
終わりのない務め。途方もない木簡の山。
海を越えた先人たちが夢見た「進んだ国造り」の正体は、実務を担う者たちの血と汗を、最後の一滴まで絞り尽くす地獄の窯であったのだ。
***
それから、およそ二十余年の歳月が流れた。
時代は大化から白雉、そして天智へと移り変わっていた。
あの中大兄皇子は、ついに天智天皇として即位し、大和の国を強力な統率力でまとめ上げている。
そして。
「……ゴホッ、ゴホッ……」
近江の都、その一角にある静かな屋敷の奥で、中臣鎌足は、すっかり痩せ細り、病床に伏していた。
来る日も来る日も、朝から晩まで木簡の山と格闘し、豪族たちとの厄介な調整に奔走し、新たな法を書き上げ続けた日々。
彼の肉体は、文字通り「国家のために使い潰された」と言ってよかった。
死の床にある鎌足の元へ、一人の高貴な人物が見舞いに訪れていた。
天智天皇、その人である。
「鎌足よ。……見事な忠義であった」
天皇は、かつての爽やかな青年の面影を残しつつも、威厳に満ちた声で語りかけた。
「そなたの不眠不休の働きがあればこそ、我が朝廷は盤石のものとなった。その大いなる功績に報い、そなたに最高位である大織冠を授けよう。そして……これより後は、中臣ではなく『藤原』の姓を名乗るがよい」
藤原──。
それは、彼らが初めて出会った、あの法興寺の藤棚に由来する、天皇からの最大の賛辞であった。
「ははァ……。もったいなき、お言葉に……ございます……」
鎌足は、枯れ木のような手を震わせながら、深く頭を下げた。
天皇は満足げに頷き、「ゆっくり休むがよい」と言い残して去っていった。
その背中を見送りながら、鎌足は内心で(今更休めと言われても、もう寿命が尽きるわ……あの人使いの荒い暴君め……)と、最後の毒づきを零した。
部屋に、静寂が戻った。
鎌足の枕元には、一人の若者が正座していた。
鎌足の次男、藤原不比等である。
まだ若いが、その瞳の奥には、父譲りの並外れた知性と、どこか冷めたような鋭い観察眼が宿っていた。
「……不比等よ」
「はい、父上」
鎌足は、震える手を懐に入れ、一つの古い品を取り出した。
それは、すっかり黒ずみ、年季の入った「空の竹筒」であった。
かつて、遣唐使・犬上御田鍬から託された、あの胃薬の入れ物である。
「これを……お前に、託す」
「これは……?」
「我ら藤原の、魂の形だ」
鎌足は、息も絶え絶えになりながら、息子に語りかけた。
「よいか、不比等。我ら藤原は、決して国の頂に立ってはならぬ。頂に立つ者は、常に孤独と狂気に苛まれ、己の正しさを証明するために血を流す。あの、乙巳の変のようにな」
「……はい」
「我らの真の仕事は、その狂気の裏で、黙々と泥をすすり、苦い薬を噛み砕きながら……法という名の『網』を編み上げることだ」
鎌足の目に、かつて理想に燃えていた若き日の光が、微かに蘇った。
「頂に立つ者が誰であれ、法という網さえしっかりと握っていれば、国を実質的に動かすのは我らだ。表の栄華はくれてやれ。我らは、裏の実務を支配するのだ……」
「裏の実務を……支配する」
「そうだ。途方もない木簡の山に埋もれ、理不尽に耐え、胃を痛め続けろ。その苦痛の果てにのみ、藤原の永遠の栄華があるのだ……」
鎌足は、最後の力を振り絞って竹筒を不比等の手に握らせると、ガクン、と力を抜いた。
薄れゆく意識の中で、彼の脳裏に、かつて共に地獄を味わった者たちの顔が浮かんだ。
嵐の海でゲロを吐き散らした小野妹子や犬上御田鍬。極限の緊張で猿の真似をした石川麻呂。
皆、理不尽に耐え、もがき苦しんだ、愛すべき朝廷の歯車たちであった。
(……犬上先輩。ようやく、長い務めが……終わりましたよ……)
天智八年、冬。
大化の改新を裏で支え続けた不世出の実務家・藤原鎌足は、ここに静かに息を引き取った。
***
鎌足の死から、さらに時は流れ。
父から「空の竹筒」と「裏回しの哲学」を受け継いだ藤原不比等は、その教えを完璧に、いや、父以上に冷徹に実行に移した。
彼は決して表舞台の主役にはならず、しかし水面下で圧倒的な法体系の構築を進めた。
数多の政争や皇位継承の争いが起きる中、不比等はただ黙々と法を編み続け、ついに日本の国家体制の完成形たる『大宝律令』を成立させるのである。
そして和銅三年(西暦710年)。
大和の国に、かつての長安にも匹敵する、広大にして壮麗なる新たな都が誕生した。
朱塗りの柱が立ち並び、瓦屋根が陽光に輝く、威風堂々たる大帝都――「平城京」である。
その巨大な都の中枢で、藤原氏は揺るぎない権力を確立していた。
彼らは天皇と血縁を結び、摂政・関白として朝廷の実務を完全に掌握し、これから途方もない栄華の礎を築き上げることとなる。
華やかな宮廷絵巻の裏側。
教科書には決して記されない、泥水をすすり、己の顔面を殴ってハッタリをかまし、胃に穴を開けながらも木簡の山と格闘し続けた者たち。
理不尽なトップの無茶振りに耐え抜いた彼らの執念のバトンは、確かにこの平城京の美しい都へと結実したのである。
「あー、もう! なぜこの期の及んで遣唐使の予算が削られるのだ! 稟議の書き直しではないか! 胃が……胃が痛い……ッ!」
今日もまた、平城京のどこかの薄暗い執務室で。
新たな藤原の若者が、偉大なる先祖から受け継いだ苦い胃薬をボリボリと噛み砕いているのかもしれない。
(世直しはつらいよ編・完)
次回、「大仏づくりはつらいよ」──。




