第8話 出張終了のお知らせ
出航の銅鑼が鳴り響き、犬上御田鍬を乗せた遣唐使船は、難波津から外海へと押し出された。
宛名が二重線で雑に訂正されただけの、世界一舐め腐った国書を懐に抱えながら。
行先が「隋」から「唐」という見知らぬ新興帝国にすり替わったという、絶望的な情報のアップデートを消化しきれぬまま。
「た、大使……! 俺たち、このまま未知の国に行くんですか!? 相手の皇帝の名前も顔も、法律すら分からないんですよ!?」
副使の薬師恵日が、甲板で半泣きになりながら犬上にすがりついてきた。
犬上自身も、内心では(今すぐ船から飛び降りて飛鳥に帰りてえ!)と叫び出したい気分だった。
しかし、ここで大使である自分がパニックを起こせば、使節団は空中分解、いや海上分解してしまう。
「狼狽するな、恵日!」
犬上は、震える膝を必死に伸ばし、顔に無理やり「頼れるリーダー」の仮面を貼り付けた。
「国が変わろうが、皇帝が変わろうが、我々のやるべきことは一つ! 大国の進んだ文化を学び、この日本を豊かな国にすることだ! 妹子先輩は、何の情報もない中であの恐ろしい煬帝と対峙し、見事に生還されたのだぞ! 先輩にできたことが、俺たちにできないはずがない!」
「た、大使……ッ!」
「それに、考えてもみろ。新しくできたばかりの国なら、きっと制度も未熟で、外交マナーもガバガバなはずだ! 案外、隋の時よりもチョロいかもしれんぞ!」
まったく根拠のないポジティブシンキングであったが、極度の緊張状態にあった乗組員たちには、そのハッタリが妙に刺さった。
「そ、そうですよね! 俺たちならやれますよね!」
「おお! 大使の言う通りだ! 見知らぬ唐とやらへ、日本の底力を見せつけてやろうぜ!」
若き留学生たちと水夫たちの目に、再び希望の光が宿る。
犬上はホッと胸を撫で下ろした。
(よし……! なんとか士気は保てた。あとはこのまま、気合いと根性で東シナ海を乗り越えるだけだ……!)
しかし。
彼らは忘れていた。
この船が、小野妹子を死の淵まで追いやった「デカい丸木に板を貼り付けただけのポンコツ棺桶」のマイナーチェンジ版に過ぎないということを。
***
出港から、わずか二日後。
「オロロロロロロォォォ……ッ!!」
「ひぃぃっ! 恵日殿がまた吐いたぞ! 誰か桶を!」
「もう桶はいっぱいです! うっ……それを見ていたら私も……オェェェッ!」
十数年前と一寸の狂いもない、デジャヴが船上で展開されていた。
外洋特有の、内臓を直接掻き回すような強烈なうねり。
スタビライザーも竜骨もなく、波の衝撃をダイレクトに受け止める平底船は、まるで巨大な洗濯機の中に放り込まれた木の葉のように揺れまくっていた。
「くそっ……! 先輩の記録には『波が少し荒かった』としか書かれていなかったのに……! こんなの、三半規管に対する無差別テロじゃないか……ッ!」
犬上は、甲板の柱にしがみつきながら、自らの胃から込み上げてくる酸っぱいものを必死に飲み込んでいた。
彼の懐にある小野妹子の記録は、後輩をビビらせないために、あえて地獄のグロ描写を大幅にカットした「美化バージョン」だったのである。
だが、真の絶望は船酔いではなかった。
ゴロゴロゴロ……ッ!!
空が、突如として墨汁をぶちまけたような漆黒に染まった。
季節外れの強烈な暴風雨、つまり台風である。
「た、大使! 風向きが急激に変わりました! 帆柱が保ちません!!」
「馬鹿野郎! 帆をたため! 風の力で船体が真っ二つにへし折れるぞ!!」
犬上の怒号も、狂れ狂う風の音にかき消される。
船は巨大な波に持ち上げられ、次の瞬間、奈落の底へと叩きつけられた。
バキィィィィンッ!!
「ああっ!? 帆柱がァァァッ!!」
乗組員の絶叫とともに、船の推進力を担うメインマストが無惨にへし折れ、海へと投げ出された。
「浸水しています! 吃水がどんどん下がってます! 沈みますゥゥゥ!」
「水を掻き出せ! 休むな! 死にたくなければ桶を持てェェェッ!」
犬上は、汚水と吐瀉物にまみれながら、必死に陣頭指揮を執った。
しかし、自然の猛威の前に、人間の気力など赤子同然であった。
巨大な波が甲板を洗い流し、貴重な食料の入った樽が次々と海へ浚われていく。
(終わった……俺たちの遣唐使、開始二日でゲームオーバーだ……)
犬上の意識は、船体に叩きつけられた衝撃とともに、暗い海の底へと沈んでいった。
***
「……し。……使……大使……!」
頬をピチャピチャと叩かれる感覚と、生温かい風の感触。
犬上は、呻き声を上げながらゆっくりと目を開けた。
「……ここは……」
視界に入ってきたのは、突き抜けるような青空と、白い砂浜だった。
その上に、砂と海藻にまみれた副使の恵日が、顔をグシャグシャにして泣きながら覆いかぶさっていた。
「大使! ああ、神よ仏よ! 大使が目を覚まされた!」
「え、恵日……俺たちは……生きて……」
「はい! 生きてます! 船は波に飲まれましたが、奇跡的にどこかの陸地に漂着したのです!」
犬上は、よろよろと上体を起こした。
周囲には、同じように砂浜に打ち上げられた乗組員たちが、咳き込みながらも生存を喜んで抱き合っている。
少し離れた浅瀬には、帆柱が折れ、ボロボロになったポンコツ船が横たわっていた。
「陸地……そうか! 暴風に飛ばされはしたが、我々は海を渡り切ったのだな!」
犬上の顔に、歓喜の色が浮かんだ。
「見ろ、この美しい砂浜を! 温暖な気候! ここはきっと、唐の南部の港町に違いない! 暴風雨のおかげで、逆にショートカットできたんだ!」
「やりましたね大使! 俺たち大帝国に辿り着いたんですよ!」
二人が感動の涙を流し、固く握手を交わした、その時である。
「おーい。おめぇら、そこで何やってんだべ?」
背後の松林の中から、一人の初老の男が歩いてきた。
粗末な麻の服を着て、手には大量のワカメをぶら下げている。どう見ても地元の漁師だった。
「おお! 唐の民よ! 我々は海を越えてやってきた、倭国の使節団であ……」
犬上が、覚えたての漢語で威風堂々と挨拶をしようとした瞬間。
「なんや、おめぇら。船がひっくり返ってしもたんか? せっかくのええ着物が台無しやんけ。怪我はねぇべか?」
…………。
あまりにも流暢な、というか、コテコテの摂津(現在の大阪・兵庫あたり)の訛りだった。
犬上と恵日は、見開いた目をそのまま固定し、首だけをギギギと漁師の方へ向けた。
「……えっと。おっちゃん、ここ、どこですか?」
「はぁ? 何寝惚けてんねん。ここは播磨(現在の兵庫県南西部)の海やがな。おめぇら、難波津から出てすぐ時化に巻き込まれて、逆戻りしてきたんだべさ?」
漁師の言葉が、犬上の脳髄にクリティカルヒットした。
「は、播磨ァァァァァッ!?」
つまり。
二日間ゲロを吐き続け、嵐の中で死にかけ、マストをへし折られて命からがら漂着したここは。
見知らぬ大帝国・唐などではない。
「瀬戸内海から、一歩も出とらんやないかァァァァァッ!!」
犬上の絶叫が、のどかな日本の海に虚しく響き渡った。
***
絶望。
その言葉すら生ぬるいほどの、茫然自失。
砂浜に座り込んだ遣唐使一行の周囲には、お通夜のような重苦しい空気が漂っていた。
被害状況は、控えめに言って「壊滅的」であった。
船は帆柱が折れ、船底にも浸水によるダメージがある。
さらに最悪なことに、積み込んでいた干し飯などの保存食は、その大半が海水に浸かって腐敗の危機にあった。
予算も、支度金も、すでにこの船と荷物に全振りしている。追加の予算など下りるはずもない。
「……大使」
恵日が、生気を失った瞳で、ぽつりと呟いた。
「もう……やめましょう」
「……」
「これは、啓示です。未知の『唐』なんていう国には行くなという、仏様のお導きなんですよ。帆も折れました。飯もありません。これ以上航海を続けるなんて不可能です」
周囲の水夫たちも、無言で頷いている。
「都に帰りましょう。蘇我蝦夷様に、『大嵐に遭い、船が破壊されました。我々は命からがら逃げ帰るのが精一杯でした』と報告するのです。蝦夷様も、あんな適当な方ですから、『あー、マジで? しゃーないね、お疲れー』で許してくれますよ、きっと」
恵日の提案は、極めて常識的であり、生存を最優先に考えれば唯一の正解だった。
誰もが、この地獄の任務から解放されたがっていた。
犬上は、懐から取り出した国書を見つめた。
海水に濡れ、油紙の隙間から少しだけ水が染み込んでいる。
恐る恐る中を確認すると、蝦夷が適当に引いた「二重線」と「唐」の文字が、水でにじんでグシャグシャになり、さらに舐め腐った見た目に進化していた。
(こんなゴミ国書を持って、海を渡る……? 無理だ。どう考えても無理だ)
犬上の心も、折れかけていた。
「……そうだな。恵日の言う通りだ。これ以上の航海は、ただの自殺行為だ。都へ……帰ろう」
犬上が、敗北を認めて立ち上がろうとした、その時。
『伝説? そんな格好のいいものではない。ただ、胃液を吐き散らし、土下座をし、見栄を張り続けただけの生存戦略だった』
脳裏に、小野妹子のあの疲弊しきった顔がフラッシュバックした。
犬上は、ハッとして動きを止めた。
生存戦略。
そうだ。妹子先輩は、なぜあそこまでして、狂気とも言える見栄を張り、任務を遂行したのか?
(……蘇我馬子や推古天皇が、失敗を許すはずがなかったからだ……!)
犬上の全身の毛穴から、ブワッと冷や汗が噴き出した。
今の朝廷のトップは、蘇我蝦夷である。
一見すると適当で、チャラチャラしているように見える。
しかし、彼はあの冷酷無比な蘇我馬子の実の息子なのだ。
『あー、マジで? しゃーないね、お疲れー』で終わるはずがない。
もし今、おめおめと都に帰り、「船が壊れたのでやめました」と報告したらどうなるか?
『あー、船壊れちゃったの? ふーん。じゃあお前ら、もう用済みだから死刑で。一族郎党も全員ね。ポン、と』
(……殺されるッ!! 蝦夷様のあの適当さは、他人の命に対する無関心から来るサイコパスのそれだ!!)
犬上の眼球に、ビキビキと血走った毛細血管が浮かび上がった。
彼は懐から、妹子先輩に託された「激苦の胃薬」を取り出し、ボリボリボリッ! と尋常ではない音を立てて噛み砕いた。
「帰らんぞ」
「えっ?」
犬上は、恵日の胸ぐらをガシィッ! と掴み上げて、立ち上がった。
「帰らん! 絶対に都には帰らんぞォォォッ!!」
「た、大使!? 何を狂ったことを! 船はもうボロボロですよ!」
「船が壊れたなら直せばいいだろうが! 飯がないなら、そこら辺の草でも魚でも食って生き延びろ!」
犬上の目は、完全に「ブラック企業で限界を突破した中間管理職」のそれになっていた。
「いいかお前ら、よく聞けェェッ!」
犬上は、呆然とする乗組員たちに向かって、血を吐くような叱咤を飛ばした。
「都に帰れば、待っているのは蝦夷様による容赦のない処刑だ! 『努力しました』なんて言い訳は、あのブラック朝廷では一ミリも通用せんのだ! 我々は、歯車だ! 壊れた歯車は、炉に放り込まれて溶かされる運命にある!」
「ひぃぃっ!?」
「だが、海を渡ればどうだ! 未知の帝国・唐! 相手の皇帝が暴君かもしれないし、このふざけた国書を見せて斬首されるかもしれない! しかし!」
犬上は、天を指差して咆哮した。
「唐に行けば、生存確率は『ゼロ』ではないッ! 僅かでも生き残る可能性があるなら、我々は海を渡るしかないのだ! それが、遣唐使に課せられた、絶対の宿命なのだァァァッ!!」
あまりの狂気に満ちた演説に、恵日も水夫たちも、恐怖でガタガタと震え上がった。
彼らは理解した。
目の前のリーダーは、嵐よりも恐ろしい「朝廷の闇」に精神を支配されているのだと。
「ほら動けェッ! そこの山から木を切り出してこい! 藤蔓で結んで、マストの代わりにしろ! 帆が破れているなら、お前らの服を脱いで縫い合わせろォッ!」
「は、はいぃぃぃッ!!」
犬上の狂気の号令のもと、使節団はまるで何かに憑かれたように動き始めた。
***
数日後。
播磨の港から、一隻の異様な船が出航しようとしていた。
折れたマストの代わりには、山から切り出した不格好な丸太が藤蔓でぐるぐる巻きに固定されている。
帆は、留学生たちが着ていた高級な絹の服をパッチワークのように縫い合わせた、異様にカラフルで貧乏くさい代物だった。
乗組員たちは皆、服を失い、半裸のような姿で泥と海水にまみれている。
それはもはや、国家を代表する使節団ではなく、どこからどう見ても「難破した海賊の生き残り」であった。
しかし、彼らの目からは、出航当時の「お坊ちゃん」のような甘さは消え失せていた。
あるのはただ一つ。
「何が何でも海を渡り、任務をこなして、絶対に生きて帰る」という、不退転の狂気だけである。
「風向き、よしッ!」
犬上が、舳先に立ち、ボロボロの服を風になびかせながら叫んだ。
「これより我々は、地獄の海を越え、未知の帝国・唐へと突撃する! 合言葉は!」
「「「命を燃やせ! ボーナス毟り取るぞォォォッ!!」」」
悲壮すぎる社畜たちの雄叫びとともに、パッチワークの帆が風を孕んだ。
小野妹子から受け継がれた「生存本能」は、ここに極まった。
史上最悪のコンディションと、史上最悪の国書を抱えた第一回遣唐使は、瀬戸内海からやり直すというハンデを背負いながら、再び荒狂う東シナ海へと漕ぎ出していったのである。




