第6話 呪いの胃薬、次世代へ
大帝国・隋の視察官である裴世清を伴い、小野妹子の一行はついに都、飛鳥へと辿り着いた。
道中、妹子の胃痛は限界を突破していた。
長安の壮麗な石畳と高層建築を見慣れた裴世清の目に、この飛鳥の風景がどう映るか。土が剥き出しの道、質素な板葺きや茅葺の平屋。どう贔屓目に見ても「大都会」という事前のハッタリは通用しない。
「おい、妹子よ」
牛車の上で、裴世清が扇で口元を覆いながら不機嫌そうに声をかけてきた。
「お前、以前私に『飛鳥は雲を突くような宮殿がある大都会だ』と言わなかったか? 私の目が悪くなったのか、それともこの牛車が道を間違えて辺境の村に迷い込んだのか、どちらだ?」
妹子は冷や汗を滝のように流しながら、揉み手で答えた。
「我が国の真の『美』は、物質的な大きさではなく、自然との調和にあるのです! ほら、あの山の稜線と建物の屋根の角度が完全に一致しているでしょう? これぞ究極の環境調和型都市なのです!」
「またお前の国の謎の哲学か。まったく、言い訳だけは達者な男だ」
裴世清は鼻で笑ったが、それ以上は追及してこなかった。
船上での「侘び寂びという名の粗食」体験や、道中での妹子の必死すぎる接待の甲斐あってか、彼の中では「倭国=物質的には貧しいが、精神的には謎に意識が高い国」という絶妙に面倒くさい評価が定着しつつあった。
***
一行が案内されたのは、当時の政治の中枢、小墾田宮である。
謁見の間には、推古天皇が御簾の向こうに鎮座し、その傍らには朝廷の最大権力者である蘇我馬子、そして最高頭脳・厩戸皇子(聖徳太子)が控えていた。
「大隋の使者、裴世清。我が国の王に、偉大なる皇帝陛下からの御言葉をお伝えする」
裴世清は、恭しく、しかしどこか見下したような態度で進み出た。
(フン。どうせ辺境の猿の王だ。私の洗練された立ち振る舞いと、流暢な漢語の発音に圧倒されて、言葉も出まい)
そう高を括っていた裴世清の思惑は、次の瞬間に粉々に粉砕された。
「おお! ようこそ遠いところから! 待ってたよー!」
御簾の前に進み出た厩戸皇子が、満面の笑みで裴世清に語りかけた。
しかも、その言葉は完璧な、いや、長安の宮廷エリートすら舌を巻くほどに洗練された、超早口の漢語であった。
「いやあ、隋の最新の律令制度とか仏教哲学について、めっちゃ聞きたいことあったんだよね! あ、その前に君の服の刺繍、江南地方の最新トレンドだよね? センスいいね! あ、そこの稟議書はハンコ押しといて。で、裴世清クンさ、『老子』の第三章についての新しい解釈なんだけど、君はどう思う? 僕はね、今、『法華経』の注釈書を書いてるんだけど、隋の仏教界における最新の解釈ってどうなってるの? 大乗仏教の『一切皆成』の概念って、論理的には破綻してないかな? あとさ、うちも『冠位十二階』って新しい人事制度を導入したんだけど、才能ベースの成果主義でいく場合、評価軸の設定が難しくてさ。それと隋の『科挙』って、結局ただの暗記ゲーになってない? 既得権益の打破には繋がってる? あ、馬子サン、顔が怖いので、もうちょい口角上げて笑顔でお願いします。スマイルスマイル! 裴世清クンが怖がっていますよ」
「は……? え……?」
裴世清は目を白黒させた。
野蛮な猿の国だと思っていたのに、目の前の若い皇族は、自分よりも遥かに高度な語彙を使いこなし、しかも役人から同時に上がってくる報告書を捌きながら、裴世清と対等以上の会話を成立させているのだ。
圧倒的。
超絶的なマルチタスクと、当時の東アジア最先端の法学・宗教学を、まるでカフェで雑談するかのようにまくし立てる底なしの知識量。
裴世清のプライドは、この瞬間に瓦解した。
(ば、化け物だ……! この国、建物やインフラは原始的だが、トップの頭脳だけが突然変異的に進化している……! こんな国を本気で怒らせたら、将来どんな厄災を招くかわからんぞ……!)
裴世清は、顔面を蒼白にしながら、深く深く平伏した。
「ははぁっ! 我が皇帝陛下も、倭国の素晴らしい知性に感服されることでしょう!」
その様子を部屋の隅で見ていた妹子は、安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになった。
(勝った……! あの超絶適当上司の天才的頭脳が、初めて役に立った……!)
***
しかし、妹子の真の地獄はここからだった。
裴世清が賓客用の館へと案内され、謁見の間に身内だけが残された後。
推古天皇の冷ややかな声が、静まり返った部屋に響き渡った。
「で? 妹子。向こうの皇帝からの『お返事』は、どこにあるのかしら?」
その一言に、妹子の心臓は早鐘のように打ち鳴らされた。
来た。
絶対に回避不可能な、即死イベントである。
妹子は、自らボコボコに殴って作った額の傷と、片目の腫れを強調するように顔を上げ、滂沱の涙を流し始めた。
「も、申し訳ございません、天皇陛下……! 実は、筑紫の館に滞在していた夜、百済の刺客と思しき賊の襲撃に遭いまして……! 私めは命に代えてもお守りしようと、このように全身傷だらけになるまで死闘を繰り広げたのですが……多勢に無勢、大切な国書を奪われてしまったのです……ッ!」
妹子は、床に額を擦りつけ、嗚咽を漏らした。
(頼む……! 信じてくれ……! 『百済の奴らめ、許せん!』ってなってくれ……!)
しかし。
推古天皇の瞳は、絶対零度の氷のように冷たかった。
「……なくしたのね」
「ひぃっ……! い、いえ! なくしたのではなく、奪われ……!」
「結果は同じよ。国家の最重要機密を預かる特命大使が、それを敵国に奪われる。これほどの失態があるかしら」
推古天皇は、傍らの蘇我馬子を睥睨した。
「馬子。この役立たずの処分はどうなるの」
「はっ。使節としての重大な過失、ならびに国家の威信を失墜させた罪。本来なれば死罪、もしくは一族郎党の罷免。いかがいたしましょうか」
「……」
妹子は、恐怖でガチガチと歯の根を鳴らした。
(終わった……私の人生、終わった。さらば、美しい日本の山河よ……)
「死罪は免じてあげる。流罪になさい。どこか遠くの、辺鄙な土地へ流して頂戴。二度と私の顔を見せないで」
「御意」
冷酷無比な判決。
衛兵たちが近づき、妹子の両脇を抱え上げた。
「ああっ……! 天皇陛下! 太子様! どうか、どうかご慈悲を……!」
口ではそう叫びながらも。
引きずられていく妹子の胸中には、ある種の狂気じみた歓喜が渦巻いていた。
(……よっしゃああああっ!! 死罪回避ィィィッ!!)
流罪。つまり、左遷である。
政治の中枢からは追い出されるが、命はある。
そして何より、これでもう、あのパワハラ天皇の顔色を窺うことも、適当すぎる太子の無茶振りに応える必要もない。荒波に揉まれてゲロを吐くことも、暴君の機嫌を取るために寿命を縮めることもないのだ!
(流刑地で、のんびり農業でもして余生を過ごしてやる! さらばだブラック朝廷! 私の勝ちだ!!)
妹子は、衛兵に引きずられながら、心の内で歓喜のガッツポーズを決めた。
しかし。
彼のそのささやかな幸せの計画は、わずか一晩で粉砕されることになる。
***
翌日の昼下がり。
流刑地へ向かうための荷造りをウキウキで済ませていた妹子の元へ、厩戸皇子が護衛もつけずにフラリとやってきた。
「やっほー、妹子。元気ー?」
「……太子様? 私はこれから罪人として流される身ですが、何の御用で?」
「いやね、推古おばさん……天皇陛下と話してたんだけどさ。たしかに国書なくしたのはアレだけど、裴世清クン連れてきた功績って、冷静に考えたらめちゃくちゃデカくない? ってなってさ」
「……はい?」
妹子は、嫌な予感に全身の毛穴から変な汗を噴き出した。
「向こうの皇帝の直属の部下を、わざわざこの日本まで連れてきたんだよ? これって実質、外交の大勝利じゃん。国書なんて紙切れより、生きた人間連れてきた妹子の手腕、ヤバくない? って僕がプッシュしといたの」
「あ……あの……それは……」
「だからね、おめでとう! 恩赦決定! しかも、冠位十二階のトップ、『大徳』に昇進だよ!」
パンパカパーン! と、太子が口でファンファーレを鳴らした。
「……えっ」
「流刑はナシ! 明日からまた、バリバリ働いてもらうからね! あ、裴世清クン帰る時の見送りもよろしく! もちろん妹子も船に乗るんだよ! じゃ、期待してるよプロジェクトリーダー!」
嵐のように現れ、嵐のように去っていく天才上司。
残された妹子は、ポトリと荷造りの風呂敷を落とし、その場に真っ白に燃え尽きたようにへたり込んだ。
「……逃げられない……。このブラック企業からは、死ぬまで……逃げられない……ッ!」
小野妹子の慟哭が、飛鳥の空に虚しく響き渡った。
彼はこの後、休む間もなく裴世清の帰国に同行し、再び「遣隋使」としてあの地獄の海を渡る羽目になるのだが、それはまた別の話である。
***
それから、十数年の歳月が流れた。
推古天皇も、聖徳太子も、そして隋の煬帝もこの世を去り、時代は大きく移り変わろうとしていた。
激動の外交を乗り切り、すっかり老け込んでしまった小野妹子は、役所の縁側で夕陽を見つめながら、ボリボリと胃薬を噛み砕いていた。
「あ、小野先輩! お疲れ様です!」
元気いっぱいの声とともに現れたのは、最近入省してきたばかりの若手官僚。
名を、犬上御田鍬といった。
目をキラキラと輝かせ、希望に満ち溢れた、かつての留学生たちのような顔つきだ。
「先輩の武勇伝、いつも聞かせていただいてます! あの超大国・隋と対等に渡り合い、日本を国際社会にデビューさせた伝説の外交官! 俺も、先輩みたいな立派な使節になりたいです!」
熱く語る若者を見つめながら、妹子は虚無の瞳でゆっくりと瞬きをした。
伝説。武勇伝。
そんな格好のいいものではない。ただ、胃液を吐き散らし、土下座をし、自分の顔を殴って見栄を張り続けただけの、泥臭い生存戦略だった。
妹子は、懐から新しい胃薬の竹筒を取り出し、犬上の手に無言で握らせた。
「せ、先輩? これは……?」
「……大事に持っておけ。必ず、役に立つ日が来る」
妹子は、夕陽に向かって遠い目をしながら、ポツリと呟いた。
「次は、君の番だ……」
「えっ? 次、ですか?」
きょとんとする犬上の背中には、すでに新たな歴史の荒波が迫っていた。
そう、この直後。彼に「遣隋使」ならぬ、初の「遣唐使」という、先輩以上に理不尽で無茶苦茶な辞令が下ることを、若き日の彼はまだ知らない……。
(遣隋使はつらいよ編・完)




