第20話 教祖降臨
「銅が……五十万斤(約三百トン)? 金が……一万両?」
平城京、右大臣の執務室。
橘諸兄は、目の前に広げられた和紙に書き込まれた数字を見て、そのまま静かに泡を吹いて倒れそうになった。
聖武天皇がぶち上げた、高さ十六丈(約十五メートル)の「盧舎那大仏」造立プロジェクト。
諸兄が配下の算術の達人たちを総動員して弾き出した見積もりは、当時の日本の国力を凌駕する、絶望的な桁数であった。
「木炭が五万石……。大仏を覆う大仏殿の建築資材たる木材は、山をいくつハゲ山にすれば足りるのだ……? しかも、これを組み上げるための労働力は……延べ二百万人!?」
諸兄は、自らの髪をかきむしった。
当時の日本の総人口が約五百万人から六百万人と言われている時代である。延べ人数とはいえ、国民の三分の一近くを動員しなければ完成しない計算だ。
しかも、度重なる疫病と反乱、そして帝の無限遷都のせいで、朝廷の金庫には蓄えがない。
「バカな……。不可能だ。日本中から銅の鏡や鍋釜を没収しても足りぬわ! ましてや、そんな重労働を強いる金も飯もないのだぞ! 民が過労で死に絶え、一揆が起きて国が滅ぶわァァァッ!」
諸兄は、たまらず大極殿へと駆け込んだ。
是が非でも、帝にこの無謀な計画を白紙撤回させねばならない。
***
「帝! 恐れながら申し上げます!」
諸兄は、御簾の向こうの聖武天皇に向かって、血の涙を流さんばかりの勢いで平伏した。
「大仏造立の見積もりが上がりました。……到底、我が朝廷の財力で賄えるものではございませぬ! 必要な銅も木材も、そして何より、山を動かすほどの『人手』が、決定的に足りませぬ!」
諸兄は、必死に算木と木簡を突きつけ、現実の厳しさを訴えた。
しかし。
聖武天皇は、その絶望的な数字を見ても、顔色一つ変えなかった。
むしろ、菩薩のような穏やかで慈愛に満ちた笑みを浮かべている。
「諸兄よ。案ずることはない。金や人が足りぬなら、皆で出し合えばよいのだ」
「……」
「私は詔にも記したであろう。『一握りの土、一本の草でも持ち寄り、共に仏を造らん』と。朝廷の力だけで造るのではない。大和の国に住むすべての民から、広く寄付と労力を募るのだ!」
……現代の言葉で言えば、国家事業の「クラウドファンディング化」宣言であった。
しかし、ビジネスマンたる諸兄の耳には、それは「予算ゼロだから、あとはお前がその辺の素人にボランティアさせて何とかしろ」という、丸投げにしか聞こえなかった。
「お、お待ちくださりませ! いかに帝の御言葉とはいえ、日々の飯を食うのにも苦労している民草が、無給で銅を掘り、重い木を運ぶなどあり得ませぬ! 誰も集まりませんし、無理に駆り出せば暴動が起きます!」
「うむ、確かに役人が命令しても、民は動くまいな」
帝は、あっさりと諸兄の懸念を肯定した。
「ゆえに! 民の心を一つに束ねる、特別な『導き手』を呼ぶことにした!」
「導き手、でございますか?」
「そうだ。かつて朝廷がその力を恐れ、弾圧してしまった男……。あの男の力を持てば、必ずや民は喜んで大仏造立に身を投じるであろう」
聖武天皇の言葉に、諸兄の背筋を冷たい汗が伝った。
朝廷が恐れ、弾圧した男。
そして、民衆の心を狂信的なまでに束ねる力を持つ者。
まさか。
「帝……! まさか、あの男を……『行基』を、宮中に呼び戻すとおっしゃるのですか!?」
***
行基。
それは、当時の朝廷の官僚たちにとって、最も厄介で、最も恐るべき男の名前であった。
仏教とは本来、国家の安寧を祈るためのものであり、国が許可した寺院でのみ修行が許される「国家公務員」のような存在であった。
しかし行基は、そのルール(僧尼令)を無視し、勝手に街中や農村へ飛び出しては、直接民衆に教えを説き始めたのである。
現代で言えば、「無許可でゲリラライブを繰り返し、圧倒的なカリスマ性で熱狂的なファンを数万人規模で獲得してしまった、最強のインフルエンサー」である。
行基が「ここに橋を架けよう」と言えば、数千人の民衆が無給で集まり、あっという間に橋が完成する。
「ため池を掘ろう」と言えば、一晩で広大な池が出現する。
その異常な動員力と民衆からの支持に恐怖した朝廷は、かつて行基を「国を惑わす妖僧」としてブラックリストに載せ、徹底的に弾圧・逮捕していたのだ。
その、国家権力を脅かしかねない危険人物を、大仏造立のアンバサダーとして公式にヘッドハンティングするというのである。
「なりませぬ! あの男に国の事業を任せるなど、毒を以て毒を制するようなもの! 民衆が行基を信奉しすぎれば、いずれ朝廷の威信すら揺るがしかねませぬ!」
諸兄は必死に諫めた。
しかし、聖武天皇はニコリと笑った。
「だが、諸兄よ。行基の力なしに、銅を集め、人を無給で動かす算段が、そなたにあるのか?」
「うぐっ……!」
論破である。
背に腹は代えられない。完全なる予算の枯渇が、諸兄から反論の余地を奪っていた。
こうして、かつての罪人であり、最強のフリーランス僧侶・行基が、国家の巨大プロジェクトに召喚されることとなったのである。
***
数日後。
平城京の郊外、広大な空き地に、すさまじい数の群衆が集まっていた。
農民、商人、職人、さらには豪族の端くれまで、身分を問わず、見渡す限りの人の波である。
その数、優に数万。
群衆の中心に設けられた高い壇上に、一人の老僧が静かに立っていた。
ボロボロの粗末な衣をまとい、手には一本の錫杖を持っているだけ。
しかし、その深い皺に刻まれた顔つきと、爛々《らんらん》と輝く眼光は、ただ立っているだけで周囲の空気を震わせるような、圧倒的な覇気を放っていた。
行基、その人である。
「……あれが、行基」
少し離れた安全な場所から、護衛に囲まれながら様子を窺っていた諸兄は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
(ただの薄汚い坊主ではないか。あんな老いぼれが、どうやってこの数万の民に、地獄の無給労働を納得させるというのだ。少しでも扱いを間違えれば、この群衆はたちまち暴徒と化すぞ……)
諸兄が冷や汗を流して見守る中、行基がゆっくりと口を開いた。
「皆の者よ」
行基の声は、決して大きくはなかった。
しかし、その深く響く声は、不思議と数万の群衆の隅々にまで浸透していくような、異様な説得力を持っていた。
ざわめいていた群衆が、一瞬にして水を打ったように静まり返る。
「帝が、巨大な仏を造ると仰られた。大和の国を覆う疫病を払い、生きとし生けるものが皆、安らかに暮らせる世を創るためにな」
行基は、群衆をゆっくりと見渡した。
「だが、朝廷の役人どもは言った。『金がない。銅がない。人手が足りない』とな」
ビクゥッ!
離れた場所で聞いていた諸兄の肩が大きく跳ね上がった。
(バ、バカッ! なぜ初手で朝廷の無能をバラす!? 群衆が暴動を起こすだろうが!)
しかし、行基の言葉は違った。
「私は、笑ってやった。仏を造るのに、なぜ金がいるのかと」
行基は、自らの胸をドンと叩いた。
「金や権力で造られた仏など、ただの飾り物だ! 我らを救う真の仏は、我ら自身の血と汗と、祈りで造り上げるものだ!」
群衆の空気が、ピリッと変わるのを感じた。
「お前たち! 病で子を失った悲しみを知っているか! 飢えで親を見送った苦しみを知っているか!」
「「「おおっ……!!」」」
「その悲しみを、土に練り込め! 苦しみを、炎で溶かして銅に流し込め! お前たちが運ぶ一本の薪が、一握りの土が、永遠に輝く仏の肉体となるのだ!」
行基は、錫杖を天高く突き上げた。
「これは、帝の仏ではない! 役人の仏でもない! 我ら泥にまみれた民衆の、我ら自身の『救い』を形にする戦いだ! 共に造ろうぞ! 生きた証を、刻み込もうぞ!!」
一瞬の静寂。
そして。
「うおおおおおおおおおおおおっ!!!」
空気を引き裂くような、数万人の大歓声が爆発した。
それは、もはや歓声というより、熱狂的な信仰と飢餓感が混じり合った、狂乱の咆哮であった。
「俺の鍬を使ってくれェ!」
「うちの鍋も、鏡も、全部溶かしてくれェェッ! 仏様の一部にしてくれェェッ!」
「おらぁ力だけはあるだ! 一生タダ働きでもいいから、土を運ばせてくだせェェッ!」
人々は涙を流しながら、自らの財産であるはずの農具や銅鏡を、行基の足元へと次々に投げ打ち始めた。
さらには、自ら進んで重労働を志願する者たちが、先を争うように名乗りを上げている。
給料など一銭も出ない。むしろ、自らの財産を差し出しているのだ。
現代の言葉で言えば、最強のインフルエンサーによる「熱狂的なオンラインサロン」あるいは「信者からの圧倒的な投げ銭と無償労働力の提供」である。
「…………」
諸兄は、目の前で繰り広げられる常軌を逸した光景に、全身の震えが止まらなかった。
「ば、化け物だ……」
朝廷が、税を少し上げるだけで暴動を起こす民衆たちが。
今は、自らの全財産を投げ出し、過労死確定の地獄の労働現場へと、歓喜の涙を流しながら笑顔で飛び込もうとしているのだ。
「これが……『宗教』の力……。法でも、金でも動かせなかった民衆を、たった一度の演説で、死をも恐れぬ狂信の働き蜂に変えてしまった……ッ!」
プロジェクトマネージャーとして、これほど頼もしい存在はない。
資金の調達の目処が立ち、労働力が無限に供給されることになったのだから。
しかし。
諸兄の背筋には、解決の安堵よりも、底知れぬ恐怖が這い上がっていた。
(この、熱狂の渦に巻き込まれた数百万の『素人の群れ』を。……一体誰が、現場で指揮・統率するというのだ……?)
ただでさえ、前代未聞の高さ十五メートルの巨大銅像の鋳造である。
高度な専門知識と、一糸乱れぬ連携が必要な超・精密作業の現場に。
「仏のために死んでもいい!」と目を血走らせた、何百万という素人のドカタ集団が押し寄せてくるのである。
「……現場の……総監督に任命した、国中公麻呂殿」
諸兄は、遠く離れた建設予定地(のちの東大寺)の方角を向き、そっと合掌した。
「どうか、生きて帰ってきてくれ……」
国家の財布は救われた。
しかし、その代償として、技術と熱狂が激突する『真の地獄の釜の蓋』が、今まさに開こうとしていた。
大仏造立プロジェクトは、資金調達フェーズを終え、いよいよ悲鳴と絶叫が飛び交う「灼熱の現場実装」へと突入していくのである。




