第19話 無限遷都
時代は下り、奈良・天平の世。
平城京の広大な役所の一角で、空の竹筒を握りしめ、白目を剥きながら書類の山と格闘している男がいた。
現在の朝廷における実務の最高責任者、橘諸兄である。
大化の改新を裏で回した藤原鎌足の死後。その息子である藤原不比等は、朝廷の実務を独占し、絶対的な権力を誇る「藤原一族」という強固な重役陣を創り上げていた。
その不比等には、県犬養三千代という非常に優秀な後妻がいた。そして、三千代が不比等と再婚する前に産んでいた連れ子こそが、この橘諸兄である。
要するに諸兄は、絶対権力者・不比等の「義理の息子」という、朝廷において極めて微妙な立ち位置にいた。
不比等の死後、政は不比等の実の息子たち――藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が牛耳っていた。藤原の血を引いていない諸兄は、『自分はそこそこの役職で、義理の弟たちが必死に働くのをのんびり眺めていよう』と、権力闘争とは無縁の平和な中間管理職ライフを満喫するはずだった。
だが、現実は違った。
「足りぬ……。どう計算しても、租庸調(税金)の上がりが足りぬ……。このままでは、朝廷の蔵が底をついてしまうぞ……ッ!」
諸兄は、パチパチと算木を弾きながら、脂汗を滝のように流していた。
彼の役職は右大臣。事実上、この国の財政と政治のすべてを回すトップである。
なぜ、藤原氏でもない彼が急にトップに躍り出たのか。
それは数年前、日本全土を未曾有の恐怖に陥れた「天然痘」の大流行が原因であった。
この恐るべき疫病により、当時の朝廷を牛耳っていた藤原四兄弟が、なんと全員揃って病死してしまったのである。
『えっ? 藤原の重役たち、全員お隠れになった!? じゃあ明日から、誰がこの国の政を回すのだ!?』
『橘諸兄様! あなたしかおりませぬ! どうか、この未曾有の国難をお救いください!』
『私!? 嫌だ! 絶対に嫌だ! 蔵には米も金も残っていないではないか! 泥船の舵を私に握らせる気かァァッ!』
周囲の役人たちに泣きつかれ、逃げ道を塞がれた諸兄は、こうして「大赤字を抱えた泥船国家」の最高責任者に就任させられてしまった。
しかも、最悪なことは重なるものである。
疫病による混乱に加え、九州では藤原広嗣が反乱を起こし、全国各地で飢饉が発生。朝廷の財政は火の車どころか、すでに車輪が外れて崖から転げ落ちている最中であった。
「……ああっ、胃が痛い。誰だ、こんな大役を私に押し付けたのは……。先人たちが残したこの竹筒を舐めても、胃の痛みは一向に治まらんではないか……ッ」
諸兄が薄暗い執務室で現実逃避をしていると、バタバタバタッ! と慌ただしい足音が廊下に響いた。
「右大臣様ァァァッ!」
「どうした! またどこかで反乱か!? それとも大雨で橋が流されたか!」
「い、いえ! 帝がお呼びにございます! 至急、御所へ参られよと!」
帝。
すなわち、時の絶対君主・聖武天皇である。
諸兄の背筋に、氷のような悪寒が走った。
この聖武天皇という御方、大変に心優しく、民を思う気持ちは人一倍強い素晴らしい君主である。
……しかし。裏を返せば、それは「心が優しすぎて、些細なトラブルで極度にメンタルを病みやすい」ということであった。
国で何か悪いことが起きるたびに、「私の徳が足りないせいだ……」と思い悩み、周囲が度肝を抜くような『突発的な思いつき』で事態を解決しようとする、極めて厄介な癖をお持ちなのである。
「ま、まさか……また何か、途方もないことを思いつかれたのではあるまいな……」
諸兄は、嫌な予感に胃液を逆流させながら、大極殿へと向かった。
***
「諸兄よ。よくぞ参った」
御簾の向こうに座る聖武天皇の声は、どこか浮き足立っていた。
「はっ。帝におかれましては、本日はどのような御用件にございましょうか。もしや、諸国の飢饉に対する新たな救済の詔で……」
「うむ。実はな、私なりに色々と、この国の災厄を払う方法を考えておったのだ。疫病、反乱、飢饉……なぜこれほどまでに不吉なことが続くのかと」
「それは、まことに頭の痛い問題にございます」
「そこで、私は一つの結論に達したのだ」
帝は、パンッ! と扇子を叩いた。
「風水だ。この平城京は、どうも『気』の流れが悪い!」
「……はい?」
「都の場所が悪いから、疫病も流行るし反乱も起きるのだ。ならば答えは一つ! 今すぐ都を別の場所に移そうではないか!」
…………。
諸兄の思考が、停止した。
いま、この絶対君主はなんと言った?
都を、別の場所に移す?
「み、帝……? 恐れながら、都を移すとは、すなわち『遷都』ということでございますか?」
「いかにも! 山城国の恭仁(現在の京都府木津川市)あたりが良いと聞いておる。あそこなら空気も澄んでおるし、川のせせらぎに心も洗われるであろう。よし、明日からさっそく引っ越しの準備にかかれ!」
「お、お待ちくださァァァァァいッ!!」
諸兄は、御簾に突っ込む勢いで平伏し、絶叫した。
「遷都など、狂気の沙汰にございます! 都を移すとなれば、宮殿を新たに建て、何万人もの役人や民衆を大移動させねばなりませぬ! 莫大な費用と人手がかかるのです! 今の朝廷には、そんな余裕はどこにも……!」
「諸兄。そなたならできる。私はそなたの才を信じておるぞ」
「信じる方向性が違いますゥゥゥ! ない袖は振れませぬ! 不可能にございます!」
「すでに決めたことである。さあ、忙しくなるぞ!」
帝の言葉は、一切の悪意がない分、余計にタチが悪かった。
「みんなのために、環境を変えてリフレッシュしよう!」という、意識の高い思いつき。しかし、その実務を丸投げされる現場からすれば、阿鼻叫喚の始まりである。
こうして。
天平十二年(七四〇年)、聖武天皇の突発的な思いつきにより、平城京を放棄して「恭仁京」への遷都が強行されたのである。
諸兄の地獄が始まった。
「木材が足りぬ! 近隣の山から切り出せ! 駄獣(荷車を引く馬や牛)が足りぬなら、役人に荷車を引かせよ!」
連日連夜、泥まみれになりながら引越し作業を指揮する諸兄。
貴族たちは「なぜこんな田舎に……」「平城京の広大な屋敷が懐かしい」と泣き言を喚き散らし、そのクレーム処理もすべて諸兄の元へと集まってくる。
それでも、諸兄は己の血肉を削るような予算のやり繰りと采配で、なんとか恭仁京の形を整えつつあった。
(ふぅ……。なんとか、最低限の宮殿と役所は移せた。これで帝の御心も休まり、国政に集中していただけるだろう……)
諸兄が、未完成の恭仁京のぬかるんだ道を歩きながら、ようやく安堵の吐息を漏らした、わずか三年後のことであった。
「諸兄よ!」
聖武天皇が、またしても目をキラキラさせて諸兄を呼び出したのである。
「は、はい……。今度は、いかがなされましたか……?」
「実はな、この恭仁京に住んでみたのだが……どうも山に囲まれすぎていて、閉塞感があるのだ」
「……」
「それに、少し北の方にある近江国の紫香楽(現在の滋賀県甲賀市)という場所に行ってみたのだが、あそこは大変景色が良くてな! どうだ、次は紫香楽に都を移さないか!?」
「…………は?」
ブチッ。
諸兄の脳内で、何本かの太い血管が音を立ててちぎれた。
「帝……? この恭仁京すら、まだ宮殿の半分も完成しておりませぬぞ。莫大な借金をして木材を運ばせ、役人たちもようやく仮住まいに慣れてきたところです。それを……また移すと?」
「うむ! 常に新しい風を取り入れることが肝要であろう! さあ、荷造りだ!」
悪夢であった。
ここから、日本の歴史上類を見ない「無限お引越し編」が幕を開けたのである。
恭仁京から、わずか数年で紫香楽宮へ。
諸兄が血反吐を吐きながら紫香楽の山奥に宮殿を建てていると、今度は「やっぱり紫香楽は山火事とか地震が多くて怖い! 難波(大阪)に行こう!」と難波京へ。
荷物をまとめ、牛車を連ねて難波に到着し、「海風が心地よいですね……」と諸兄が遠い目をした翌月には、「うーん、やっぱり難波は潮風でベタベタするな。平城京に戻ろう!」と、まさかの元サヤ宣言。
「我らは……遊牧民か何かですかァァァァッ!!」
難波京から平城京へ戻る泥だらけの街道のど真ん中で、橘諸兄はついに天を仰いで慟哭した。
五年間の間に、三回もの遷都。
引っ越しを繰り返した結果、朝廷の財政は完全に崩壊し、役人たちは疲労困憊で全員がゾンビのような顔つきになっていた。
国を良くするための遷都が、逆に国を滅ぼしかけているという本末転倒。
「もうダメだ……。今度こそ、朝廷は破産する。私の首を括って、全財産を売り払っても、この負債は返しきれぬ……ッ!」
ボロボロになった平城京の執務室に戻った諸兄は、ついに遺書をしたためようと筆を握った。
「右大臣様ァァァッ!」
「ヒィッ!? ま、まさか、また帝がお呼びか!? 今度はどこだ!? 蝦夷か!? それとも海を越えて唐にでも引っ越すとおっしゃるのか!!」
「い、いえ! 引っ越しではありませぬ!」
役人の言葉に、諸兄はふぅっと胸を撫で下ろした。
引っ越しではない。ならば、まだ話は聞ける。いよいよ帝も、度重なる散財を反省し、堅実な農業政策や税の免除など、地に足の着いた国政に戻ろうとしておられるに違いない。
「そうか。すぐに向かおう。帝もようやく、正気を取り戻されたか」
諸兄は、少しだけ足取りを軽くして、大極殿へと向かった。
***
天平十五年(七四三年)。
この日、聖武天皇は、すべての高官たちを大極殿に集めていた。
その顔つきは、かつてないほどに真剣であり、ある種の神々しいまでの使命感に満ち溢れていた。
「皆の者。よく集まってくれた」
帝の厳かな声に、諸兄をはじめとする役人たちは平伏した。
「私はこれまで、国の安寧を願い、度重なる遷都を行ってきた。しかし、疫病も反乱も、収まってはおらぬ。私の徳が足りぬゆえであると、深く反省しておる」
「帝……」
諸兄は思わず涙ぐんだ。
あの思いつきばかりの帝が、ついに自らの非を認め、反省の弁を口にされている。これでようやく、平穏で堅実な政務の日々が戻ってくるのだ。
「そこで私は、仏の教えにすがることにした。我が国を鎮護し、すべての生きとし生けるものが共に栄えるための、究極の祈りの形を形にせねばならぬと!」
帝は、スッと立ち上がり、両手を天高く掲げた。その瞳は、スピリチュアルな光に魅入られていた。
「これより私は、『盧舎那仏』の巨大な金銅像を造立する詔を発する!」
「……え?」
諸兄は、間の抜けた声を出した。
「仏の像、にございますか? それはまた、立派な御心がけかと……。して、その仏像の大きさは、いかほどで……?」
「うむ! 国の威信をかけ、仏の広大無辺な慈悲を現すためである! 高さは十六丈(約十五メートル)! すべてを銅で鋳造し、表面には眩い黄金を塗るのだ!」
…………。
大極殿に、永遠とも思える静寂が落ちた。
「……じゅう、ろく、じょう?」
諸兄の頭の中で、猛烈な勢いで算盤が弾かれた。
高さ十五メートルの仏像。それをすべて銅で作る。
当時の一般的な仏像は、坐像なら大きくても三メートル。立像でも最大五メートル。坐像で十五メートルという規格外の質量を銅で埋めるとなれば、必要な銅の量は数十トン、いや数百トンに及ぶかもしれない。
さらに、それを溶かすための莫大な木炭、巨大な型を作るための土、そして、全身に塗るための『黄金』。
現在の日本のどこを探しても、それほどの銅や金は産出されていない。当然、労働力として動員される民衆の数は、十万、いや百万人に達するだろう。
「……み、帝。恐れながら」
諸兄の声は、すでに限界を迎えた弦のように震えていた。
「そのような巨大な仏像を造るなど、神話の御業にございます。必要な銅も金も、我が国中の鍋や釜を溶かしても足りませぬ。何より、それを造り上げるだけの予算など、先般のお引越しで消し飛んでおります。費用は……費用は、いかになさるおつもりで……?」
諸兄の血を吐くような問いかけに対し。
聖武天皇は、世界中のありとあらゆる悪意から最も遠い、純真無垢な笑顔で、こう答えた。
「心配するな諸兄! 予算がないなら、民衆から寄付を集めればよいのだ! みんなで一握りの土、一本の草でも持ち寄れば、必ずや大仏は完成する!」
狂気であった。
国家の最高権力者が、己の財布が空っぽであることを棚に上げ、「みんなで作ればタダでできるよね!」という、クラウドファンディングをブチ上げたのである。
「さあ諸兄! 大仏造立の責任者は、もちろんそなただ! 明日から、日本中の銅を集め、仏師たちをかき集めてくれ! 私は祈っているからな!」
タタタッ! と。
己の使命を果たしたと満足した帝は、足取りも軽く奥の御殿へと消えていった。
残された諸兄は。
懐から、もはや何の薬効もないただの空っぽの竹筒を取り出し、それを両手で天に掲げた。
「…………不可能だァァァァァァァァッ!!!」
橘諸兄の絶叫が、平城京の空にこだました。
疫病、反乱、無限の引っ越しの果てに突きつけられた、当時の最先端技術を無視した、史上最大の無茶振り。
日本中を巻き込む未曾有の巨大建設プロジェクト、「東大寺の大仏造立」という名の終わりのないデスマーチは、一人の男の胃の崩壊とともに、その狂気の産声を上げたのである。




