第7話 国が滅んでる件
教科書に太字で刻まれることになる爆弾国書を小野妹子が隋に叩きつけてから、十数年の歳月が流れていた。
激動の飛鳥時代。
日本初の女性天皇として君臨した推古天皇はすでに崩御し、絶対的な権力で朝廷を牛耳っていた蘇我馬子も、天才的な頭脳と常軌を逸した適当さで妹子を振り回した聖徳太子も、相次いで薨去していた。
時代は移り変わり、現在のトップは舒明天皇。そして朝廷の実権は、馬子の息子である蘇我蝦夷へと引き継がれていた。
かつて、小野妹子から「次は、君の番だ」と謎の胃薬を託された若手官僚・犬上御田鍬は、今や中堅官僚として朝廷の中枢で働いていた。
犬上は、極めて真面目で熱血漢な男である。
彼の心の中には、常に偉大なる「小野妹子先輩」の背中があった。
(荒狂う海を越え、野蛮な未開国だと思われていた我が国を、超大国・隋と対等な立場にまで引き上げた伝説の外交官……! 俺もいつか、先輩のように歴史に名を残す男になりたい!)
そんな熱い志を抱きながら、日々の地味な書類仕事に追われていた犬上に、ついに運命の辞令が下ったのである。
「犬上よ。そなたを、新たな使節団の大使に任命する。海を渡り、大国・隋へと赴くのだ」
朝堂院の広間で、蘇我蝦夷から直々に下された命令。
犬上は、全身の血が沸騰するような歓喜を覚え、畳に額を擦りつける勢いで平伏した。
「ははァァァッ!! この犬上御田鍬、粉骨砕身、我が国の威信にかけて、必ずや立派に大役を果たしてご覧に入れますッ!」
「うむ、頼もしいな。妹子の時は色々あったらしいが、まあ今回は、向こうの皇帝とも顔見知りみたいなもんだろ。適当に挨拶して、進んだ文化とか仏教の経典とか、適当にパクって……いや、学んで持ち帰ってちょ」
蝦夷の言葉は、父親の馬子や聖徳太子から見事に受け継がれた「適当さ」に満ちていたが、熱血漢の犬上はそんなことには微塵も気付かなかった。
「お任せください! 妹子先輩が切り開いた国交の道、この私がさらに強固なものにしてまいります!」
「おう、いってらー」
こうして、犬上御田鍬を大使とする、十数年ぶりの大規模な遣外使節団の派遣が決定したのである。
***
数ヶ月後。
難波津の港には、出航の時を待つ外洋船が係留されていた。
「素晴らしい……! これが、我が国の粋を集めた最新鋭の船か!」
犬上は、感動に打ち震えながら船体を見上げた。
しかし、その実態は十数年前に妹子が乗せられた「デカい丸木に板を貼り付けただけのポンコツ棺桶」と大差なかった。多少サイズアップし、板の継ぎ目がややマシになった程度である。
だが、純粋な犬上は「先輩はこの船で荒波を乗り越えたのだ!」と勝手に胸を熱くしていた。
「大使! 荷物の積み込み、すべて完了いたしました!」
副使として同行する薬師恵日が、元気よく報告に走ってくる。彼もまた、大国への憧れに目を輝かせる若者であった。
「よし! 天候も良好、風向きも申し分ない! 皆の者、いよいよ我が国が再び国際舞台へと躍り出る時が来たぞ! 妹子先輩が繋いだ隋との絆を、我々の手でさらに太く……」
犬上が、甲板の上で感動的な演説をぶち上げようとした、まさにその時だった。
「お、お待ちくだされェェェェェッ!!」
港の入り口の方から、尋常ではない悲鳴を上げながら、一人の男が猛烈な勢いで走ってきた。
身なりからして、新羅との交易を終えて帰還したばかりの商人である。
「な、なんだ? 出航の神聖な儀式の最中だぞ!」
「大使! 大変でございます! たった今、半島からの最新情報が飛び込んでまいりまして!」
「最新情報? なんだ、隋の皇帝・煬帝が我々の到着を首を長くして待っているとでも言うのか? ハッハッハ!」
犬上が爽やかに笑うと、商人は顔面を土気色にして首を横に振った。
「そ、それが……! 隋は……滅亡しました!!」
…………は?
港にいた全員の動きが、ピタッと止まった。
カモメの鳴き声と、波の音だけが空虚に響き渡る。
犬上は、自分の耳に飛び込んできた言葉を脳内で反芻したが、まったく意味が理解できなかった。
「……えっ? 滅亡? いやいや、冗談キツイぞ。あんな超大国が、滅びるわけないだろう?」
「ホントです! マジで滅んでます! あの暴君だった煬帝が、数年前に部下に暗殺されまして! その後、国中が大乱世になって、各地で反乱軍がドンパチやり合いまして!」
「あ、暗殺ゥゥ!?」
犬上の目が限界まで見開かれた。
「じゃあ今は大陸はどうなってるんだ!? 無政府状態か!?」
「いえ、数年前に李淵という将軍が覇権を握りまして、新たに『唐』という国を建国したそうです! 今はその息子の李世民(太宗)っていう人が、二代目の皇帝としてゴリゴリに国をまとめている真っ最中だとか!」
唐。
李世民。
まったく聞いたこともない単語のオンパレードに、犬上の脳髄はショート寸前だった。
「と、唐……? 国が変わっとるやないかい!!」
犬上は、思わず甲板に膝をついた。
無理もない。彼らは今日までずっと「隋に行く」つもりで、隋の政治体制を学び、隋の皇帝に渡すための国書をしたためてきたのだ。
「ま、待て待て待て! 国が変わったということは、相手の皇帝も別人で、国のルールも法律も全部リセットされてるってことか!?」
「そういうことになりますね! というか、そもそも『倭国? 何それ美味しいの?』状態かもしれません! 隋の時代の外交記録なんて、戦火で全部燃えてる可能性大ですし!」
商人の無慈悲な追い打ちに、副使の薬師恵日が半泣きになって犬上の肩を揺さぶった。
「た、大使ィ! どうしますか!? 我々が持って行く国書の宛名、バッチリ『大隋国皇帝陛下』って書いてありますよ!?」
「あかん! そんなもん新しい唐の皇帝に渡したら、『は? 喧嘩売ってんの?』って即行で首斬られるわ!」
犬上はパニックに陥りながら、懐から厳重に包まれた国書を取り出した。
最高級の和紙に、流麗な筆致で書かれた外交文書。
そこには間違いなく、滅亡したはずの国の名前が記されている。
「だ、ダメだ! 一回ストップ! 出航は延期だ! 朝廷に戻って、蘇我蝦夷様に国書の書き直しを……いや、そもそも唐という国の情報を集め直すところからやり直さないと!」
犬上が船を降りようと踵を返した、まさにその瞬間だった。
港の奥から、豪華な輿に乗った蘇我蝦夷が、大勢の供回りを連れて悠然と現れたのである。
「おう犬上。まだ出航してなかったのか? 潮待ちか?」
「え、蝦夷様ァァァッ!! ちょうど良かったです! 大変なことになりました! 我々が向かうはずの隋が、すでに滅亡しているという情報が入りまして!」
犬上は、血相を変えて蝦夷の輿にすがりついた。
「新たに『唐』という国ができているそうです! 我々の事前情報は何一つ役に立ちません! 相手の皇帝の性格も、宮廷のマナーも、何もかも不明です! どうか、出航を一度取りやめ、調査団を……!」
「ああ、それね。俺もさっき聞いたわ」
蝦夷は、小指で鼻をほじりながら、極めて適当なトーンで答えた。
「は?」
「いやー、びっくりだよねー。あの超大国が滅んでるなんてさ。まあでも、大陸にデカい国があることには変わりないっしょ? 唐だろうが隋だろうが、行けばなんとかなるって」
「な、なんとかなるわけないでしょうが!!」
犬上は、主君に対する礼儀も忘れて絶叫した。
「国書の宛名が『隋』になってるんですよ!? こんなの渡したら外交問題どころか、使節団全員が問答無用で処刑されます!」
「え? 宛名? あー、じゃあちょっと貸して」
蝦夷は、犬上の手からひったくるように国書を取り上げると、懐から筆と墨壺を取り出した。
そして。
シャッ、シャッ。
「えっ」
犬上の目の前で、信じられない光景が繰り広げられた。
蝦夷は、国家の最重要機密文書である国書の『隋』という文字の上に、筆で無造作に二重線を引いたのである。
さらに、その横にグシャグシャッとした字で『唐』と書き加えた。
「はい、これでオッケー。宛名変更完了。あ、一応、訂正印押しとくわ。ポン、と」
「…………」
「ほら、これで問題ないっしょ。相手も『あー、出発前でバタバタしてたのね』って察してくれるって。じゃあ風もいい感じだし、さっさと出港しちゃって! いってらー!」
蝦夷は、二重線を引かれただけの国書を犬上の胸に押し付けると、さっさと輿の御簾を下ろしてしまった。
「ちょっ……蝦夷様!? 正気ですか!? こんな公文書偽造みたいな国書、一国の皇帝に見せられるわけ……!!」
犬上の悲痛な叫びをかき消すように、容赦のない出航の銅鑼が、ジャァァァーン! と港に鳴り響いた。
「大使! 風が帆をはらみました! もはや船は止められません!」
水夫たちが、無情にも係留ロープを解いていく。船はゆっくりと、しかし確実に、岸から離れ始めた。
「待て! 止まれ! 俺はまだ心の準備が……情報のアップデートが……ッ!!」
犬上が甲板でじたばたと暴れるが、無慈悲な潮の流れはポンコツ外洋船を外海へと押し流していく。
岸壁では、蘇我蝦夷が適当に手を振っているのが見えた。
事前情報、ゼロ。
相手の皇帝の性格、不明。
持っているのは、二重線で宛名が訂正された、世界一舐め腐った国書のみ。
これから向かうのは、見知らぬ「唐」という名の未知の帝国。
「終わった……俺たちの外交、始まる前に終わったァァァッ!!」
絶望のあまり、甲板の上に大の字に倒れ込んだ犬上。
彼の脳裏に、かつて小野妹子が遠い目をしながら語った言葉が蘇った。
『伝説? そんな格好のいいものではない。ただ、胃液を吐き散らし、土下座をし、見栄を張り続けただけの生存戦略だった』
「……先輩……」
犬上は震える手で、妹子から受け取った、色褪せた竹筒を取り出した。
中には、当時妹子が常用していた、強烈な苦味を放つ漢方の胃薬が入っている。
「先輩が、俺にこの胃薬を託した意味……今、痛いほどわかりました……ッ!」
犬上は、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら、その胃薬をボリボリと音を立てて噛み砕いた。
激烈な苦味が口いっぱいに広がる。
しかし、これから待ち受けるであろう地獄に比べれば、こんな苦味など甘露に等しかった。
「やってやる……! 相手が隋だろうが唐だろうが関係ねえ! 妹子先輩の教え通り、土下座とハッタリで、這いつくばってでも生きて帰ってやるァァァッ!!」
犬上の血を吐くような咆哮が、東シナ海の風に吸い込まれていく。
のちに日本と唐の間に正式な国交を結び、歴史に名を残すことになる「第一回遣唐使」。
その出航は、壮大なロマンとは程遠い、行き当たりばったりとヤケクソと胃痛に満ちた、最悪のスタートを切ったのである。




