第29話 天皇の推し活
時代は奈良、天平神護の世。
かつて、先人たちが血反吐を吐き、国家予算を全ツッパして平城京に黄金の盧舎那大仏を建造してから数十年。
今度の朝廷は、未曾有の「ガバナンス崩壊」の危機に直面していた。
平城京、大極殿の奥深く。
絢爛豪華な御簾の向こう側から、身の毛もよだつような甘ったるい声が漏れ聞こえてくる。
「おお……道鏡。そなたの唱えるお経は、いつ聞いてもわらわの心を潤してくれる。そなたの声を聞いていると、国政の憂いなどすべて消し飛んでしまうようじゃ……」
「もったいなきお言葉にございます、帝。すべては御仏の慈悲、そして帝の大御心の賜物にございます。私はただ、帝の御心に寄り添う一介の僧に過ぎませぬ」
恍惚とした表情を浮かべる絶対的ワンマン君主・称徳天皇。
そして、その傍らで涼しげな微笑みをたたえ、恭しく頭を垂れる一人の僧侶・道鏡。
その光景を大極殿の末席で平伏しながら見つめていた中堅官僚・和気清麻呂は、胃袋をドリルで抉られるような激痛に耐え、己の太ももを固くつねっていた。
称徳天皇は聖武天皇の娘であり、生涯独身を貫く孤独な女性天皇である。そんな彼女が病に伏せった際、見事な祈祷で病を平癒させたのが、この謎の僧侶・道鏡であった。
それ以来、称徳天皇は道鏡にドハマりした。現代の言葉で言えば、孤独な金持ちの女社長が、歌舞伎町でナンバーワンのホストに全財産をつぎ込む『狂気の推し活』状態に陥ってしまったのである。
「道鏡よ。そなたには太政大臣禅師、そして法王の位まで授けたが、まだまだ足りぬわ。そなたのためならば、大和の蔵をすべて開けても惜しくはない。今度はそなたの故郷に、それはそれは立派な寺を建ててやろうぞ!」
「ああっ、もったいのうございます。しかし、民の血税を私のごとき者のために使うなど……」
「よいのじゃよいのじゃ! わらわが許すと言うておる! 誰ぞ、今すぐ新しい寺の建立の詔を記せ!」
(公私混同の極みだァァァッ!! 税金をなんだと思っているんだッ!!)
清麻呂は、声に出せない絶叫を腹の底に飲み込みながら、懐から黒ずんだ「竹筒」を取り出した。
それは、かつて遣隋使の小野妹子から始まり、遣唐使の犬上御田鍬、そして大化の改新を裏で回した藤原鎌足へと受け継がれてきた、ブラック朝廷における実務担当者の魂――「激苦の胃薬」である。
清麻呂は、震える手で竹筒から黒い丸薬を三粒取り出し、ボリボリと音を立てて噛み砕いた。
強烈な苦味が口いっぱいに広がるが、理不尽極まりないワンマン経営を見せつけられるストレスに比べれば、甘露に等しかった。
道鏡は、すらりとした長身に、整った顔立ち。声は低く艶やかで、常に「私は無欲な仏の使いです」という清廉潔白なオーラを放っている。称徳天皇が彼を「スピリチュアルな導き手」として盲信するのも無理はない。
しかし、現場で働く官僚たちは皆、気付いていた。彼が朝廷の人事権を握り、自分に反対する者を次々と左遷・粛清しているという、極めてドス黒い実態に。
「申し上げますッ!!」
その時、大極殿の静寂を破り、九州の大宰府から馬を飛ばしてきた急使が、泥だらけの姿で転がり込んできた。
「大宰府の主神より、大至急の奏上にございます! 宇佐八幡宮の御前におきまして、誠に畏れ多き『神託』が下りましてございますッ!」
宇佐八幡宮。九州に鎮座する、皇室の祖霊をも祀る国家第二の宗廟である。
そこからの神託となれば、国家の根幹に関わる超特大のビッグニュースだ。大極殿に控えていた貴族たちが、一斉にざわめき立った。
「神託じゃと? して、八幡大菩薩はいかような御告げをなされたのじゃ?」
称徳天皇が身を乗り出す。
急使は、掲げた一本の木簡を、震える声で読み上げた。
「はっ! 神はこう宣われました! 『道鏡をば皇位に就かしめば、天下太平ならん』とッ!!」
…………。
大極殿の空気が、ピタリと凍りついた。
貴族たちの顔面から、スゥーッと血の気が引いていく。
それは、日本の歴史を根本から覆す、とんでもない内容であった。
天皇という座は、天照大御神の血を引く皇族のみが継承するというのが、この国が始まって以来の絶対的なルールである。それを、どこの馬の骨とも知れない、しかも皇族ですらない一介の僧侶に譲れというのだ。
現代のビジネスで言えば、創業家一族で代々受け継がれてきた上場企業の社長の椅子を、「神様が言ってるから」という理由で、昨日今日入り込んだ怪しいスピリチュアル・コンサルタントにタダで譲渡しろと言っているようなものである。
「ま、まあッ!!」
しかし、ただ一人。称徳天皇だけは、両手で顔を覆い、歓喜の黄色い悲鳴を上げた。
「聞いたか道鏡! 八幡大菩薩までもが、そなたをこの国の主にと望んでおられるのじゃ! ああ、なんという尊い御告げ! わらわの目に狂いはなかった!」
「帝……。私のような愚僧には、あまりにも畏れ多きことにございます。これもすべて、帝の徳が天に届いたゆえの奇跡……」
「謙遜するな道鏡! 神がそう仰るのなら、わらわは喜んでそなたに位を譲ろうぞ!」
キャッキャウフフと盛り上がる二人。
その光景を平伏しながら見ていた清麻呂は、急使が恭しく差し出したその「神託の木簡」を、たまたま至近距離で目撃してしまった。
(…………ん?)
清麻呂の官僚としての鋭い眼光が、木簡の表面を捉える。
そして、清麻呂は目を疑った。いや、自分の両目をくり抜いて洗いたくなった。
(筆跡が……筆跡が、完全に道鏡様のそれじゃないかァァァッ!!)
清麻呂は心の中で絶叫した。
日頃から道鏡の決裁文書を見慣れている清麻呂にとって、その癖のある筆文字は一目瞭然であった。
さらに最悪なことに。
(しかもその木簡、よく見たら裏側に薄っすらと『明日の法要の献立:精進料理一式』って書いてあるぞ!? 反故紙の使い回しか! 裏紙を使って国家の乗っ取りを企てたのか!? ガバガバの偽造文書すぎるだろうがァァァッ!!)
信じられないほどの雑な仕事であった。
大宰府の役人を抱き込み、自ら書いた怪文書を「神託」として送らせた自作自演。コンプライアンスなどという概念が存在しない、強引極まりない天皇の椅子強奪計画である。
誰の目から見ても怪しすぎる。だが、恋は盲目、推し活は狂気。称徳天皇は、その木簡の裏書きに全く気付いていない。
「とはいえ……」
称徳天皇は、コホンと一つ咳払いをして、居住まいを正した。
「いかに神の御告げとはいえ、皇位を譲るという国家の大事。ただ大宰府からの書状だけで決めるわけにはゆかぬ。万が一にも間違いがあってはならぬゆえ、朝廷より直接、確かな使者を遣わし、神の真意を問いたださねばなるまいな」
おっ、と清麻呂は少しだけ期待した。
さすがは帝。推し活に狂っているとはいえ、最低限のガバナンスの意識は残っていたか。
「和気清麻呂よ。面を上げい」
「は、ははァッ!」
突然名前を呼ばれ、清麻呂はビクゥッ! と肩を震わせて顔を上げた。
「そなたは、日頃より実直で、嘘を吐かぬ忠義の臣であると聞いておる。よって、そなたを勅使に命ずる。今すぐ宇佐八幡宮へ赴き、神の御前で、この神託が『真である』と確かめてまいるのじゃ」
「……へ?」
「もちろん……神の御意は、わらわの望みと同じはずじゃ。よもや、神が『否』などと仰るはずがなかろう? 清麻呂、わらわの言いたいこと、わかっておるな?」
称徳天皇の瞳が、スッと冷たく細められた。
それは、「わかってるよね? 道鏡に社長の椅子を譲るための『最終的なお墨付き』をもらってくるだけの、簡単な茶番出張だよ?」という、強烈な同調圧力であった。
「は……は、ははァァァッ……! 畏まりまして、ございます……!」
清麻呂は、額を床に擦りつけながら、胃の底から込み上げてくる酸っぱいものを必死に飲み込んだ。
答えは決まっている。出来レースである。
もしここで「神様がダメって言ってました」などと報告しようものなら、このホスト狂いの女社長に首を撥ねられるのは明白だ。
「大儀である。では、道中気をつけてな。良い報せを待っておるぞ」
こうして、和気清麻呂という生真面目な中間管理職は、日本の歴史上、最も理不尽で、命懸けの「お墨付き受領出張」を命じられてしまったのである。
***
その日の夜。
九州への果てしない長旅の準備に追われ、清麻呂は夜遅くまで役所の暗い廊下を歩いていた。
頭の中は、いかにして宇佐八幡宮の巫女に袖の下を渡し、「とりあえず『道鏡でOK』ってことで頼みます」と交渉するかで一杯であった。
その時。
廊下の曲がり角で、ヌッと大きな影が清麻呂の行く手を遮った。
「……おう、清麻呂」
低く、地を這うような声。
そこに立っていたのは、昼間の大極殿で「私は無欲な仏の使いです」というオーラを放っていた、あの道鏡であった。
しかし、暗がりの中で見下ろす道鏡の顔には、昼間の清廉潔白な聖人君子の面影など、微塵も残っていなかった。
「ど、道鏡様……。夜分遅くに、いかがなされましたか……」
清麻呂が後ずさろうとした瞬間。
ドンッ!!
「ひぃッ!?」
道鏡の巨大な右手が、清麻呂の顔の横の柱に叩きつけられた。
いわゆる、壁ドンである。
しかし、そこに胸キュンの要素は一切ない。あるのは、純度百パーセントの、極道めいた殺意であった。
「おいコラ、清麻呂ォ……」
道鏡は、清麻呂の耳元に顔を近づけ、チンピラ口調で凄んだ。
「てめェ、わかってンだろうな? 明日からの九州出張……何を報告すべきか、まさか忘れたとは言わせねェぞ?」
「ひ、ひぃぃ……っ! わ、わかっております! 道鏡様が皇位に就かれるのが、天下太平の道であると……!」
「アァ? 声が小せェんだよ」
道鏡は、清麻呂の胸ぐらをガシッと掴み上げ、宙に浮かせた。
表向きは仏に仕える身でありながら、その筋骨隆々たる腕力は、並の武士を遥かに凌駕していた。
「よく聞け。俺ァ、この国を手に入れるために、あのババ……いや、帝の御機嫌を必死こいて取ってやってンだ。もし神様が『嫌だ』なんて寝言ほざきやがって、てめェがそれをバカ正直に報告するようなことがあったら……」
道鏡の目が、狂気のように血走った。
「てめェのその真面目腐ったツラ、二度と首の上に繋がってねェと思えよ。てめェのハラワタ引きずり出して、平城京の野犬の餌にしてやるからな。……あァ?」
「ひっ……! ぎぃっ……!」
「空気、読めるよなァ? 官僚なら、俺様が欲しがってる『回答』だけ持って帰りゃいいンだよ。わかったら、とっとと行ってこいッ!」
ドサッ。
道鏡は清麻呂を床に放り投げると、再び「南無阿弥陀仏……」と美しい美声を響かせながら、聖人君子の足取りで夜の闇へと消えていった。
「…………ゲホッ、ゴホッ!」
床に這いつくばったまま、清麻呂は激しく咽た。
(ガチの反社だァッ!! このハゲ、裏の顔が極悪すぎるッ!!)
清麻呂の心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、胃袋は恐怖とストレスで活動を停止していた。
絶対的ワンマン社長の同調圧力。
そして、次期社長を狙う極悪反社コンサルタントからの、殺害予告。
この究極の板挟み状態の中で、もし宇佐八幡宮の神様が「道鏡NG」などと言い出した日には、自分の命は確実に終わる。
「……仏様。いや、神様……。どうか、どうか空気を読んでください……。私に、生きて平城京の土を踏ませてください……ッ!」
清麻呂は、震える手で竹筒から大量の胃薬を手のひらに出し、それを一気に口に放り込んだ。
泥のような苦味が、全身の血を駆け巡る。
日本の歴史上、もっとも胃に悪い「神様への稟議書承認スタンプラリー」。
和気清麻呂の、片道切符となるかもしれない絶望の九州出張が、今、幕を開けようとしていた。




