第26話 事勿れ主義の大使
天平勝宝四年(七五二年)。
超大国・唐の首都である長安に、久しぶりに日本の使節団が到着した。
藤原清河を大使とし、大伴古麻呂を副使とする「第十二回遣唐使」である。
十数年ぶりに日本の土の香りを運んできた彼らに、一人の男が泣きながらすがりついていた。
「あああっ……! 日本からの、お使いの方々! お助けくだされ! 助けてくだされェェェッ!」
「なんだこの薄汚い乞食は! 近寄るな、私の織物が汚れるではないか!」
大使である藤原清河は、扇子で顔を覆いながら、本気でドン引きしていた。
すがりついているのは、かつての日本のエリート留学僧、普照である。
サバイバル生活と、鑑真の底なしのポジティブ・シンキングに振り回され続けた結果、彼の身なりは長安の路地裏のホームレスと同化していた。
「乞食ではありませぬ! 私は、橘諸兄様より特命を仰せつかった留学僧、普照にございます! この数年、地獄のような密航失敗を繰り返し……相棒の栄叡も失い……」
普照は、これまでの血の涙を絞り出すように、事の顛末を語った。
予算ゼロでのヘッドハンティング。鑑真の弟子による密告。手作りイカダでの沈没。南方の未開の島での遭難。そして、鑑真の失明。
それを聞いた副使・大伴古麻呂の目が、カッ! と見開かれた。
「なんと! 唐の仏教界のトップであるあの鑑真大和上が、我が国へ行くと言ってくださっているのか!? しかも、何度失敗しようとも心が折れていないと!?」
「はい……! 御年すでに六十の半ばを過ぎておられますが、メンタルとフィジカルはバケモノ……いえ、仏の化身にございます!」
「でかしたぞ普照! それほどの超大物を連れて帰れば、我が遣唐使団の功績は歴史に燦然と輝くことになるわ!」
古麻呂は、バンッ! と膝を打って歓喜した。
大伴古麻呂は、武門の名家である大伴氏の出身。ガチガチの現場叩き上げであり、「結果を出さねば生き残れない」という熾烈な出世競争を勝ち抜いてきた、武断派の狂犬官僚である。
しかし、そこで冷や水をぶっかける者がいた。
「……待て。その鑑真という老僧を船に乗せる件、唐の皇帝陛下の許可は下りているのか?」
冷ややかな声を発したのは、大使の藤原清河である。
清河は、栄華を極める藤原氏の超絶エリート。生まれながらにして特権階級であり、彼の行動原理は常に「波風を立てず、自身の経歴に傷をつけないこと」――すなわち、『事勿れ主義』であった。
「きょ、許可……ですか?」
普照が目を泳がせる。
「当然であろう。唐の国宝級の高僧を我が国に連れ帰るのだ。大唐帝国の玄宗皇帝陛下の正式な許可証がなければ、港の検問を通過することなど不可能。もしや、許可なく連れ出そうとしているのではあるまいな?」
「……はい。実は、皇帝陛下は『鑑真は唐の至宝ゆえ、出国はまかりならん』と、正式に不許可を出しておりまして……」
「ならばダメだ!!」
清河は、ビシィッ! と扇子で普照を指差した。
「不法出国! つまりは密航ではないか! そのような罪人を、我が国を代表する公式な外交船に乗せるなど、言語道断! もし唐の役人に見つかれば、重大な外交問題に発展し、大使である私の首が飛ぶ! 絶対に許可せんぞ!」
完璧なリスク管理。官僚としての圧倒的な正論である。
現代で言えば、「現地の法律に違反してまでリスクを冒すことは、我が社のコンプライアンスが許しません」という、法務部の判断だ。
「そ、そんな……! ここまで来て……我々の苦労は……」
普照は、再び絶望の底へと叩き落とされ、その場に崩れ落ちた。
だが、その正論に猛然と噛み付いたのが、副使の古麻呂であった。
「お待ちくだされ、清河殿ッ!!」
古麻呂は、鬼のような形相で清河に詰め寄った。
「たしかに外交上の問題はありましょう! しかし、我々が何のために命を懸けてこの海を渡ってきたとお思いか! 『唐の進んだ文化と、高僧を連れ帰る』という、上皇様と諸兄様からの至上命令を果たすためではありませぬか!」
「わかっている。だが、皇帝の許可がない以上、無理なものは無理なのだ。諦めろ」
「諦めるだと!? 手ぶらで帰ってみろ、あの諸兄様が黙っていると思うか!」
古麻呂の目には、明らかな恐怖と狂気が宿っていた。
「今、朝廷は大仏造立の借金で首が回らん状態だ! その上、全国に国分寺を建てるという無茶振りで、国中が火の車なのだぞ! そんな中、莫大な予算を組んで遣唐使船を出してもらった我々が、『怒られそうだったので高僧は連れてきませんでした』などと報告してみろ!」
古麻呂は、清河の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで唾を飛ばした。
「間違いなく、無能の烙印を押されて左遷! いや、大宰府の果てまで飛ばされて一生飼い殺しだ! 現場の人間にとっちゃあ、唐の皇帝の顔色より、直属のクソ上司の機嫌の方が何万倍も恐ろしいんだよッ!」
中間管理職の、血を吐くような魂の叫びであった。
しかし、温室育ちのエリートである清河には、その現場の悲哀は一ミリも響かなかった。
「大声を出したところでルールはルールだ。お前はただの副使、私が全権を握る大使である。私の乗る第一船には、絶対にあの老僧は乗せん! もし連れてくれば、その場で唐の役人に引き渡すからな! 以上だ!」
清河は、プイッとそっぽを向き、奥の部屋へと引っ込んでしまった。
「…………この、クソお坊ちゃんがァァァッ!!」
古麻呂は、怒りで顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。
大使と副使の決裂であった。
***
その夜。
長安の迎賓館の裏庭で、古麻呂は普照を密かに呼び出していた。
「……普照よ」
「は、はい。古麻呂様……。やはり、鑑真様をお連れするのは無理なのでしょうか……」
すっかり諦めモードで涙ぐむ普照に対し、古麻呂は、ニィッと狂気を孕んだ笑みを浮かべた。
「誰が無理だと言った」
「えっ?」
「あの事勿れ主義の腰抜けエリートには、これ以上何も期待せん。ヤツの乗る第一船がダメなら……俺が指揮を執る『第二船』に乗せればいいだけの話だ」
古麻呂の言葉に、普照はビクゥッ! と肩を跳ね上がらせた。
「で、ですが! もし出航前の検問でバレたら……!」
「バレなきゃいいんだよ。要は、人間として船に乗せようとするから止められるんだ」
古麻呂は、周囲に人がいないことを確認し、声を潜めた。
「聞け、普照。俺が日本から持ってきた積荷の中に、空になった『唐櫃(木箱)』がある。出航の夜、闇に紛れて大和上をあの箱の中に押し込み、厳重に蓋を閉めるのだ」
「は、箱の中に!? 人間をですか!?」
「そうだ! そして、唐の役人には『これは日本からの特別な貢物であり、決して開けてはならない』とハッタリをかます! 賄賂も弾んで、検問を素通りさせるのだ!」
…………。
普照の脳内に、再び絶望の銅鑼が鳴り響いた。
(狂ってる……! この副使、目的のためなら手段を選ばない狂犬だ……ッ!)
唐の最高権威である盲目の超絶高僧を、木箱に詰めて密輸する。
バレた時の外交問題などという次元ではない。一歩間違えれば、唐の軍隊が遣唐使船を沈めに来るレベルの国家犯罪である。
「お、恐れながら古麻呂様! もし箱の中で大和上が咳でもされたら、一発でバレますぞ! あのお方は、空気を読むということを全くご存じない、天然無敵のお方なのです!」
「そこは気合いで黙らせろ! 息を止めさせろ!」
「六十を過ぎた盲目の老人を木箱に詰めて息を止めさせたら、船に乗る前にポックリ逝ってしまいますゥゥゥ!」
「ええい、四の五の言うな! やるんだよ! 橘諸兄様の無茶振りに応えるには、これしか道は残されていないんだァァァッ!」
古麻呂の目は、完全に血走っていた。
保身に走るエリートと、成果のために暴走する狂犬。
このブラック企業特有の板挟み状態の中で、普照の胃が痛みを伴って激しく自己主張を始めた。
***
翌日。
普照と古麻呂は、鑑真が滞在している寺を極秘裏に訪れた。
十年以上も失敗を繰り返し、視力まで失った鑑真であるが、そのオーラは微塵も衰えるどころか、むしろ凄みを増していた。
「……おお、普照よ。戻ってきたか。して、今回はどのような船に乗るのじゃ?」
目が見えないはずの鑑真は、普照たちの足音だけでその存在を察知し、ニコニコと微笑みかけてきた。
普照は、震える声で古麻呂を紹介し、彼が立案した「木箱密輸作戦」の全貌を、恐る恐る説明した。
「……というわけでして、大和上。その……誠に恐れ多いことではございますが、出航の夜、大和上には狭く暗い木箱の中にお隠れいただき、息を潜めていただくことに……」
普照は、あまりの不敬な提案に、土下座をしながらガタガタと震え上がった。
唐の皇帝すら傅く高僧に対して、「荷物として箱に詰められて密航してください」などと提案しているのである。普通の高僧なら、激怒して破門を言い渡すレベルの無礼だ。
(断ってくれ……! 頼むから『そんなみすぼらしい真似ができるか!』と一喝して、この狂犬の計画を白紙に戻してくれ……!)
普照の必死の祈りが天に届こうとした、その時である。
「なんと!」
鑑真は、パンッ! と手を叩き、満面の笑みを浮かべた。
「木箱の中に隠れて海を渡るとな! それはまた、非常に楽しそうな試練じゃな!」
…………。
プツン。普照の脳内で、何かの糸が切れる音がした。
「大和上……? た、楽しい、とは……?」
「そうであろう! 闇夜に紛れ、狭い箱の中で息を潜め、役人の目を欺く! まるで義賊の物語のようではないか! 肉の眼を失ったワシにとって、これほどワクワクする隠れんぼは初めてじゃ!」
「隠れんぼじゃないですゥゥゥ! バレたら全員斬首の国家犯罪なんですよォォォ!」
普照の血を吐くようなツッコミをよそに、鑑真は「ふぉっふぉっふぉ」と上機嫌で笑い続けている。
「さすが見込んだ通りだ、大和上! その御覚悟があれば百人力!」
古麻呂もまた、鑑真の狂気じみたポジティブさにすっかり当てられ、ガッチリと手を取り合って意気投合してしまった。
「おい普照! 箱の中に敷く柔らかい布と、和上が退屈しないように干し芋でも用意しておけ! 決行は新月の夜だ!」
「はいッ! ワシはいつでも箱に入る準備はできておるぞ!」
「ああっ……! なんでこの人たち、こんなにノリノリなんだ……! 俺の寿命が……俺の寿命がゴリゴリ削られていく……ッ!」
頭を抱えて泣き叫ぶ普照の姿など、狂犬と無敵の老僧の目には一ミリも映っていなかった。
こうして、事勿れ主義の大使・藤原清河には一切秘密裏に、副使・大伴古麻呂による『鑑真誘拐大作戦』は、実行へと移されていくのである。
出航の港で待ち受ける唐の厳重な検問。
そして、空気を読まない天然無敵のお爺ちゃんが、木箱の中でどのような爆弾を発動させるのか。
遣唐使船の甲板に、地獄の喜劇の幕が上がろうとしていた。




