第28話 海神の裁き
天平勝宝五年(七五三年)、十二月。
東シナ海の冬は、飛鳥の昔より遣唐使たちを海の底へと引きずり込んできた「死の海」である。
その漆黒の荒波のど真ん中を、日本を目指す二隻の船が、まるで木の葉のように揉みくちゃにされていた。
「オロロロロロロォォォォッ!!」
第二船の甲板で、日本の留学僧・普照は、何度目かわからない鮮やかな胃液を海に撒き散らしていた。
波の高さは優に数丈(十メートル以上)を超え、平底の木造船は、波の頂上に持ち上げられては、奈落の底へと真っ逆さまに叩きつけられる。
「死ぬ! 今回こそガチで死ぬゥゥッ! 栄叡、今そっちに行くからなァァ!」
普照が走馬灯を見つめながら泣き叫んでいると、船底の奥深く、厳重にロープで縛り付けられた巨大な木箱の中から、呑気な声が響いてきた。
『……ほほう。今日は随分と激しい揺りかごじゃな。まるで雲の上を跳ね回っているかのようじゃ。ふぉっふぉっふぉ!』
「大和上ォォォッ! なんでそんなに元気なんですかァァァッ!」
普照の血を吐くようなツッコミも、暴風雨の轟音にかき消される。
盲目の唐仏教界トップ・鑑真は、酸欠と船酔いで地獄を見るはずの密閉された箱の中で、なんと座禅を組み、この致死率五十パーセントのデス・クルーズを「楽しいアトラクション」として満喫していたのである。
もはや人類を超越した、仏の化身としか言いようがなかった。
「おい普照! 吐いてる暇があったら箱を押さえろォォッ!」
狂犬こと副使の大伴古麻呂が、全身ズブ濡れになりながら絶叫した。
「あの箱は俺たちの命綱だ! 海に落ちれば、我々のボーナスも出世も海の藻屑だぞォォッ!」
「自分の保身ばっかりじゃないですか! もう船底に水が溜まってきてるんですよォォ!」
「水を掻き出せ! 休むな! 橘諸兄様の無茶振りに比べれば、海神の怒りなどそよ風に等しいわァァァッ!」
古麻呂の目は完全にイっていた。ブラック朝廷で鍛え上げられた社畜の生存本能が、大自然の猛威と真っ向から殴り合っている。
その頃、彼らの少し前方を走っていた、「事勿れ主義のエリート大使」藤原清河が乗る第一船では、全く別の地獄が展開されていた。
「ひぃぃぃッ! 船が壊れる! なぜこんな嵐の日に出航したのだ!」
豪華な特等室で、清河は柱にしがみつきながら泣き喚いていた。
「大使! 風向きが最悪です! このまま無理に東へ進めば、波に飲まれて沈みますぞ!」
「ば、バカモノ! 私の輝かしい官僚人生を、こんな海のど真ん中で終わらせてたまるか! 安全第一だ! 船を南へ向けろ! とにかく波の穏やかな海域へ退避するのだァァァ!」
「南へ向かえば、日本から遠ざかりますぞ!」
「命あっての物種であろうが! 面舵いっぱァァァイ!」
リスクを極度に恐れ、安全な道を求めたエリートの判断。
しかし、この判断は裏目に出た。
彼らが退避した南の海域には、東シナ海名物の「猛烈な季節風」が待ち構えていたのである。
「ああっ!? 船が、船が風に流されるゥゥ!」
「ダメです! 操舵不能! このままでは、はるか南方の林邑(現在のベトナム方面)まで吹き飛ばされますゥゥ!」
「な、なんだとォォォッ!? 私の……私のキャリアプランがァァァァッ!!」
清河の悲痛な絶叫は、嵐の空へと虚しく吸い込まれていった。
(※史実において、この第一船は本当にベトナム方面まで漂流し、藤原清河は唐へと舞い戻った末、一生日本に帰国することができなかった。)
一方、鑑真を乗せた古麻呂の第二船は。
「南へなど逃げるなァァッ! 帆が裂けようが、マストが折れようが、絶対に東へ進めェェェッ!!」
古麻呂の狂気の号令のもと、水夫たちは決死の覚悟で波に立ち向かっていた。
船体はミシミシと悲鳴を上げ、帆はボロボロに引き裂かれた。浸水する船底で、普照は泥水にまみれながら必死に桶で水を掻き出している。
「死ぬ! 死ぬ! 死ぬゥゥ!」
『普照よ。少し箱の中が蒸してきたぞ。換気を頼めんかの?』
「今それどころじゃないですゥゥゥッ!!」
大自然の暴力と、狂犬の執念と、無敵の老僧。
嵐の中での死闘は、三日三晩続いた。
そして。
「…………」
普照は、冷たい砂の感触と、頬を撫でる穏やかな風の匂いで目を覚ました。
「……ここは……」
見上げれば、冬の澄み切った青空が広がっていた。
耳に聞こえるのは、穏やかな波の音と、見慣れた海鳥の鳴き声。
「おい、普照。生きているか」
背後から、声がした。
振り返ると、そこにはボロボロの衣服を纏い、髪を海藻だらけにした古麻呂が、砂浜に大の字になって倒れていた。
その少し沖合には、マストが折れ、ボロ雑巾のようになった遣唐使船が、浅瀬に乗り上げている。
「古麻呂様……。俺たち……生きて……」
「ああ。地元の漁師に聞いた。……ここは、薩摩の秋妻屋浦だそうだ」
薩摩。
その単語を聞いた瞬間、普照の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
「さつま……。……日本の大地だ……ッ!!」
普照は、砂浜に顔を擦りつけ、声を上げて号泣した。
十数年である。長安の牢獄に繋がれ、詐欺師に騙され、南方のジャングルでマラリアに苦しみ、相棒の栄叡を失った。
そのすべての地獄が、今、この美しい日本の景色に報われたのだ。
「栄叡……! 栄叡よ! 俺たち、帰ってきたぞ……! 日本に帰ってきたんだァァァッ!」
普照が砂浜を叩いて泣き崩れていると。
ギィィ……バコンッ!
浅瀬に乗り上げた船の甲板から、凄まじい音が響いた。
水夫たちが、厳重に縛り付けられていた特大の『木箱』の蓋をこじ開けた音であった。
「ぷはぁっ! いやあ、よく寝た!」
箱の中から、すくっと立ち上がったのは、唐の最高権威・鑑真大和上であった。
数日間の箱詰め監禁生活と暴風雨を経験したというのに、その衣は一寸の乱れもなく、顔色はツヤツヤと輝いている。
弟子たちに支えられながら、鑑真はゆっくりと船を降り、日本の砂浜に、その足を踏み下ろした。
ザクッ、と。
盲目の老僧の足裏が、極東の島国の土を捉える。
「…………おお」
鑑真は、光を失った目を大きく見開き、深く、深く、その場の空気を吸い込んだ。
「潮の香りと……青き山の匂いがする。ここが、東の果て……大和の国か」
普照は、涙で顔をグシャグシャにしながら、鑑真の足元に平伏した。
「はいっ……! はい、大和にございます! ようやく……ようやく、辿り着きました!」
「そうか」
鑑真は、己の胸に手を当て、満面の、この世のすべての慈愛を込めたような笑みを浮かべた。
「良い風じゃ。ワシの心の眼には、仏の法を待ちわびる民たちの輝きが、はっきりと見えておるぞ。……さあ、都へ向かおう。ワシの最後の仕事の始まりじゃ」
日本の仏教界が、真の戒律と出会った、歴史的瞬間であった。
その神々しい姿を前に、狂犬・古麻呂すらも、静かに手を合わせ、己の悪運と仏の加護に感謝するのだった。
***
天平勝宝六年(七五四年)、春。
平城京、大仏殿の前。
朝廷の実務トップである右大臣・橘諸兄は、信じられない報告を受けて、文字通り目を剥いていた。
「ほ、本当に……本当に連れてきたというのか!? あの、唐仏教界の生ける伝説を!?」
諸兄の目の前には、ボロボロの衣服を着た古麻呂と普照が、誇らしげに胸を張って平伏している。
そしてその背後には、数百人の日本の僧侶たちに囲まれ、恭しく輿に乗せられた盲目の高僧・鑑真の姿があった。
「はい! 諸兄様からの特命、この大伴古麻呂と留学僧の普照、命に代えましても成し遂げてまいりました!」
古麻呂が、ドヤ顔で言い放つ。
「嘘だろ……」
諸兄は、震える手で懐の空の竹筒を握りしめた。
(予算ゼロ。しかも唐の皇帝は出国を許可していなかったはず。それを、どうやって連れてきたのだ……!? まさか、密輸でもしたとでも言うのか!?)
諸兄の官僚としての直感が、とんでもない国際的スキャンダルの匂いを嗅ぎ取っていた。しかし、連れてきてしまったものは仕方がない。いや、むしろ超特大の金星である。
「おおおっ……! 鑑真殿! よくぞ、よくぞこの大和の国へ!」
そこへ、誰よりも早く駆けつけてきたのは、聖武上皇であった。
上皇は、鑑真の手を両手で固く握りしめ、ボロボロと大粒の涙を流した。
「あなた様のような高僧が来てくだされば、我が国の仏教はついに完成いたします! 私に……私に正式な『戒律』を授けてくだされ!」
「上皇様。この老骨でよろしければ、持てるすべての法を、この国に伝授いたしましょう」
鑑真の穏やかな微笑みに、上皇は声を上げて泣き崩れた。
東大寺の巨大な大仏が見下ろす前で、唐の最高権威と日本の元首が固い絆を結んだ、奇跡の瞬間である。
その感動的な光景を見守りながら、古麻呂と普照は、互いの肩を叩き合って男泣きに泣いていた。
「終わったな、普照……。これで俺たちは、歴史に名を残す英雄だ」
「はいっ……古麻呂様! これでようやく、諸兄様からもボーナスが下賜され、ゆっくりと温泉にでも浸かって、これまでの傷を癒やすことができますね!」
二人の心は、希望に満ち溢れていた。
地獄の密航ループ、南の島でのサバイバル、嵐の海での死闘。
そのすべての苦労が報われ、これからは栄光に満ちたホワイトな官僚ライフが待っているのだと。
しかし、感動の涙をハンカチで拭っていた橘諸兄が、くるりと二人のほうを向いた。
その顔は、先ほどまでの感動の表情から一変し、血走った目を持つ「極悪ブラック企業の中間管理職」のそれに切り替わっていた。
「……大伴古麻呂よ。そして普照よ」
「はっ! 諸兄様、何なりとお申し付けを!」
「大儀であった。そなたらの功績は、必ずや帝にお伝えしよう」
諸兄は、ニコリと冷酷な笑みを浮かべた。
「ところで。大和上が到着されたということは、いよいよ仏の教えが完成するということだ」
「はい!」
「つきましては、来月。この東大寺にて、大和上による一万人規模の『受戒の儀式』ならびに『大仏殿の特大完成記念パーティー』を執り行うこととなった」
…………えっ?
古麻呂と普照の顔から、スゥーッと血の気が引いた。
「一万人規模のVIPが全国から集まる。当然、警備、接待、食事の手配、宿の確保など、実務の山が天を突くほど残っておる」
諸兄は、背後に控えていた役人に合図をした。
ドサササササッ!!
二人の目の前に、うず高く積まれた木簡の山が雪崩を打って崩れ落ちた。
「休む間もなく申し訳ないが、そなたら二人には、この一大イベントの『現場総責任者』を命ずる。唐の海を生き抜いたそなたらの胆力があれば、一万人の貴族の接待など容易いであろう?」
「…………は?」
「予算は当然ない! 持ち前のハッタリと気合いで、来月までにすべて手配せよ! 失敗すれば、大宰府に左遷だ!」
タタタッ! と。
諸兄は、己の仕事を完璧に下に丸投げした満足感とともに、足取りも軽く去っていった。
あとに残されたのは。
黄金の大仏と、穏やかに微笑む鑑真。
そして、自分たちの背丈よりも高く積まれた木簡の山を前に石化した古麻呂と普照。
「…………」
普照の、胃袋が、ギリィィィッ! と激痛を放った。
「なんで……帰ってきたばかりなのにッ!!」
「俺のボーナスはァァァ!? 温泉旅行はどこ行ったんだよォォォッ!!」
二人の血を吐くような絶叫が、春の平城京の空に虚しくこだました。
海を越え、国境を越え、歴史的な偉業を成し遂げようとも、ブラック朝廷の実務担当者に「平穏な明日」など決して訪れない。
日本の歴史は、いつの時代も、理不尽なトップの思いつきと、胃薬を求める中間管理職たちの果てしない残業の連鎖によって紡がれていくのである。
普照のすすり泣きは、一万人の読経の声にかき消され、大和の青空へと吸い込まれていくのであった。
(誘拐はつらいよ編・完)
次回、「神託はつらいよ」──。




