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中間管理職はつらいよ〜飛鳥から昭和まで、日本史全部やります〜  作者: てっぺい
神託はつらいよ

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第31話 パワハラ改名

 九州・宇佐八幡宮から平城京へ戻る帰路は、和気清麻呂《わけのきよまろ》にとって「死刑台へと向かう花道」以外の何物でもなかった。


「……ううっ、胃が……。私の胃壁はもうボロボロだ……」


 馬上で揺れるたび、清麻呂は枯れ果てた竹筒を逆さに振り、底にこびりついた胃薬の粉末を必死に舐め取っていた。


 九州から大和の国へ近づくにつれ、彼の寿命のロウソクは確実に短くなっていく。空はどんよりと曇り、冷たい秋風が彼の心と体を容赦なく冷やし続けていた。


(神様のガチ神託……『道鏡はNG。即刻排除せよ』。これをそのまま報告すれば、あの称徳天皇と、道鏡がどう出るか……想像するだけで失禁しそうだ)


 道中で逃げ出すことも考えた。

 だが、彼には平城京に置いてきた大切な家族がいる。姉の和気広虫《わけのひろむし》である。彼女もまた朝廷に仕える身であり、自分が逃亡すれば、姉にどんな残酷な報復が待っているかわからない。


(姉上……申し訳ありませぬ。弟は、官僚としての意地と、神とのコンプライアンス契約を守り通すため、玉砕いたします……ッ!)


 清麻呂は、泥だらけの顔を上げ、平城京の朱雀門《すざくもん》を血走った目で睨みつけた。


 もはや、覚悟を決めるしかない。

 ブラック企業に勤める一介の中間管理職が、会社の私物化を企むトップに引導を渡す。日本の歴史上、もっとも絶望的で勇気ある「決算報告」が、今始まろうとしていた。


 ***


 平城京、大極殿《だいごくでん》。

 そこは、この世のすべての権力と欲望が渦巻く、絢爛豪華《けんらんごうか》な巨大空間である。


 玉座には、今か今かと待ちわびていた称徳《しょうとく》天皇が、恋する乙女のような上気した顔で座っていた。


 そしてその御簾《みす》のすぐ外側には、もはや事実上の天皇であるかのように傲慢な態度でふんぞり返る、僧侶・道鏡の姿があった。


「おお! 清麻呂! よくぞ戻った! 大義であったぞ!」


 称徳天皇の声は、かつてないほどにウキウキと弾んでいた。


 彼女の脳内ではすでに、道鏡が天皇に即位し、二人が永遠の愛を誓い合うハッピーエンドのシナリオが完成しているのだ。


「さあ、早く申せ! 宇佐八幡の神は、道鏡が皇位に就くことを、いかに祝福してくださったのじゃ!? 早くその『回答』の書状を読み上げよ!」


 大極殿に控える数百人の貴族たちも、一斉に清麻呂へと注目した。


 道鏡は、清麻呂に向かって「わかってるよな?」という、不動明王も裸足で逃げ出すほどの鋭い殺意を込めたウインクを送ってきた。


 清麻呂は、大極殿の中央で深く、深く平伏した。大理石の床の冷たさが、彼の額から全身へと伝わっていく。


 ゴクリ、と。

 清麻呂は、乾ききった喉を鳴らし、肺いっぱいに大極殿の空気を吸い込んだ。


(さらば、我が人生よ……ッ!)


「……申し上げます」


 清麻呂の声は、微かな震えを含みながらも、大極殿の隅々にまで通るほどに澄み切っていた。


「宇佐八幡の神より、以下のご神託が下されました」


 称徳天皇が身を乗り出す。道鏡が口角を上げる。


「『我が国は開闢《かいびゃく》より以来《このかた》、君臣の分定まりぬ。臣を以て君となすこと、未だこれあらず!』」


 ……ん?

 称徳天皇の笑顔が、ピシッと固まった。


「『天つ日嗣《あまつひつぎ》には、必ず皇嗣《こうし》を立てよ!』」


 清麻呂は、もう誰の顔も見なかった。ただひたすらに、神の言葉を叫び続けた。


「『無道の者(道鏡)は、よろしく掃除すべしッ!!!』」


 …………。

 大極殿の空気が、一ミリの隙間もなく凍りついた。


 真空である。

 数百人の貴族たちが呼吸を忘れ、目玉が飛び出しそうなほど見開き、清麻呂を見つめていた。


 それは、「道鏡を皇位に就けるのは絶対NG」というだけでなく、「あんな無茶苦茶な奴は即刻排除しろ」という、神からの追放請求であった。


「……え?」


 称徳天皇が、間抜けな声を漏らした。

 彼女の脳の処理速度が、この絶望的な報告にまったく追いついていない。


「……て、てめェェェェェェェェッ!!!」


 大極殿の静寂を粉々に打ち砕いたのは、道鏡の怒号であった。


 道鏡は、僧侶としての偽りの仮面をかなぐり捨てた。美しい袈裟《けさ》を乱し、顔の血管をブチ切れさせながら、反社の素顔を剥き出しにして立ち上がったのだ。


「俺があれほど空気読めって言っただろうがァァァッ!! てめェ、俺の天下をブチ壊しやがったなァァァッ!!」


 ドスドスドスッ! と、道鏡は凄まじい足音を立てて清麻呂へと歩み寄り、その胸ぐらを両手でガシッと掴み上げて、空中に吊るし上げた。


「ひぃっ……! げほっ!」


「このクソ真面目野郎が! てめェのその減らず口、今すぐここで引き裂いて、内臓ぶち撒けてやるッ!」


「ど、道鏡様……! 私を殺しても、神の言葉は変わりませぬ……! 不正は、神が許さないのですゥゥッ!」


「うるせェェェッ! 神ごとぶっ殺してやるわァァァッ!」


 もはや仏の使いでも何でもない、ただの暴力団幹部である。


 その時。


「き……ききき……ッ!!」


 玉座の上で、称徳天皇がワナワナと全身を激しく震わせていた。


「きいいいいいいいいっ!! 許さんッ!! 許さんぞ清麻呂ォォォッ!!」


 女帝の、前代未聞のマジギレであった。

 彼女は、扇子をヘシ折り、冠を振り乱しながら、玉座から身を乗り出して絶叫した。


「わらわの道鏡の世界を汚すとは何事じゃ! そなたが嘘の報告をしているに決まっておる! 神が、わらわの愛する道鏡を『無道の者』などと呼ぶはずがない! この逆賊! 嘘つき! 汚物めがァァァッ!!」


 完全なる逆恨みである。

 自分の思い通りにならない結果はすべて「担当者の嘘」として処理する、典型的なワンマン社長の狂気。


「帝! 嘘ではございませぬ! 神は確かにそう仰られたのです! どうか、目を覚ましてくださいませ!」


 宙吊りにされながらも、清麻呂は必死に忠言を叫んだ。


「黙れ黙れ黙れェェェッ!!」


 称徳天皇は、手元にあった木簡、筆、硯《すずり》など、手当たり次第に清麻呂に向かって投げつけた。


 ガシャン! ゴツッ! と硯が清麻呂の額に命中し、血が滲《にじ》む。


「お前のような空気を読めぬ汚物は、もはや『和気清麻呂』などという立派な名前を名乗る資格はない! 名前を取り上げてやる!」


 ……は?

 清麻呂は、痛みを忘れて呆然とした。名前を取り上げる?


「今日からお前は、和気清麻呂ではない! 別部穢麻呂《わけべのきたなまろ》じゃ!!」


 …………。

 大極殿に、再び謎の沈黙が落ちた。


「……は?」


 清麻呂(穢麻呂)は、あまりのネーミングセンスのひどさに、絞め殺されそうになっていることも忘れてツッコミを入れてしまった。


「きたなまろ……? 『別部《わけべ》』は百歩譲ってよしとして、『穢麻呂《きたなまろ》』って……。帝、いくらなんでもそのお名前は、小学生の悪口レベルでは……」


「うるさーい! 汚いから穢麻呂じゃ! お前は心が汚れておるのだ! きたなまろ! きたなまろォ! ばーか! ばーかァ!」


 歴史に残る、最悪のネーミングハラスメントである。


 国のトップが、気に食わない部下の名前を「きたなまろ」に改名させて公式文書に記録させるなど、狂気の沙汰を通り越してギャグである。


「くそっ……! 私の尊厳が……先祖代々の名が……ッ!」


 清麻呂は屈辱に涙を流した。

 しかし、女社長の暴走はこれだけでは終わらなかった。


「そうだ! お前だけではない! お前の姉の広虫《ひろむし》! あの女も、日頃からわらわのやり方に小言ばかり言って鬱陶しかったのじゃ!」


「あ、姉上は関係ありません! どうか姉上だけは……ッ!」


「うるさい! 広虫だから態度がデカいんじゃ! 今日からあやつは、広虫ではない! 狭虫《さむし》に改名じゃ!!」


 ひろむし、だから、さむし。

 安直すぎる。もはや言葉遊びのレベルで、一族の人生を弄《もてあそ》んでいるのだ。


「姉弟揃って『きたなまろ』と『さむし』じゃ! 傑作よな! あーっはっはっは!」


 称徳天皇は、狂ったように高笑いを上げた。


「そして! きたなまろは大隅国《おおすみのくに》(現在の鹿児島県の果て)へ! さむしは備後国《びんごのくに》(現在の広島県)へ流罪とする! 二度と平城京の土を踏めると思うなァァァッ!!」


 左遷。しかも大隅国への配流《はいる》といえば、実質的な死刑宣告に等しい。


 道鏡が、ニタリと極悪な笑みを浮かべた。


「聞いたか、きたなまろォ。てめェは九州のド田舎に流されるんだよ。……まァ、大隅国まで無事に『生きて』辿り着ければの話だがなァ?」


 道鏡は、清麻呂を床に投げ捨て、その耳元でボソリと囁《ささや》いた。


「道中、せいぜい背後に気をつけるんだな。野犬はどこからでも噛み付いてくるぜ……」


 追い討ちの暗殺予告であった。


「衛兵! この汚物をさっさと大極殿からつまみ出せ!」


 称徳天皇の号令により、武装した衛兵たちがなだれ込み、清麻呂の両腕を乱暴に掴み上げた。


「はなせッ! 私は大和の国を……国を想って正論を言っただけだ! このままでは、朝廷は私物化され、国が滅ぶぞォォォッ!!」


 清麻呂の血を吐くような叫びは、称徳天皇の高笑いと、道鏡の冷ややかな嘲笑《ちょうしょう》によってかき消された。


「引きずり出せェッ! きたなまろを九州へ叩き出せェェェッ!」


 ズルズルと大極殿の床を引きずられながら、清麻呂(穢麻呂)は、自らの人生が終わったことを悟った。


(終わった……。すべてを失った……。名前も、地位も、家族も……。これが、ブラック朝廷でコンプライアンスを守ろうとした者の末路か……)


 秋の冷たい雨が、平城京の空から降り注ぎ始めていた。


 和気清麻呂、否、別部穢麻呂の絶望に満ちた大隅国への左遷旅が、今、暗殺者の足音とともに幕を開けようとしていた。


 だが、この不憫な中間管理職の運命は、まだ神仏に見捨てられてはいなかったのである。彼を救うことになる「意外すぎる助っ人」が、九州の山中で待ち構えていることを、この時の彼はまだ知る由もなかった。

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