第27話 偽装作戦
天平勝宝五年(七五三年)、十一月。
月のない新月の夜。唐の揚州の港には、海を渡る遣唐使船が四隻、不気味なシルエットを浮かべて停泊していた。
その港の片隅、人気のない薄暗い倉庫の裏手で。
普照は、ガチガチと歯の根を鳴らしながら、目の前に置かれた『唐櫃(木箱)』を見つめていた。
大人一人がすっぽりと収まるほどの、やたらと頑丈な特大サイズの木箱である。
「……古麻呂様。本当に、本当にやるのですか……?」
普照の問いに、遣唐使の副使である大伴古麻呂は、ギラギラと血走った目を向けた。
「当たり前だ! ここまで来て引き返せるか! 藤原清河の野郎は、第一船でイビキをかいて寝ている。あのお坊ちゃんが夢を見ている間に第二船に鑑真様を積み込むのだ!」
古麻呂の顔は、「裏取引を決行するマフィアの幹部」のそれであった。外交官の品格など欠片もない。
「おお、待たせたな二人とも」
そこへ、数人の屈強な弟子(密航賛成派)に支えられながら、唐の最高権威・鑑真大和上がニコニコと笑顔で現れた。
御年六十六歳。両目の視力を完全に失っているというのに、その足取りはこれから遠足にでも行くかのように軽やかである。
「大和上……! 誠に、誠に恐れ多いことですが、今からこの箱の中に……」
「うむ! わかっておるぞ、普照よ。誰にも見つからぬように、この箱の中で息を潜めればよいのじゃな! まるで罪人の逃亡劇のようじゃ、ふぉっふぉっふぉ!」
…………。
相変わらずの、異常なポジティブ・シンキングである。
不法出国の片棒を担がされているというのに、このお爺ちゃんには悲壮感というものが一ミリも存在しない。
「さあ大和上、時間がありません! 早く中へ!」
古麻呂が急かすと、鑑真は弟子に手伝われながら、巨大な木箱の中へとよいしょ、と身を沈めた。
「おや、少し狭いな。膝が当たるぞ」
「折り曲げてください! 結跏趺坐の達人でしょうが! 足の骨が軋むくらい折り畳んでください!」
古麻呂が、容赦なく国宝級の高僧を箱の中に押し込む。普照は「ひぃぃっ! バチが当たる! 絶対に仏罰が下るゥゥ!」と頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「よし、隙間に緩衝材として古い衣と、道中のための干し芋を詰めておけ! 蓋を閉めるぞ!」
「大和上! いいですか、何があっても絶対に、絶対に声を出してはなりませぬぞ! 咳払いも、寝言も厳禁です!」
普照が泣きながら念を押すと、箱の中から「任せておけ。ワシは座禅に入れば三日は口を開かんからな!」と力強い返事が聞こえた。
その言葉を信じるしか、もはや道はない。
バタンッ! と分厚い蓋が閉められ、厳重に縄がかけられた。
「行くぞ普照! お前も端を持て!」
「お、重いィィィッ! 六十六歳の高僧の体重と、仏の徳の重さが、私の腰を破壊しにきているゥゥ!」
古麻呂と普照、そして数人の水夫たちは、汗だくになりながら「鑑真入り唐櫃」を担ぎ上げ、第二船のタラップへと向かった。
***
港は、出航前の物資の積み込みと、唐の役人たちによる最終検問でごった返していた。
松明の炎が煌々《こうこう》と照らす中、武装した唐の役人たちが、遣唐使船に積み込まれる荷物を一つ一つ厳しくチェックしている。
「次! 日本の第二船の積荷だな。……おい、そこの不自然に巨大な箱はなんだ?」
ピタリ。
検問所の前で、鋭い目つきの唐の役人が、古麻呂たちの担ぐ木箱を指差した。
(来たァァァァッ!!)
普照の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。額からは滝のような汗が噴き出し、膝がガクガクと震え始めた。
しかし、現場の修羅場をくぐり抜けてきた狂犬・古麻呂の胆力は、常軌を逸していた。
「おお、お役人様! ご苦労様にございます!」
古麻呂は、一瞬の動揺も見せずに満面の営業スマイルを浮かべ、役人の前に進み出た。
「この箱の中身ですか? いやはや、これは我が国から大唐帝国の皇帝陛下へ献上し、余ったために持ち帰ることになった、我が国の特産品にございます」
「特産品? ずいぶんと重そうだが、中身はなんだ」
役人が不審そうに箱に近づく。
古麻呂は、ここぞとばかりに胸を張り、堂々とハッタリをかました。
「はい! 大和の国の神秘の海で育った、特大の『干しアワビ』でございます!!」
…………。
検問所の空気が、凍りついた。
箱の後ろで担いでいた普照は、白目を剥きそうになった。
(干しアワビィィィ!? 大人一人が入るサイズの箱に!? どんなモンスター・アワビだよ! 嘘が雑すぎるだろうがァァァッ!!)
普照の魂のツッコミが脳内で炸裂したが、声には出せない。
「……干し、アワビ、だと?」
役人は、呆れたような、そして疑っている目を古麻呂に向けた。
「貴様、私を舐めているのか? いくら東の果ての未開の海とはいえ、人間と同じサイズの貝が存在するなど聞いたことがないわ!」
「いえいえ! 誠でございます! 我が国ではこれを『大王アワビ』と呼び、神の使いとして崇めておりまして! 乾かすのにも十年かかりました!」
「嘘をつけ! ならば中を改めさせてもらうぞ!」
「お待ちくだされ! 貴重な品ゆえ、外の空気に触れると味が落ちてしまいます!」
役人と古麻呂が押し問答をしている、まさにその絶体絶命の瞬間である。
その時、箱の中から──。
『……ほほう。干しアワビとな……。出家してから久しく食べておらんが、仏の試練ならば、少し囓ってみるのも一興じゃな……モグモグ』
…………!?
普照の全身から、スゥーッと血の気が引いた。
(しゃ、喋ったァァァァァッ!! お爺ちゃん! なんで今、独り言を言ったのォォォッ!!)
大事故である。「三日は口を開かない」という約束は、干しアワビというパワーワードの前に、わずか数分で破られたのだ。
「……おい」
役人の目が、スッと細められた。彼は腰の剣の柄に手をかけた。
「今、この箱の中から、老人のような声が聞こえたぞ。それに、何かをモグモグと食べているような音もな」
「き、気のせいでございます!」
「いいや、確かに聞こえた! しかも、なんだこの箱は? アワビが入っていると言う割には、お香の匂いがプンプンするではないか!」
当然である。箱の中に入っているのは、毎日香を焚き染められた最高位の仏教僧なのだから。
「開けろ! 今すぐその箱をこじ開けろォッ!!」
役人が部下たちに命じ、槍を持った兵士たちが木箱を取り囲んだ。
(終わった! 終わった終わった終わった! 国交断絶! 外交官特権剥奪! 全員ここで斬首だァァァ!)
普照が絶望のあまり失禁しそうになった、その時。
「南無阿弥陀仏ゥゥゥゥゥッ!!!」
突如として、普照は箱の上に飛び乗り、狂ったように木箱の蓋をバンバンと叩き始めたのである。
「な、なんだ貴様! 狂ったか!」
「お役人様! 近づいてはなりませぬゥゥッ!」
普照は、白目を剥き、口から泡を飛ばしながら絶叫した。
「この『大王アワビ』には、海神の怨念がこもっております! 先ほどから聞こえる声は、アワビに憑りついた怨霊の呪詛! そしてこの白檀の香りは、呪いを封じ込めるための結界の香りにございます!」
パニックが生み出した、意味不明のスピリチュアル・ハッタリであった。
「お、怨霊だと……?」
「はい! 今、箱を開ければ、呪いがお役人様の目玉をくり抜きに参ります! おお、くわばらくわばら! アワビ大明神よ、鎮まりたまえェェッ!」
ドン! ドン! ドン!
普照は、箱の中の鑑真に「これ以上喋るな!」というメッセージを込めて、太鼓のように木箱を乱れ打ちした。
『イタッ……なんじゃ、雹でも降ってきたのかの?』
「ほらァ! またアワビが唸っております! 呪いが漏れ出しておりますゥゥ!」
普照の迫真の演技に、唐の兵士たちが怯んで一歩後ずさりした。古代の人間は、呪いや祟りという言葉に非常に弱いのである。
その一瞬の隙を、狂犬・古麻呂が見逃すはずがなかった。
「……お役人様」
古麻呂は、スッと役人の懐に体を寄せ、他人の目から死角になる位置で、ズシリと重い布袋をねじ込んだ。
「これは、呪い避けのお守り代わりに……我が国から持ち込んだ、特上の『真珠』と『砂金』にございます。これで、どうか……アワビの呪いを見なかったことにしていただけませぬか?」
役人は、懐にねじ込まれた布袋の重みと、チラリと覗く黄金の輝きを確認した。
彼の顔から、スゥーッと疑念の色が消え去り、極めて事務的な、官僚特有の「無の表情」へと切り替わった。
「……なるほど」
役人は、コホンと一つ、大袈裟な咳払いをした。
「確かに、異国の特産品には不思議な力があると聞く。我が大唐の検問を呪いで穢すわけにはいかん。……その『干しアワビ』の箱、早々に船に積み込み、我が国の土から離すのだ!」
「ははァッ! 寛大なるご処置、感謝いたしますゥゥッ!」
賄賂の力は、偉大であった。
アワビの呪いという荒唐無稽な言い訳も、黄金の輝きの前では見事な大義名分へと変換されたのである。
「よし! 急げ! 箱を船底の一番奥へ運び込め!」
古麻呂の号令で、水夫たちが慌ただしく木箱を担ぎ上げ、第二船の薄暗い船倉へと消えていく。
背後では、第一船の豪華な甲板で、大使の藤原清河が何も知らずに優雅に月見酒を傾けている姿が見えた。
(……事勿れ主義のクソ上司め。お前が寝ている間に、俺たちは歴史を動かす超特大の『密輸』を成功させたぞ……!)
古麻呂は、冷や汗でビショビショになった顔に、してやったりの狂気じみた笑みを浮かべた。
ジャァァァァァーンッ!!
出航の銅鑼が、揚州の港に鳴り響いた。
ついに、第十二回遣唐使船は、数多の命を飲み込んできた東シナ海の荒波へと、その巨大な帆を上げたのである。
船底の奥深く。
厳重に縛られた木箱の横で、普照は魂が抜けたようにへたり込み、ボロボロと安堵の涙を流していた。
「終わった……。乗った。ついに、ついに大和上を船に乗せたぞ……。栄叡よ……俺たち、ようやく日本に帰れるんだな……」
極度の緊張から解放され、普照が目を閉じて仏に感謝の祈りを捧げた、その時。
コンコン。
木箱の中から、控えめなノックの音が聞こえた。
『……おい、普照よ』
「ひぃっ!? だ、大和上! まだ喋ってはなりませぬ! 船は出ましたが、まだ周囲に水夫が……!」
『いや、そうではない。ちょっと、揺れが激しすぎんかの?』
「えっ?」
普照がハッとして周囲を見回すと、船底の床が、あり得ない角度で傾斜し始めていた。
ギギギギギッ……! と、船体を構成する分厚い木材が、悲鳴を上げている。
外の海から、ゴーォォォォッ! という、地獄の底から響いてくるような凄まじい暴風の音が聞こえてきた。
冬の東シナ海。
それは、飛鳥の昔から遣唐使たちを苦しめてきた、容赦のない「海神の裁き」の季節である。
『普照よ。ワシ、少しばかり腹の具合が……オェェェッ』
「だ、大和上ェェェェェッ!! 箱の中で吐かないでくだせェェェッ!!」
密航という人為的な危機を乗り越えた彼らを待っていたのは、大自然の容赦ない暴力であった。
大使と副使の対立、そして盲目の超高僧を詰めた木箱を乗せ、遣唐使船は嵐の海へと揉みくちゃにされながら突き進んでいく。
普照のすり減った胃粘膜は、日本の土を踏むその瞬間まで、決して安息を得ることはないのだった。




