第30話 コンプラ重視の神様
奈良・平城京から九州の豊前国、宇佐八幡宮への道のり。
それは、新幹線も飛行機もない古代日本において、命を削る超過酷な「出張」であった。
和気清麻呂は、馬の背に揺られながら、泥だらけの街道を西へ西へと進んでいた。
雨に打たれ、風に吹かれ、時には山賊の影に怯えながらの数十日。現代のビジネスマンであれば、「交通費は全額経費で落ちるんですか?」「出張手当は?」「ていうかリモート会議で確認できませんか?」と人事部に泣きつくレベルのブラック出張である。
だが、清麻呂を苦しめているのは、肉体的な疲労ではなかった。
「……うっ、げほっ……」
馬上で揺れるたび、清麻呂の胃袋はギリギリと悲鳴を上げた。
彼の脳裏に焼き付いているのは、出発前夜、暗い廊下で極道コンサル・道鏡に食らった「壁ドン」の記憶である。
『てめェのその真面目腐ったツラ、二度と首の上に繋がってねェと思えよ』
純度百パーセントの殺害予告。
道鏡が次期天皇になることを、神様が「オッケー」と言ったという回答をもらってこなければ、自分の首が野犬の餌になる。
一方で、もし神様が「ダメだ」と言っているのに、嘘をついて「オッケーでした」と報告すれば、それはそれで神罰が下るか、後でバレた時に称徳天皇に殺される。
「どっちに転んでも死ぬじゃないか……! 私が何をしたというのだ。ただ毎日、真面目に木簡の整理をして、納期を守って生きてきただけなのに……ッ!」
清麻呂は、懐から例の「激苦の胃薬」が入った竹筒を取り出した。
フタを開け、黒ずんだ丸薬を三粒、手のひらに出す。道中、ストレスのあまり過剰摂取を繰り返しているせいで、すでに竹筒の底が見え始めていた。
ボリッ、ボリッ。
泥と雑草を煮詰めたような強烈な苦味が、疲労困憊の脳天を突き抜ける。
「苦い……。しかし、この苦味がなければ、私は狂って海に身を投げていただろう……」
清麻呂は、荷物袋の奥深くに隠してある、ズシリと重い桐の箱の感触を確かめた。
中には、なけなしの私財を叩き、親戚中から借金をしてまでかき集めた「極上の砂金」と「唐伝来の最高級反物」がギッシリと詰まっている。
(……やるしかない。相手が神様だろうが仏様だろうが、この賄賂で買収し、『とりあえず道鏡でヨシ!』という空気を読んだ神託を引き出す。それが、私と一族が生き残るための唯一の方法だ……!)
ブラック朝廷の中間管理職は、倫理観よりも生存を優先する。
清麻呂は、決死の覚悟で血走った目を九州の地へと向けた。
***
ついに到着した宇佐八幡宮は、清麻呂の想像を遥かに超える巨大なスケールと威圧感を放っていた。
鬱蒼と茂る鎮守の森。天を突くような朱塗りの鳥居。国家第二の宗廟として、皇室の祖霊をも祀るこの場所は、平城京の喧騒とは隔絶された、神聖にして不可侵の空気に包み込まれていた。
(空気が……重い。平城京のドロドロした権力闘争の空気とは違う、純粋で圧倒的な『神気』だ……。こんな場所で、裏工作など通用するのか……?)
清麻呂の足がすくむ。しかし、後戻りはできない。
彼は案内された潔斎(身を清める)の館で身なりを整えると、神職たちに導かれ、いよいよ本殿の奥深くへと足を踏み入れた。
薄暗い本殿の最奥。
そこには、巨大な御簾が掛けられており、その向こう側に、神の言葉を代弁する最高の巫女――大宮司が静かに鎮座していた。
「遠路よくぞ参られた、大和朝廷の使いよ」
御簾の向こうから、冷たく、そして底知れぬ深みを持つ声が響き渡った。
清麻呂は、床に額がめり込むほどの勢いで平伏した。
「は、ははァッ! 此度は、先だって大宰府より奏上されました『道鏡様を皇位に就かせよ』という神託につきまして、帝の勅使として、その真意を確認すべく参上つかまつりました」
清麻呂は、心臓の鼓動が耳元で鳴り響くのを感じながら、震える手で例の「桐の箱」を押し戴いた。
「そ、その儀につきまして。……神様におかれましても、下界の事情や、派閥の力関係など、色々と『大人の事情』がおありかと推察いたします」
「大人の事情、とな?」
「はい……! 今、平城京は道鏡様という新たな支配者の勢いが凄まじく、事実上、彼が全ての実権を握っております。ここで波風を立てるよりも、ここは一つ、穏便に……」
清麻呂は、スススッ……と、床を滑らせるようにして、極上の砂金と反物が詰まった箱を御簾の隙間へと押し込んだ。
「こちら、ほんの『ご挨拶』の品にございます。神様のお召し物や、お社の修繕費用にでもお役立ていただければと……。ですから、その……『とりあえず道鏡でOK!』という、空気を読んだ神託を正式に下していただけませぬでしょうか……ッ!」
言い切った。
神前での賄賂。究極のコンプライアンス違反。
清麻呂は、全身の毛穴から冷や汗を噴き出しながら、御簾の向こうの反応を待った。
沈黙。
永遠とも思える、重苦しい沈黙が本殿を支配した。
御簾の向こうで、衣擦れの音がし、桐の箱が開けられる微かな音が聞こえた。
(いけるか……? 砂金の輝きを見れば、いかな神仏とて心が動くはず……。これで『よきにはからえ』と言ってくれれば、私の命は助かる……!)
清麻呂が、一縷の希望にすがりついた、その瞬間である。
「……愚か者めがッ!!」
ドゴォォォォォォンッ!!!
清麻呂の鼓膜を破るような、大極殿の柱をも揺るがす凄まじい大音声が、本殿に炸裂した。
「ひょええぇえぇぇ!!」
清麻呂はカエルのように床にペシャンコに潰れた。
御簾の向こうから放たれる声は、先ほどまでの静かな巫女のものではなかった。
それは、地響きのように重く、そして絶対的な権威と怒りに満ちた、八幡大菩薩そのものの声であった。
「神を! 我が宇佐八幡を謀る気か、小役人風情がァァァッ!!」
「も、申し訳ございませぬぅぅぅッ! ほんの出来心で……!」
「空気を読めだと!? 大人の事情だと!? 笑止千万ッ!!」
神の怒りは、賄賂の箱を蹴り飛ばさんばかりの勢いでヒートアップした。
「開闢以来、この大和の国は、天照大御神を初代とする皇室一族が、代々継承していくと決まっておるのだ! それが我が国の絶対的な諚であろうが!」
清麻呂は白目を剥いた。
「それを! どこの馬の骨とも知らん、怪しい僧侶に、皇位を譲渡しろだと!? そんな買収が許されるとでも思っているのか! 朝廷が目こぼししても、この宇佐八幡が絶対に許さんわァァァッ!!」
「お、おっしゃる通りでございます! しかし! しかし、平城京の女社長は道鏡様に骨抜きにされておりまして! このままでは私が殺されるのですゥゥゥ!」
清麻呂は、なりふり構わず涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら訴えた。
「だからなんだというのだ! 不正を見逃し、私情で国を私物化するような輩など、言語道断! コンプライアンス違反も甚だしいわッ!」
神様の正論パンチは、容赦なく清麻呂のメンタルをタコ殴りにする。
「よいか、朝廷の使いよ! よく耳の穴をかっぽじって聞け! そして、その呆けた女天皇と、勘違野郎にそのまま伝えよ!」
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
本殿の空気が、かつてないほどの密度と神気を帯びて圧縮された。
これが、歴史に残る「宇佐八幡宮神託事件」の、真の神託が下された瞬間である。
「『我が国は開闢より以来、君臣の分定まりぬ!』」
神の声が、清麻呂の魂に直接刻み込まれる。
「『臣を以て君となすこと、未だこれあらず! 天つ日嗣(皇位)には、必ず皇嗣(皇室の血筋)を立てよ! 無道の者(道鏡)は、よろしく掃除すべし(排除しろ)ッ!!』」
ズドォォォォォォンッ!!!
清麻呂の脳髄に、トドメの雷が落ちた。
終わった。
「道鏡NG」のガチ神託。
しかも、「無道の者は掃除すべし」という、直接的すぎる殺意のオマケ付きである。
「か、神様……」
清麻呂は、震える声で懇願した。
「そ、そこをなんとか……もう少しマイルドな表現に……例えば、『今回の天皇就任は見送るが、今後の道鏡様の益々のご活躍をお祈り申し上げます』的な、お祈りのトーンに……」
「ならんッ!!!」
神の雷鳴が、再び轟く。
「一字一句、違わず伝えよ! 不正を誤魔化す神などこの世にはおらん! もしこの言葉を曲げて伝えれば、神罰覿面、貴様の一族郎党に永遠の呪いをかけてやるからなッ!」
バシィィィッ!!
見えない力によって、本殿の扉が激しく閉められた。
面会終了。
「…………」
清麻呂は、一人残された薄暗い拝殿の冷たい床の上に、大の字になって倒れ込んだ。
天皇と道鏡からは「オッケーもらってこい」と脅され。
神様からは「絶対ダメ。そのまま伝えろ」と脅される。
逃げ道ゼロの板挟み。
これを平城京で報告した瞬間、自分の首が飛ぶことは、太陽が東から昇るのと同じくらい確実な未来となった。
「……あ、あははははっ……」
清麻呂の乾いた笑い声が、静寂の境内に虚しく響く。
彼は、懐から竹筒を取り出した。
残っていた胃薬の丸薬を、手のひらにあるだけ全部乗せる。その数、二十粒以上。用法・用量を無視した致死量レベルのオーバードーズである。
「……いただきます」
清麻呂は、その黒い塊を一気に口の中に放り込み、ボリボリボリッ! と狂ったように噛み砕いた。
土と胆汁を混ぜたような、舌が麻痺するほどの激烈な苦味が、口内から胃袋へと爆発的に広がる。
「苦いッ……! 私の人生、苦すぎるゥゥゥゥッ!!」
和気清麻呂の血を吐くような絶叫が、九州の空に虚しく吸い込まれていく。
彼に残されたのは、死刑台である平城京へと戻る、長くて絶望的な帰路だけであった。
歴史に残る最悪のクレーム対応と、想像を絶する処分が待ち受ける大極殿へ向け、清麻呂の地獄の復路が今、始まったのである。




