第32話 獣の加護
別部穢麻呂。
かつて和気清麻呂と呼ばれ、朝廷の中枢で真面目に働いていた男は今、大隅国(現在の鹿児島県)へと向かう山道を、罪人用の粗末な駕籠に乗せられて揺られていた。
「姉上……。申し訳ありませぬ……。私のコンプライアンス意識が高すぎたばかりに、姉上まで『狭虫』などというダジャレネームに改名させられ、備後へ飛ばされることになってしまうとは……」
清麻呂(穢麻呂)は、手かせをはめられた両手で顔を覆い、ボロボロと涙をこぼした。
身分を剥奪され、極寒の秋風に吹かれる左遷の旅。だが、真の恐怖は、流罪という処罰そのものではなかった。
「……そろそろか。いつ来る……いつ、刺客が飛び出してくる……?」
清麻呂の目は、恐怖で血走っていた。
大極殿で別れ際に放たれた、道鏡の暗殺予告。
『道中、せいぜい背後に気をつけるんだな。野犬はどこからでも噛み付いてくるぜ……』
あの執念深い男が、自分をこのまま生かして大隅国まで送り届けるはずがない。絶対に、この山深い道中で「不慮の事故」に見せかけて殺しに来る。
ザッ、ザッ、ザッ……。
駕籠を担ぐ人足たちの足音が、不気味に響く。
その時。山道の先の茂みが、ガサリと大きく揺れた。
「ヒィッ!?」
「そこまでだ、きたなまろォ!!」
茂みから飛び出してきたのは、黒装束に身を包んだ、柄の悪い刺客の集団であった。手にはギラギラと光る凶刃が握られている。
「で、出たァァァッ! 道鏡の放ったヒットマンだァァァッ!」
清麻呂が絶叫すると同時に、駕籠を担いでいた人足たちは「俺たちは関係ねェ!」と駕籠を放り出して一目散に逃げ去ってしまった。
ドサッ! と泥の上に投げ出される駕籠。
「へへへ。道鏡様からの特命だ。てめェには、ここで死んでもらうぜェ」
リーダー格の刺客が、ニタニタと下劣な笑みを浮かべながら、小太刀をチラつかせて清麻呂に近づいてくる。
「ひぃぃっ! ま、待て! 私を殺しても一文の得にもならんぞ! 私はもう役人でもない、ただの『きたなまろ』だ!」
「うるせェ! 裏切り者は、地の果てまで追ってブチ殺すのがウチの掟なんだよ! 死ねェッ!」
刺客が凶刃を高く振り上げた。
(ここまでか……! こんな山奥で死ぬとは……ッ!)
清麻呂はギュッと目を閉じ、南無阿弥陀仏と最期の念仏を唱えた。
――その瞬間である。
ドドドドドドォォォォォォォォッ!!!!!
山全体が激しく揺れるような、凄まじい地鳴りが轟いた。
「な、なんだ!? 地震か!?」
刺客たちが刃を止めて周囲を見回す。
「ブモォォォォォォォォッ!!」
森の奥から、けたたましい獣の咆哮が響き渡った。
次の瞬間、木々をなぎ倒して飛び出してきたのは、なんと数百頭にも及ぶ「イノシシの大群」であった。
「な、なんだこのイノシシの群れはァァァッ!?」
刺客たちが悲鳴を上げる間も無く、怒り狂ったイノシシ軍団は、猪突猛進の言葉通り、一切のブレーキをかけずに刺客たちに突っ込んだ。
「ギャベェッ!」
「グハァッ! 骨が、骨が折れるゥゥッ!」
体重百キロを超える野生の弾丸。それが数百発。
道鏡が雇ったプロの刺客たちは、イノシシの圧倒的な質量の前に成す術もなく、次々と空高く跳ね飛ばされ、泥水に叩きつけられ、チリヂリになって山の中へ逃げ去っていった。
「…………え?」
駕籠の中で丸くなっていた清麻呂は、ポカンと口を開けた。
凄まじい砂煙が晴れた後、清麻呂の周囲には、数百頭のイノシシたちが、まるで彼を守る近衛兵のようにズラリと円陣を組んで並んでいたのである。
「ブフッ。ブヒィ」
イノシシの群れのリーダーと思しき、一際巨大な個体が、清麻呂に近づき、その鼻先で優しく清麻呂の頬を擦った。
「こ、これは……」
清麻呂の脳裏に、宇佐八幡宮の社殿がフラッシュバックした。
宇佐八幡宮において、イノシシは「神の使い」とされている。
「か、神様……! 神様が……! 私を守るために、直属の神使を派遣してくださったのか……ッ!」
清麻呂の目から、滝のような涙が溢れ出した。
監査役は、コンプライアンスを命懸けで守り抜いた社員を見捨てなかったのだ。
(※和気清麻呂と猪の伝説として、今も語り継がれる奇跡の史実である)
「ありがとうございます……ッ! 神様、イノシシさんたち……ッ!」
こうして、数百頭のイノシシに護衛されるという、日本の歴史上最もファンタジーで厳重なVIP警護を受けながら、清麻呂は暗殺者の牙から逃れ、無事に大隅国へと辿り着いたのである。
***
それから、数年の歳月が流れた。
大隅国の配流先で、清麻呂が細々と畑を耕しながら、「いつか平城京に帰れる日が来るのだろうか」と遠い空を見上げていたある日。
平城京から、天地をひっくり返すような超特大の急報が舞い込んだ。
『称徳天皇、崩御!』
「な、なんと……! 帝が……ッ!」
清麻呂は、持っていたクワを落とし、その場に平伏した。
女社長の、突然の病死。
それは同時に、朝廷のパワーバランスが根底から崩壊したことを意味していた。
最大のパトロンであり、絶対的な後ろ盾であった称徳天皇を失った瞬間。
道鏡の運命は、一瞬で暗転した。
彼を快く思っていなかった藤原氏を中心とする貴族たちが、ここぞとばかりに牙を剥いたのである。
「天皇の後ろ盾がない極道僧侶に、もう用はないわッ!」
「これまでの職権乱用、公私混同、すべての罪を償ってもらうぞ!」
あれほど我が物顔で大極殿を闊歩していた道鏡は、弁明の余地も与えられず、あっけなく逮捕された。そして、下野国(現在の栃木県)にある薬師寺の別当へと左遷されたのである。
大隅国に負けず劣らずの、関東の最果てへの「地方飛ばし」である。
「ふざけんじゃねェェェッ! 俺は法王だぞ! 天下を獲るはずだったんだァァァッ!」
道鏡の血を吐くような絶叫は、誰の耳にも届くことなく、東国の空に消えていった。
こうして、一人の僧侶が国家の乗っ取りを企てた前代未聞のクーデター未遂事件は、女社長の死とともに、あっけなく幕を閉じたのである。
そして。
新体制となった朝廷から、清麻呂の元に、一枚の辞令が届けられた。
『別部穢麻呂ならびに狭虫の流罪を解き、本位に復す。和気清麻呂、直ちに平城京へ帰還せよ』
「……終わった。終わったのだな、姉上……ッ」
清麻呂は、泥だらけの顔をくしゃくしゃにして泣き崩れた。
正義は勝った。神は正しい者を見捨てなかった。
忌まわしい「きたなまろ」の汚名はそそがれ、彼は再び「和気清麻呂」としての尊厳と地位を取り戻したのである。
「帰ろう。愛しき平城京へ。これからは、争いのない平和な朝廷で、静かに事務仕事に勤しむのだ……」
清麻呂は、輝かしい希望を胸に、平城京への帰路に就いた。
彼を待っているのは、感動のフィナーレと、心穏やかなホワイト官僚ライフのはずだった。
***
平城京、大極殿。
数年ぶりに踏む大理石の床の感触に、清麻呂は感無量であった。
「和気清麻呂、只今戻りましてございます……ッ!」
清麻呂が深々と平伏すると、玉座の上から、力強く、そしてやたらと覇気に満ちた足音が近づいてきた。
「おお、清麻呂! 戻ったか! 待っておったぞ!」
バンッ! と、清麻呂の肩を力強く叩いたのは、称徳天皇の跡を継いで新たに即位した君主――桓武天皇であった。
桓武天皇。天智天皇の血を引く、極めてエネルギッシュで、燃え盛る野心をその両目に宿した、ガチガチの武闘派君主である。
「帝! ご即位、誠におめでとうございます! この和気清麻呂、再び帝の御為、粉骨砕身働く所存にございます!」
「うむ! 良い返事だ! さっそくだが清麻呂よ、お前のような実務の天才にして、神仏にも愛された不屈の男に、是非とも頼みたい『特大プロジェクト』があるのだ!」
ビクゥッ。
清麻呂の胃袋が、数年ぶりに、キュッと嫌な音を立てて収縮した。
歴代の天皇が「特大プロジェクト」と口にする時、現場には常に血の雨が降る。それは遣唐使しかり、大仏造立しかりである。
「は、はあ……。特大プロジェクト、と申されますと……?」
清麻呂は、嫌な汗を流しながら恐る恐る尋ねた。
「実はな……」
桓武天皇は、急に忌々《いまいま》しげに顔をしかめた。
「最近、どうもこの平城京は『坊主どもがうるさすぎる』のだ」
「……はい?」
「いや、マジで! そこら中から木魚の音が聞こえ、ちょっと政治改革をしようとすれば、大寺院の生臭坊主どもが『伝統が〜』『仏罰が〜』と口出ししてきおる! あの道鏡の一件といい、政治と宗教が癒着しすぎなのだ! もうウンザリなのだ!」
要するに、「旧体制の口うるさいジジイどもから逃れるためオフィスを移転したい」という社長の私情であった。
「だから決めた! 今から『長岡京』って新しい都を造って、そっちに引っ越すぞ!」
「ふぁッ!?」
桓武天皇は、満面の笑みで、歴史を揺るがす爆弾発言を投下した。
「それに、平城京は水路の便が悪くて物流コストがかさむだろう? 桂川や淀川に近い長岡の地ならば、水運の拠点として最高なのだ! 経済的にも大勝利間違いなし! 古臭い坊主どもは平城京に置き去りにして、最高の新都を造るぞ!」
「お、お待ちくださりませ、帝!」
清麻呂は慌てて床に手をついた。
「遷都など……! かつて聖武天皇が引き起こした『引っ越し』の悪夢を忘れたのですか! 今の朝廷の金庫はスッカラカンです! 大仏造立と道鏡の無駄遣いのせいで、大赤字なのですぞ! 予算がどこにもありませぬ!」
「予算がないなら、今あるものを再利用すればよかろう!」
「再利用……?」
「平城京の建物を解体して、長岡まで運んで組み立て直すのだ! 究極のエコ工法であろう! 不足分は、適当に山から調達せい!」
…………。
平城京を解体し、パズルゲームのように移築する。民衆の無償労働を前提とした、終わりのない地獄のデスマーチの開幕宣言であった。
「さあ清麻呂! 新都・長岡京の『造宮大夫(建設副責任者)』として、明日から死ぬ気で働いてくれ! 期待しているぞ!!」
タタタッ! と。
新しいトップは、絶望の爆弾を丸投げするだけして、足取りも軽く奥の御殿へと去っていった。
「……………………」
大極殿の真ん中に、一人残された和気清麻呂。
彼は、震える手で懐に手を入れた。
そこには、九州から持ち帰った、あの黒ずんだ「竹筒」があった。
清麻呂は、竹筒のフタを開け、残っていた激苦の胃薬の丸薬を、すべて手のひらに出した。
そして。
「オオオオォォォォォォォォォッ!!!」
清麻呂は、胃薬を一気に口に放り込み、ボリボリボリッ! と狂ったように噛み砕きながら、大極殿の天井に向かって絶叫した。
「つらいよォォォォォォォォッ!!!」
清麻呂の血を吐くような絶叫が、新しい時代の幕開けを告げる空に、虚しくこだましていく。
ブラック朝廷の中間管理職に、安息の日々など永遠に訪れない。
日本の歴史は、理不尽なトップの無茶振りと、それに巻き込まれて胃薬をすする実務担当者たちの絶望によって、これからも延々と紡がれていくのである。
未知のトラブルが待ち受ける、長岡京遷都編。
和気清麻呂の新たな胃痛の物語が、今、絶望とともに幕を開けたのであった。
(神託はつらいよ編・完)
次回、「引っ越しはつらいよ」──。




