第5話 自作自演の証拠隠滅
遣隋使一行と、隋の視察官・裴世清を乗せた船は、ついに倭国の地、筑紫(現在の福岡県)の港に到着した。
「ほぅ、ここが倭国か。なるほど、空気だけは澄んでいるようだな」
裴世清は、船から降り立つなり、扇で口元を覆いながら周囲を値踏みするように見回した。
港には、帰還した一行を出迎えるために現地の役人たちが集まっていたが、裴世清の目から見れば、彼らの服装も港の設備も、すべてが「田舎くさい」の一言に尽きる。
「ははっ、裴世清様! ここはまだ我が国の辺境に過ぎません! 都である飛鳥は、ここからさらに東へ進んだ先にございます。それまでの間、この筑紫の館で長旅の疲れを癒していただきとうございます!」
小野妹子は、揉み手で裴世清を案内しながら、必死に愛想笑いを振りまいていた。
(まずは第一関門突破……ッ! ここから飛鳥までの道中で、なんとかこのエリート官僚の目を誤魔化し通さねば……!)
妹子の頭の中は、いかにして「大都会・飛鳥(大嘘)」のショボさを隠蔽するかで一杯だった。道中のボロ屋は見えないように衝立を立てるか? いっそ、道中で目を回させて気絶させたまま飛鳥の宮殿(一番マシな建物)に直行させるか?
しかし、妹子には、見栄っ張りの接待計画よりも、はるかに深刻で、己の首を物理的に飛ばしかねない「特大の爆弾」を抱えていた。
それは、筑紫の館で一泊した、深夜のことである。
***
皆が寝静まった深夜。
妹子は、自室の行灯の微かな明かりの下で、正座していた。
目の前には、油紙で幾重にも厳重に包まれた、一本の木簡がある。
隋の皇帝・煬帝から預かった、倭王・推古天皇への返書。
いわば、今回の外交交渉の最終的な「結果報告書」である。
「…………」
妹子は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
通常、他国からの国書を勝手に開封するなど、使節としてあるまじき重罪である。
しかし、相手はあの暴君・煬帝。そして、手渡す相手は絶対君主・推古天皇と、天才にして狂人・聖徳太子。
この三人の間で板挟みになっている妹子にとって、「中身を知らずに提出する」などというギャンブルは、ロシアンルーレットの弾倉に六発すべて弾を込めて引き金を引くようなものだった。
「ごめん……ちょっとだけ。ちょっとだけだから……」
妹子は、震える手で封を解き、木簡を広げた。
そこには、流麗な漢文が記されていた。妹子は目を皿のようにして、薄暗い明かりの中でその文面を解読していく。
『皇帝、倭皇に問う――』
(ふむふむ……「皇帝が、倭の王に挨拶してやるよ」って感じか。まあ、上から目線なのは仕方ない。向こうは大帝国だからな)
『海を渡り、朝貢せしその忠誠、称賛に値する。使者を遣わし、そちの国を教化してやろう――』
(ん……? 朝貢……? 教化……?)
妹子の額から、タラリと冷や汗が流れた。
朝貢とは、属国が宗主国に対して貢物を持っていく行為である。
教化とは、未開の野蛮人を優れた文化で導いてやる、という意味である。
つまり、この国書の意図を現代語に直訳すると、こうなる。
【隋の皇帝様から、日本の田舎王へ。
わざわざ海を渡って、ウチの家来になりにきた態度は褒めてやるよ。
お前ら野蛮で可哀想だから、ウチの優秀な部下(裴世清)を派遣して、ちゃんとした人間のルールを教えてやるから、ありがたく思えよな。】
「…………」
妹子は、木簡をそっと閉じた。
そして、無言のまま頭を両手で抱え込み、行灯の光が届かない部屋の隅で、声にならない慟哭を上げた。
(死んだァァァァァァァッ!! 完全に終わったァァァァッ!!)
妹子の脳裏に、この国書を飛鳥の朝廷で読み上げた際のシミュレーション映像が、鮮明に浮かび上がった。
『はぁ? 家来? 教化してやる?』
御簾の向こうで、推古天皇の笑顔がスッと消える。
『あら、妹子。私がいつ、隋の属国になるって言ったかしら? これじゃあ、あなたが向こうで頼み込んで家来にしてもらってきたみたいじゃないの』
『ひぃぃっ! ち、違います! 向こうが勝手に……!』
『うるさいわね。使節の交渉ミスよ。馬子、こいつの首をはねて』
『御意』
蘇我馬子の太刀が一閃し、妹子の首が宙を舞う。
(ダメだ! 推古天皇に見せたら、外交失敗の責任を問われて100%殺される!!)
ならば、聖徳太子に見せたらどうなる?
『えーっ! あんなに「対等だよ!」ってカッコいい国書書いたのに、完全にスルーされてんじゃん! ムカつくー! よし、あんなふざけた手紙送ってくる国なんて、こっちから国交断絶だ! なんなら戦争だ!』
『お、お待ちください皇子! 我が国と隋では、戦力差が万倍以上……!』
『うるさーい! やられたらやり返す! 妹子、お前が最前線で突撃してね☆』
(こっちもダメだ! 国家が滅亡するか、最前線で肉盾にされて1000%殺される!!)
完璧な詰みである。
どう転んでも、この国書を朝廷に提出した瞬間に、小野妹子の人生はバッドエンドを迎える。
かといって、「もらえませんでした」では嘘がバレる。裴世清が「ちゃんと渡したぞ」と証言するからだ。
「……捨てるか」
妹子は、虚ろな瞳で呟いた。
「いや、単に捨てて『なくしました』じゃ、不敬罪でやっぱり斬首だ。誰かのせいにしなければ……。誰か……私がいくら抵抗しても勝てないような、外部の強い力のせいに……」
妹子の眼光が、狂気を帯びて光った。
「そうだ……百済だ」
百済。朝鮮半島に位置し、倭国と関係が深い国だが、時には外交的な駆け引きで対立することもある。彼らは隋と倭国が直接繋がることを快く思っていない。
「百済の輩が、隋と倭国の国交を妨害するために、国書を奪い去った!」
このロジックなら、筋が通る。朝廷も「百済め、許さん!」と怒りの矛先を外に向けてくれるはずだ。
「完璧だ……! しかし、ただ口で言うだけでは誰も信じない。激しい襲撃を受けたという、動かぬ『証拠』が必要だ……!」
妹子は立ち上がると、自らの着物の襟を力任せに引き裂いた。
ビリィッ! と音を立てて高級な絹が裂ける。
さらに、部屋の隅にあった火鉢を両手で持ち上げた。
「許せ、私の身体……これも生き残るためだ……ッ!」
ゴスッ!!
妹子は、自らの額に火鉢を思い切り叩きつけた。
「ぐっ……あぁぁっ……!」
痛い。めちゃくちゃ痛い。涙が出るほど痛い。
しかし、推古天皇に斬首される痛みに比べれば、こんなものは虫刺されに等しい。
妹子はさらに、自らの顔面を拳で殴りつけ、床に転がって着物を泥と埃で汚し、畳に爪を立てて激しい抵抗の痕跡を捏造し始めた。
「ハァ……ハァ……百済の賊め……ッ! 国書だけは、渡さんぞ……ッ!」
誰もいない深夜の部屋で、一人迫真の演技をしながら、己をボコボコに痛めつける中間管理職。
その姿は、あまりにも滑稽で、あまりにも悲哀に満ちていた。
最後に、問題の国書を部屋の隅にあった囲炉裏の灰の中に深く埋め込み、証拠隠滅を完了させる。
「よし……仕上がりは……完璧だ」
ボロボロになり、鼻血を流し、片目が腫れ上がった妹子は、鏡代わりの水盆に映る自分の顔を見て、満足げに笑った。
***
翌朝。
筑紫の館は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
「た、大変だァァァッ!! 小野大使が! 大使が何者かに襲われたぞ!!」
役人の悲鳴で跳ね起きた玄理と、隋の視察官・裴世清が、妹子の部屋へと駆けつけた。
そこで彼らが見たのは、無残に引き裂かれた着物姿で、顔面を血と痣だらけにして倒れている小野妹子の姿だった。
「た、大使! しっかりしてください! 一体何があったのですか!?」
玄理が泣きそうになりながら妹子を抱き起こす。
妹子は、薄く目を開け、かすれた声で言った。
「ぐっ……す、すまない……不覚だ……。昨夜、黒装束の賊が数名、忍び込んできたのだ……」
「賊だと!? 倭国は、使節の滞在する館の警備も満足にできんのか!」
裴世清が激怒して叫ぶ。
「彼らは……百済の言葉を話していた……。奴らの狙いは、煬帝陛下からお預かりした、大切な返書……ッ! 私は、命に代えてもお守りしようと、必死に抵抗したが……多勢に無勢。力及ばず、国書を……奪われてしまった……ッ!!」
妹子は、床をバンバンと叩きながら、号泣した。
「ああああっ! 申し訳ありません、推古天皇! 聖徳太子! そして裴世清様! この妹子、切腹して詫びるしか……うっ、痛っ!」
「た、大使……! なんて痛ましい……ご自身がボロボロになるまで、国書を守ろうとされたのですね……!」
純粋な若者である玄理は、妹子の迫真の演技に騙され、もらい泣きをしていた。
他の役人たちも「百済の奴らめ、許せん!」と怒りに震えている。
しかし、ただ一人。
隋のエリート官僚である裴世清だけは、冷ややかな目で部屋の状況を観察していた。
(……おかしいな。賊が複数で押し入って乱闘になった割には、障子も破れていないし、足跡もない。それに、この男の傷……どう見ても、自分で殴ったような不自然な痣ばかりではないか?)
中華の厳しい宮廷闘争を生き抜いてきた裴世清の猜疑心は、妹子の雑な偽装工作を見破りかけていた。
裴世清は、目を細めて妹子に問い詰める。
「おい。本当に百済の賊か? お前、実は皇帝陛下からの国書の内容を見て、自国の王に見せられなくなったから、隠したのではないだろうな?」
ギクゥッ!!
妹子の心臓が、早鐘のように鳴り始めた。
(こいつ……鋭い……ッ! さすがは大国のエリート官僚……!)
「な、何を仰いますか! 私が、そのような恐れ多いことをするはずが……ッ!」
「ふん。まあよい」
裴世清は、扇をパチンと閉じて冷たく笑った。
「私には関係のないことだ。国書を紛失したのはお前たちの失態であり、我が隋の瑕疵ではない。お前が自国の王にどう言い訳しようが、知ったことか。私はただ、この目で倭国の実態を視察し、皇帝陛下に報告するだけだ」
裴世清は、そう言って踵を返した。
「さあ、茶番は終わりだ。早く都とやらへ案内しろ。お前たちが国書をパクられた言い訳を、どう自国の王にするのか……見物させてもらうぞ」
(この野郎……完全に気付いてやがる……!)
妹子は、床に突っ伏したまま、ギリィッと歯を食いしばった。
自作自演の強盗事件で、国書の提出という「即死イベント」は回避した。
しかし、飛鳥での最終決算報告、そして裴世清への「見栄っ張り接待ツアー」の最終ラウンドが、刻一刻と迫っている。
「飛鳥への道中……何としてでも、この裴世清の目を誤魔化さねば……。胃が……胃が痛い……ッ!」
ボロボロの身体と、限界突破した胃腸を抱え、小野妹子の最後の戦いが始まろうとしていた。




